[天皇]96-2 後醍醐天皇。建武の新政

[天皇]96 後醍醐天皇。おしまいではなかった。始まりだった
の続きです。

久々の天皇シリーズ
建武の方のシリーズと時代を合わせたかったものですから
ちょっと小休止しておりました。

後醍醐天皇

建武のシリーズで幕府が滅亡したところまで行きました。
1333年。いざ散々 鎌倉幕府の滅亡です。
そしてこのあと、
1334年。一味刷新 建武の新政、となります。

[天皇]96 後醍醐天皇。おしまいではなかった。始まりだった
では、もともと幕府を倒す事が目的ではなかったと書きました。

当時の執権北条氏が、天皇の後継問題に口を出すのが気に入らなかっただけ
主導権を握る事が目的であって、
朝廷の下に幕府がいてくれればそれで良かった。

天皇の名前って、天皇が死んでから会議で決めるものなんだけど
後醍醐天皇だけは、自分で決めた。

なぜ、後醍醐にしたか
お父さんが後宇多だったからです。

かつて、宇多天皇・醍醐天皇の親子の時期に天皇が主導権をとった政治を行えた
藤原氏がたまたまその時期、幼少でしたので
菅原道真を起用した。

あの時の再来だ!

足利高氏、新田義貞、楠木正成ありがとね
やってくれると思ったよ

さあ、朝廷を再建するぞ
そして幕府も新しいメンバーでリニューアル
新しい「朝廷・幕府体制」を作りあげるんだ

足利高氏は問います
「どんな風に?」

ちょっと待ってね、まとめるから

公家たちを集めて作ったのが「建武式目」という法律

ご存じの通り、建武の新政って短期間で潰されちゃうから
建武式目もダメダメだったんじゃないかと思われがちだけど
そのあとの足利の室町時代も、「建武式目」が基本的な憲法的存在になる、すぐれもの

まずは、朝廷の再建
後醍醐天皇は配流されたので、その時、光厳(こうごん)天皇が即位していた。

廃位ね

そして、幕府
征夷大将軍は、足利高氏?

ちょっと待ったぁ

後醍醐天皇の息子、護良親王(もりよししんのう)が手をあげた

確かに、一番最初に反乱軍ののろしをあげたのは護良親王

この辺からちょっとおかしくなってくる

色んな訴訟の判定には全部私のはんこがいるからね
「綸旨」(りんじ)というのが必要だとする

全然物理的に回らなくなっちゃう

新しい組織も続々と
鎮守府、記録所、恩賞方、雑訴決断所

足利高氏は鎮守府
新田義貞は恩賞方

そうそう、足利高氏君
私の名前「尊治」の「尊」あげるね
って事で、それ以降、「足利高氏」は「足利尊氏」に改名

ありがたき幸せ

と言いつつも
心の奥ではモヤモヤ

さあ、このあとはまた建武シリーズで

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]96-2 後醍醐天皇。建武の新政」への1件のフィードバック

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