[首相]40-2 田中角栄。コンピュータ付きブルドーザー

[首相]40 田中角栄。苦学の時代
の続きです

田中角栄
1946年(昭和21)、田中は戦後初の総選挙に日本進歩党公認候補として立候補した。
政治顧問の大麻が「15万円出して、黙って1か月間こしに乗っていなさい。きっと当選するよ」
はーい

ところが、あえなく落選。
まったくよい勉強をした

そして1年後の総選挙に民主党からふたたび立候補
人海戦術で選挙活動に力を入れ、初当選を果たした。このとき28歳。

その後田中は、幣原喜重郎らと同志クラブ(のちに民主クラブ)を結成し、
小政党の離合集散が続くなかで、吉田茂の自由党と合同。
新しく発足した民主自由党の選挙部長となった。

1948年(昭和23)、民主自由党が少数政権を樹立すると、
田中は弱冠30歳で吉田内閣の法務政務次官に就任したが、
炭鉱国家管理法疑獄に連座して収賄容疑で逮捕されるという憂き目も見た(のち無罪)。
保守合同による自由民主党結成後の岸信介内閣では、
30歳で史上最年少の郵政大臣となった。
学歴のない大臣を迎え、
官僚たちは初めこそ冷やかな目で見ていたが、
間もなく彼らは驚かされることになる。
田中はなにも資料を見ずに細かなデータを早口で並べあげ、
豊かな法律知識を駆使してどんどん政策を推し進めたのだった。

その明晰な頭脳と強引なまでの実行力から、
のちについたあだ名が「コンピューター付きブルドーザー」である。

また、田中には官僚たちの結婚記念日や家族構成などの個人情報が頭にすべて入っており、
記念日などには彼らに温かな言葉をかけた。
パーティーにおいても土産の袋をふたつ渡し、
「ひとつは奥さんに渡しなさい」と言ったという。
官僚たちは田中のこの人間力にしびれ、
「この人のためにがんばろう」という気持ちを抱いたのだった。
田中は政治的に敵対する人間に対しても人情がこまやかだった。

1965年(昭和40)に天敵とまでいわれた社会党委員長河上丈太郎が亡くなると、
師走の冷たい雨が降るなかで2時間も立ちつづけ、野辺の送りをしたという。

郵政相時代に政界での地盤を固めたのちは、
出世街道まっしぐらである。
1961年(昭和36)、3歳で自民党政調会長、1962年(昭和33)には池田勇人内閣の大蔵大臣に就任。
翌々年の佐藤栄作内閣でもそのまま留任、
1965年(昭和40)には自民党幹事長となる。
肩書きだけでなく、田中は他の議員の追随を許さない実績をひっさげていた。
それは官僚を頼らず、自ら立案した法律(議員立法)を次から次へと成立させたことである。
住宅金融公庫法、公営住宅法、道路三法など、
田中が成立させた議員立法は合計33件で、
この件数を超えた国会議員はいまだにいない。
田中は1966年(昭和)に立てつづけに起きた自民党の不祥事(黒い霧事件)の責任をとって幹事長を辞任するが、
1968年(昭和3)に幹事長に復帰し、
1971年(昭和46)に通産大臣に就任。
綿製品の輸出をめぐってアメリカと長年にわたり難航していた繊維交渉をまとめあげた。
そして1972年(昭和47)、佐藤総理の退陣後、
党内多数派工作に勝利し、自民党総裁となる。

その日、新潟の実家では母フメが大勢の報道陣に囲まれていた。
田中は汗っかきである。
フメはテレビ画面に大写しになった汗だくの田中の額を、
思わずハンカチで拭いた。
その時に画面に映っていたのがこれ

38年前、裸一貫で故郷を出た男は、ついに宰相の座についたのである。

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