荒川、掘っちゃいましょう

荒川知水資料館で教えてもらったことがあまりに衝撃的だったので
それ以降、荒川に関して3冊本を読みました

まとめていこうと思います

江戸時代
徳川家康が関東全域に領地替えになってから
日本一広い関東平野をどうするか考えた

都市造りにおいて大きなテーマ
「水」
ひとつは交通。当時から明治に至るまで、最も重要な交通手段は道ではなく川
特に物を運ぶには人や馬ではたかが知れていて、船が必要
上方や関東近郊からの物資を江戸に運ぶ。舟運

二つ目に生産。農業には水が必要

三つ目に治水
度重なる洪水
そのたびに甚大なる被害が生じていた

大きく言うと、一つ目の舟運と二つ目の農業は水が多い方が良いが
三つ目の治水は水が多すぎると困る

利根川と荒川
この大きな川は最終的に合体して東京湾に流れ込んでいた
あまりに治水で問題が大きかったので
利根川と荒川を分けた
元々荒川は、荒ぶる川で荒川
氾濫を繰り返していた

利根川は東京湾ではなく、千葉の銚子へ
利根川東遷と言います
あっさり書きましたが、流域面積日本一の利根川の流れを変えるなんて
そんな発想をすること自体信じられません
当然人力で掘って変えるわけです
並大抵ではありません
利根川東遷についてはあまりに大きなテーマなので、以下を読んでいただくとして今回割愛
江戸を土地にした男

利根川東遷で治水は改善されましたが副作用が出た
お分かりですね。舟運と農業
水が減りすぎると困る

荒川西遷
舟運と治水では水の量だけでなく、川の曲がり具合の都合も逆になる
山道が真っ直ぐだと、急すぎて登れないので、わざとくねくねしています
川も同じで、流れに逆らって上るには帆を上げてがんばる訳だけど
まっすぐで急だと無理
治水面では、くねくねだとすぐに決壊

荒川はどうしたか
くねくね

利根川東遷である程度は良くなったんだし
どっちかっていうと舟運優先

とはいえ、江戸の中心地は洪水から守りたい
二つの堤防を作った
隅田堤と日本堤
普通、堤防って川沿いに作りますよね
隅田堤は良いとして、ずっと日本堤の意図することが分からなかったんですが
ようやく分かりました

川は溢れる大前提
溢れても、江戸中心地が水浸しにならないよう
もう少し上流に犠牲になってもらって、その地域を水浸し
水色で囲われた遊水地帯
その辺は田んぼが多いから良いんじゃない?
そんなこと言われちゃいました

もちろん人も住んでいる訳なので
その人たちは自己防衛するしかありません
水屋という建物で、高い土台の上に家を作り
洪水の時、それでもだめなら、2階で暮らせるように
ウォーキングした浮間地区だとこんな建物が今も残っています

明治時代
明治時代になりました
基本的には状況は変わらず、舟運優先
やっぱり、洪水はたびたび起こります

殖産興業なので、工場がどんどん増えていきます
そうなると、同じ洪水でも、田んぼよりけた違いの被害になる
舟運優先だからとも言っておれなくなります

そうこうしているうちに、鉄道が敷かれ出す

舟運優先も転換点にさしかかる

日清戦争後の明治29年、河川法が制定
そこでは、明確に洪水氾濫防御がうたわれる
明治元年 (1868) ~明治40年 (1907) の間で、
床上浸水などの被害をもたらした洪水は、10回以上発生

被害の大きかった洪水は、明治29年、明治35年 (1902)、明治40年でした。
特に、明治40年の洪水は甚大な被害をもたらしました。

河川法では、河川の改修はほぼ都道府県の役割
度重なる洪水被害に、荒川を抜本的に作り直すべきとの議論が沸き上がるものの
東京都の予算では限界がありました

そんな中で、明治43年に未曾有の大洪水が起きます


もうだめだ
新河川法の制定
河川改修は国が主導権を持って推進する

荒川放水路
無茶苦茶広くてほぼまっすぐな水路を荒川(今の隅田川)とは別に作ろう
4つの案が出ましたが、最も抜本的な案(④)

古くからの第一の宿場町の真上を通して潰しちゃうことには猛反対がおき
そこだけはちょっと迂回

理屈的に正しいのは分かるけど、そんなでかい川、どうやって掘るのよ
今のブルドーザーやショベルカーみたいなのはありません

その地域にはいっぱい人が住んでおります
鉄道も横切ることになるし綾瀬川や中川だって横切る

歩くと分かりますが、対岸ははるか彼方

よくもまあ、こんなのを人が掘ろうと思ったもんです
よほど切羽詰まり、よほど立案した人がすごかったんでしょう

その辺の話は次回

[江戸東京]シリーズはこちら(少し下げてね)

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