[首相]40-4 田中角栄。ピークを過ぎて

[首相]40 田中角栄。苦学の時代
[首相]40-2 田中角栄。コンピュータ付きブルドーザー
[首相] 40-3 田中角栄。日中国交正常化
の続きです

田中角栄
空前のブームの中での首相就任
そして、たぐいまれなる実行力で、就任後たった2ヵ月半で日中国交正常化

イケイケ
自民党執行部はこの機に乗じて衆議院を解散し、与党勢力を拡大しようと進言

もちろん田中も自信満々
11月13日、衆議院の解散を宣言し、公約を発表
あの「日本列島改造論」

ところが12月10日の投票結果は、予想外の敗北だった。

自民党の議席は追加公認を含めて284議席で、
改選前から16議席も減ってしまった。

敗因は、田中が強気に出て候補者を乱立させたこと、
「日本列島改造論」に対し、
野党がいっせいに「大資本優遇」「公害ばらまき」と
批判キャンペーンを展開したこと、
そして実際に「列島改造論」が大企業の土地投機を過熱させ、
地価が上がり、物価も上昇していたことだった

不思議なものです。
空前のブームと、いきなりの実績なのに
田中にとって、日中国交正常化のその時がピークだった

第2次内閣
総選挙で敗北したからには内閣の陣容を立て直さなければならない。
犬猿の仲の福田赳夫を第1次田中内閣では冷遇していたが
そうは言っておられなくなった

福田派を取りこみ、挙党体制きょとうをつくることを決意。
福田の入閣については
本人の「軽いポストがよい」という希望で、
行政管理庁長官というポストに決まった。

こうして、第2次田中内閣がスタートした。
田中内閣による昭和46年(1973)度予算は、
前年比、一般会計24.6%増、財政投融資28.3%増の超大型となり、
内需拡大と社会福祉の拡充を目指した。
だが、この積極財政はさらなる土地投機熱をあおり、
地価高騰を招く結果となる

田中が選挙での敗北を挽回しようと次に打ちあげたのが、
「小選挙区と比例代表の並立制」導入である。
現在では定着したこの制度も、
当時は非常に唐突の感をもって受け取られ、
野党から「大政党に有利」「選挙区の区切りが恣意的」と批判が集中。
内閣支持率は27%(不支持率4%)に急落し、
田中は導入を断念せざるをえなかった。

1973年(昭和48)7月5日、
巻き返しをはかって訪問したソ連では、
北方領土問題についてソ連側の譲歩を引き出すという成果をあげたものの
それを吹き飛ばす嵐が巻きおこる。

第4次中東戦争勃発に起因するオイルショックである。
エネルギーや化学製品の原料を中東の石油に頼る日本経済を直撃し、
石油や化学製品の価格が暴騰した。
11月には卸売物価が前年同月比22%上昇という異常事態となった。

このかつてない経済危機のさなかに、
愛知揆一大蔵大臣が過労で急死。
苦慮した田中は、ライバル福田に頭を下げて蔵相を引き受けてもらい、
経済政策を一任した。

記者会見で福田は
「日本列島改造論は田中総理の個人的見解であり、私論だ」と言い切る

さらに
明けて1974年(昭和49)1月、
田中は東南アジア諸国を歴訪。
このころ田中は顔面神経痛を患い、
顔がゆがんでしまうという辛い症状をおしての訪問だったが、
現地で反日デモが吹き荒れ、田中にとっては報われない外遊となった。

こうしたなかで、田中の支持率はどんどん落ち
そして迎えた参議院選挙は
奇しくも田中政権が産声をあげた7月7日に投票が行なわれ、
自民党は議席を減らす敗北を喫する

参議院は7議席差で与野党伯仲の状態となる。
それ以上に田中政権にとってマイナスになったのは、
金権選挙への批判が噴出したことである。

そして10月、『文藝春秋』に掲載された
田中の金脈問題記事によって
いよいよ田中は追いこまれる。

11月11日の内閣改造から7日後の18日、ニクソンの辞任にともなって
アメリカ大統領に就任したフォードが来日。
フォードとの会談を花道として
田中は11月26日、ついに退陣を表明することとなった。

当初の人気からすると、2年5ヵ月
そうなのかぁ、と思う

ただ、ご存知の通り、これで終わった訳では無かった

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です