[天皇]96 後醍醐天皇。おしまいではなかった。始まりだった。

さあ、とうとうやってまいりました、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
倒幕の戦あれこれは、足利尊氏、新田義貞、楠木正成と色んな役者が登場するので
別立てでシリーズにしようと思います。
まずは、後醍醐天皇自身が幕府を倒そうと思った理由から

後醍醐天皇
大覚寺統 1318~1339年

時代的にはこの辺り

大覚寺統のボス後宇多が考えた作戦は
後二条天皇の子供の邦良親王を天皇にしよう
さらに、その前に後醍醐天皇を中継ぎとして挟み
二回連続大覚寺統としてなし崩し的に皇統を奪い取ろう。

後醍醐天皇に譲位させたあと
自分は院政をそこそこにし
実質的な政治を後醍醐天皇にやらせ
後醍醐天皇-邦良親王二人体制を確立しよう。

それまでって幼少で天皇になり、実質はそのお父さんが院政というパターンだった。
ところが、後醍醐天皇が即位したのは31歳
さらに、意欲があるという珍しいパターン

中継ぎという思惑がちょっと違っていた。

1324年、後宇多上皇が亡くなった。

後醍醐は内心「よしっ」
中継ぎなんぞと言わせないぞ
後宇多さえいなきゃこっちのもん
次は自分の息子に継がせるんだ

邦良派としては、こりゃまずい。
何とか早めに譲位させねば。

幕府に猛プッシュ

後宇多の死から三ヵ月後、突然、後醍醐が謀反の罪に問われる事件が起きた。
いわゆる「正中の変」である

後醍醐天皇が謀反を企てた一回目となっているけど
どうも怪しい
後醍醐天皇本人は証拠不十分として、おとがめなし。
同じようなことは、両統迭立状態になってから何度もありました。
譲位を迫る常套手段とも言える

邦良派かも知れないし、持明院統かも知れないし、両方が組んで企んだかも知れない
ただ、本当の倒幕計画のきっかけにはなったかも知れない

その後、事態が急変する。
肝心の邦良親王が若くして亡くなった。

勢いづく後醍醐天皇
後醍醐の次は大覚寺統だった訳だから、亡くなったところで持明院統には行かず
大覚寺統の自分の息子

ところが、幕府は、皇太子を持明院統の光厳に決めた。

クッソー、幕府のやろう

自分の息子は母親の身分が低い。
確かにちょっと弱いのは弱い。

でも、その次の皇太子こそは自分の息子に

ところが1331年、幕府が、さらにその次を、後二条天皇の息子の康仁とした上で
後醍醐に譲位を迫った

嫌だ。絶対に譲位なんてしない。

この時、後醍醐天皇は倒幕を決意したと思う。
幕府が存在する限り、皇統は自分のところにはやってこない。

1331年4月、側近の吉田定房が幕府に、
後醍醐は「世を乱」すと密告したため、後醍醐は窮地に立たされた。

その8月、幕府が退位を強制しようとした矢先、
後醍醐は内裏を脱出し、奈良から笠置寺に逃れ、幕府の軍勢に抵抗したが、
しかし、一ヵ月後に捕らえられ、天皇の地位を追われた。

天皇には光厳が、皇太子には康仁が立てられた
翌32年3月、後醍醐は隠岐に流罪にされ、
後醍醐側近の貴族等も処刑された。元弘の変である

残念でした。はい、おしまい。
後鳥羽の時と一緒ですね
となりそうですが
おしまいではなかった。

始まりだった。

このあとの事は、新しいシリーズと、天皇シリーズ後醍醐の続きを
行ったり来たりしながら続けていこうと思います。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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