[百人一首]100 ももしきや。いよいよ。

ももしきや 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり

宮中の、古びた軒端に生えるしのぶ草を見るにつけても
偲んでも偲び切れない昔の御代であることよ

順徳院
後鳥羽上皇の息子になります。
天皇の順番としては、後鳥羽、土御門(つちみかど)、順徳となります。
土御門と、順徳は異母兄弟
最初に後鳥羽はお兄さんの土御門に譲位するんだけど
土御門はおっとりやさん。
自分と性格の似ている順徳が可愛くて仕方ないので
土御門に無理矢理譲位させる

順徳としても、後鳥羽を崇拝している
政治は、やりたがりのお父さんに任せて
自分は短歌を詠んだり等々、文化面でとても頑張る

承久の乱をお父さんと一緒に起こす訳だけど
お父さんより積極的だったとも伝わっています。

承久の乱については、こっちを見てね
[百人一首]99 承久の乱
[百人一首]99 承久の乱、その2

そして、その後、後鳥羽院は隠岐の島に、順徳院は佐渡が島に流された。
生涯許されることはなく、佐渡で息を引き取るんだけど
順徳院らしい死に方です。

これ以上の命は無用

自ら命を絶ったそうです。

鑑賞
建保4(1216)年、順徳院が20歳の時の作品
承久3(1221)年に承久の乱を起こすので
その5年前ということになります。

人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は
もそうでしたが、承久の乱のあとの作品とも受け取れるような作品を、敢えて持ってくる作戦ですね
配流のあとの作品は知りようもないし
仮に知っていたとしても、世の中に出すわけにはいきませんから。

ももしき、は元々「百磯城」
宮中のことになります。

しのぶは、
しのぶ草という雑草と、昔を偲ぶをかけている訳ですね
常套句です。

このあたりで、宮中を詠うとなると
一番気になるのが、宮廷丸焼け事件ですね

丸焼けの状態で詠っているのか、その前かで
頭に思い浮かべるべき状況がまるで違ってきます。

答えから言うと、丸焼けは、承久元(1219)年
丸焼けの前の時点での歌でした。

そうでしょうね
丸焼けを前に、しみじみとした歌は無理ですね
そもそも、古き軒端がありません。

後にこれを読む人は、勝手に二つのしみじみとした「しのぶ」をプラスして読んでくれる
ひとつは、承久の乱で没落した朝廷をしみじみとしのぶ
もうひとつは、丸焼けのあと、間に合わせで側だけ調えた、
新しいので風情なんて何もない、宮廷を見て
昔の宮廷は趣があったなあとしみじみとしのぶ

定家マジックでしょう。

百人一首
例によって藤原定家の配置の妙です。

基本的に百人一首は時代順に並んでいるので
後鳥羽院より、順徳院の方が後ろにはなります。

百人一首は、後鳥羽院のために作られたという側面を強く持っているので
後鳥羽院がラストでも良かったんでしょうけど。
そうしなかったのも、藤原定家らしさかも知れません。

親子の天皇で最後を飾る
対称させるために、最初のスタートもまた、天皇の親子
天智天皇と持統天皇の親子

終りました
私の中で一番長いシリーズでした。
全部取り上げるつもりじゃなく、見切り発車で始めたけど
そのうち、どんどん面白くなってきた。

歌の意味だけでは絶対に分からない、背景のようなものがとても大事だということが分かった。

昔は、短歌が生活の中で根付いていて
人生の中で、抜き差しならないほどのウェイトを占めていたことに驚いた。

ただ選んだだけの筈の定家が、伝えたいこともちゃんとあった。

定家さんありがとう。

そして、長く読んでくれた皆さんありがとう。

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