[天皇]84 順徳天皇。隠岐のかたには何事かある

順徳天皇
1210~1221

幼少のころから才気煥発、しかも生母が後鳥羽上皇の寵愛が深かったため、
後鳥羽上皇にとっても気に入られる

後鳥羽上皇は、土御門天皇に弟順徳に譲位を強要し
順徳天皇が実現する

実権は後鳥羽上皇が握っているので
政治の面では、順徳色を出すことはなかったけれど
対北条で後鳥羽上皇と同一歩調を取り
承久の乱をお越し、敗北
佐渡へ配流となっている

九条良経の娘を中宮とし、懐成(かねなり)親王(次の仲恭天皇)をもうけている

特に文化面で大活躍
九歳のときに『新古今集』の竟宴(勅集の編集後の宴)に列席したほど、
早くから和歌をたしなみ、
在位中はしばしば歌会や歌合を行うなど本格的に歌道の研鑽に努めた

百人一首の選者藤原定家が歌の先生
メキメキと腕をあげる

18歳の時には、宮中の名所百か所を詠み
定家に
先生。採点お願いしまーす。

古来の歌学も研究して集大成『八雲御抄』をまとめる

百人一首では、はえある100首目が順徳院です
ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
(宮中の、古びた軒端に生えるしのぶ草を見るにつけても、偲んでも偲び切れない昔の御代であることよ)

朝廷の古来の儀式や風俗を研究した著作『禁秘抄』は、
今でも、歴史研究には欠かせない一冊

血の気の多い学者さん、ってところでしょうか。

いよいよ承久の乱を父と共に起こすぞって時の1ヵ月前
天皇という立場じゃどうかと思ったのでしょう
息子の、懐成親王(仲恭天皇)に譲位します。

承久の乱後
流刑地佐渡でも歌を詠んでいます。

いざさらば 磯打つ波にこと問はむ 隠岐のかたには何事かある

隠岐の島に配流された、父後鳥羽上皇を想う歌です。
佐渡にあるこの歌の碑

生涯佐渡の地を出ることは許されず
隠岐で後鳥羽上皇が亡くなったと聞いたあと
自ら食を絶って亡くなったそうです。
御歳46歳

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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