[建武]6 足利尊氏と新田義貞。えっ私?なんでまた

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
[建武]3 新田義貞、いざ鎌倉へ
[建武]4 新田義貞。行け行けーっ
[建武]5 鎌倉幕府陥落。不思議といふも類なし
の続きです。

滅亡後
鎌倉幕府滅亡後、関東の武士たちは不安になります。

ええっと、このあと我々は誰に仕えりゃ良いのかな

まあ、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした訳だから
新田義貞なんじゃないの
ってことで
新田義貞のもとに、着到状・軍忠状が続々と届きます
新田義貞率いる反乱軍にお味方しましたよ
今後もそちら様に忠誠を尽くしますので
恩奨くださいね

新田義貞はテキパキ処理

ところが1ヵ月ほどすると、違う情報がもたらされます。
京都で、後醍醐天皇と足利尊氏が中心になって新しい政治が始まった

あらま。
新田義貞ってひょっとして部長さんクラス?
京都へ急げ

新田義貞も、もともと天下を取りたくて始めた訳じゃない
私も、京都に行って忠誠を誓おうっと

行動を共にしていた、足利尊氏の息子、幼い義詮の取り巻きたちに
鎌倉は任せたからよろしくね

京都に着いた新田義貞

ようやった
従四位上の位を贈られ、上野介(こうずけのすけ)に任官

ちなみに、足利尊氏は、新田義貞よりももっと上の従三位

直接鎌倉幕府を滅ぼしたのは新田義貞の方なんだけど
新田義貞は大満足
それまで新田は無位無官
大出世なのです。

足利尊氏はもともと位が高いので、伸び幅としてはちょっと

足利尊氏
始まった建武の新政のことは天皇シリーズで書きましたので見てくださいね
[天皇]96-2 後醍醐天皇。建武の新政

征夷大将軍は、足利尊氏ではなく、護良(もりよし)親王でした。

確かに一番始めに反乱を起こしたのは、護良親王です

でも、面白くないなあ

天皇がおられないときに、護良親王はやりたい放題で無茶苦茶でしたよ
と、あることないこと告げ口

ほんまか
とんでもない奴っちゃなあ

成良親王がいらっしゃるじゃないですか
まだ、10歳ですが、私の弟、直義を補佐役につけますから
鎌倉を成良親王に任せられては?

ありがとう、そう言ってもらえると。

しめしめ
と思っておりましたが
事態は急展開します。

なんと北条の残党たちが、北条時行を盟主に掲げ、中先代の乱というのを起こし
鎌倉を奪還しちゃうんです。

直義、義詮、成良親王、そして反逆罪で幽閉されていた護良親王も含めて
ほうほうのていで鎌倉を逃げ出します。

その際、護良親王がこれ幸いと反乱側に付いちゃまずいと
直義は、護良親王を殺しちゃいました。

さあ、えらいこっちゃ

このピンチをチャンスに変えるのが足利尊氏のすごいところ
すぐさま、自ら兵を率いて、鎌倉へ討伐に向かいます。
さすがは尊氏、あっと言う間に片付けます。

ひとつ問題が。
後醍醐天皇に何も言わずに勝手に向かった。

ちょっと待ってくれ
俺は行けとも何とも言うとらん
しかも、息子を殺すとは何をしてくれてんの

さらに、これまた後醍醐天皇の許可を得ずに
中先代の乱の功労者に、勝手に恩奨を与え出した

待てえっ
全部私を通せって言ったよね

もちろんこうなることは計算ずく
密かに朝廷に歯向かう準備をしておりました。

ただ、朝廷に刃を向ける大義名分がない

京都にいる、新田義貞
あいつは、天皇家を害する悪者だ
その『君側の奸』を退治するために、今から京都に軍勢を向ける

えっ、私?
なんでまた
ビックリするような言いがかり

新田義貞は、足利尊氏があげた罪のひとつひとつに理路整然と反論し
後醍醐天皇に提出しました。

もともと、言いがかり以上の何ものでもないので
後醍醐天皇も
なるほど、君の言うことはもっともだ
足利尊氏の討伐を命ずる

田舎侍に過ぎなかった新田義貞は
思わぬ形で、天皇が最も信頼する武士へと取り立てられる事になりました。

ところが、これは幸せな事ではなかった。

足利尊氏という強大なる武者を相手に
このあと大戦争を繰り広げる事になるのです。

[]シリーズはこちら(少し下げてね)

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