[関東の戦国]4 北条と上杉のバトル

[関東の戦国]1 戦国時代のベース
[関東の戦国]2 享徳の乱、長享の乱
[関東の戦国]3 北条氏現わる
の続きです。

公方家
北条氏綱のところで、氏綱の娘を足利晴氏に嫁入りさせたと言いましたね。
その間に男の子、義氏が産まれました。

義氏は下総葛西城に住みます。
出ました。以前亀有からウォーキングした、葛飾区の葛西城です。
北条氏康は、甥の梅千代王丸を正式な公方とします。
ここに、北条氏は、公方をも支配下に置くことになります。

鎌倉幕府における将軍と執権北条氏の関係が
ここへ来て、関東にて再現される形となります。

甲相駿三国同盟
1552年、北条氏康、武田信玄、今川義元の3人はお互いの敵に対処するため
甲相駿三国同盟を築く
お互いの婚姻関係によるかなり強力な同盟。

仮想敵国の一番は、上杉謙信です。

武田と上杉の川中島の戦いは、第一次が1553年になります。

北条氏政
1559年、北条氏康は隠居し、家督を息子の氏政に譲ります。
氏康45歳、氏政22歳。

1560年時点での勢力図は以下の通り

まだ、当主としては新米
この気を逃すまいと動いたのは上杉謙信
関東への猛攻が始まります。

その前年に上洛し、
上杉謙信が関東管領山内上杉家の家督を継いだこと
関東へ侵攻してよいとのお墨付きをもらってきています。

たちまち上野(こうずけ=群馬県)、下野(しもつけ=栃木県)の有力国衆たちを
服従させていきます。
上野下野に限らず、北条氏支配に不満を持つものたちが
どんどん上杉謙信側に寝返っていきます。
とうとうこれほどまで

同じ年に、桶狭間の戦いがあり
今川義元は、織田信長に敗れて討死しています。

北条氏は敗走一方
北条氏の本拠地の小田原城にまで迫ります。
北条氏は籠城作戦。
その間に、三国同盟の武田信玄や今川にも援軍を求めました。
武田は信玄自らが駆けつけてくれたし
今川も義元が殺されて大変なことになっているにも関わらず、援軍を送ってくれました。

そうなると、さすがの上杉謙信もたじたじ
一旦退去となります。
帰り際に、鶴岡八幡宮に参詣し、
我こそは関東管領なりと高らかに宣言
公方には、新たな古河公方として、義氏の庶兄藤氏を擁立して、
公方家の本拠の古河城に入れた

関東に二つの体制
さしずめ南北朝時代のようです。

大ピンチ。
氏康も悠々自適に隠居を決めこんでいる場合ではありません。
自分も積極的にしゃしゃり出てくるようになりました。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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