鹿鳴館のヒロイン、大山捨松。続き

大山捨松の続きになります。
前回はこちら

永井繁子が
そうこうしているうちに転機が訪れます。
言わば戦友のひとり永井繁子が結婚。
その結婚披露宴で、ある人が捨松に一目惚れしたんです。

大山巌(おおやまいわお)
西郷隆盛、西郷従道(つぐみち)兄弟のいとこ
後の元帥陸軍大将です。
よりにもよって、薩摩藩
焼玉押さえで押さえたあの大砲の砲兵隊長
何という歴史のいたずらでしょう。

大山巌(41歳)には3人の娘がいましたが
先の妻に先立たれていました。
バツイチ、3人の子持ちという事です。

山川家は即刻断りました。

諦められない巌。
今度は西郷従道に説得に出向いてもらいます。
時の政府高官です。

まずいっ
えらいひと来ちゃったよ。

断る理由に窮して
「私どもは賊軍ですから」

そうすると西郷従道
そうおっしゃるなら私どもも逆賊の身内です。

西南戦争が終わって5年ほど。
西郷隆盛は「逆賊」だったのです。

こりゃもうあかん、と山川家
捨松よ
こんなふうになっちゃったんだけどどうする?

そうだったの?
でも、そもそもどんな方かしら。
お付き合いさせてもらってから決めるわ。

今ならごく普通の考え方だけど
当時は結婚は家が判断するもので
本人はイエスかノーかしかなかった。

これには一堂驚いた。

デートしましょうってことになったんだけど
一方は、こてこての薩摩弁
一方は、日本語がそもそも覚束ない。
意思疎通が全く図れないまま。

ええい、まどろっこしいと
ついつい捨松が英語で喋っちゃったら
なんとそっちの方が話が弾んだ。
実は巌もヨーロッパへの留学経験があった。

デートを重ねて3か月後、捨松は結婚を決意します。

親友アリスベーコンへの手紙でこう書いています。

「ある人の幸せが、私の手にかかっているということは、なんて素晴らしい事なのでしょう。」

良いですね。
男性に幸せにしてもらおうと思っていないところがすごいです。

鹿鳴館
明治16年あの鹿鳴館が完成します。
その完成したばかりの鹿鳴館で二人の結婚披露宴が行われます。

外交上必要だった鹿鳴館
でも器は作ったものの、
外国の要人をおもてなし出来る人材がいなかった。

はい、そこは得意分野です。
ようやく捨松に活躍出来る場が出来上がった訳です。
3か国語堪能な語学
ジョークを織り混ぜながら会話する機転
ドレスの着こなし、社交ダンス。
何と言っても、美しい顔立ちと気品のある振る舞い。

でも、大山夫人になっていなかったら捨松にその役割が回ってきたかは分かりません。
逆に捨松の大活躍で、巌も出世の階段を昇っていったのかも知れない。
助け合いの理想的な夫婦像。

看護婦学校
鹿鳴館で大活躍。

でもそれだけで終わらないのが、捨松のすごいところ。

有志共立東京病院(後の東京慈恵会医科大学附属病院)を見学した捨松は
看護婦のいないことに驚く。

看護学校を作りませんか。
高木院長に、アメリカでの経験を踏まえ、その必要性を熱っぽく語る。

この人一生懸命だな
変にはぐらかさず、ちゃんと向き合って返答しよう。

全くの同感です。
でも、恥ずかしいかな、それを実現するためのお金が全くありません。

なるほどそういうことですか
正直に言っていただいてありがとうございます。
それでしたら、私も一生懸命知恵を絞らせていただきます。

捨松が思いついたのは、日本初のチャリティーバザー。

品揃え、告知、販売、全て、捨松自らが陣頭に立ち、政府高官の妻たちを指揮しました。
バザーは、鹿鳴館で三日間にわたって行われ、大盛況。
来場者は一万二千人にのぼり、収益金も、八千円。
大学教師の月給が約三十円という時代ですから、八千円という収益金は莫大です。

高木院長は大感激。
日本初の看護学校が設立されます。

日露戦争
明治37年、日露戦争がおきます。
大山巌は、その陸軍の最高責任者である満州軍総司令官になりました。
捨松は、看護師の技術を活かして、日本赤十字社で戦傷者を看護。
政府高官夫人たちを動員して、募金活動や包帯作りの活動なども行いました。
鹿鳴館バザーを皮切りに、日本の上流社会に、アメリカ流のボランティア精神を定着させていったのです。

世界中の予想を裏切り、日本優位に進んでいきます。
もしそこで終結させられれば、日本の勝利という形になります。

アメリカに間に入ってもらおう。
留学で築いた人脈に加え、鹿鳴館で培った全てを通じて
アメリカに働きかけていきます。

もちろん捨松だけの力ではありませんが、大きな影響を及ぼします。
結果、アメリカが動いてくれて、日本勝利の形になります。

津田梅子
いよいよ、津田梅子の登場ですよ。

津田梅子は、捨松や永井繁子と生き方を異にします。
徹底的に縁談を断った。

二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです

華族女学校で英語の教師として活躍。
ただ、捨松と違い、上流階級の人達は苦手だったらしい。
来日したアリスベーコンの勧めで、再度留学
帰国して、また英語教師

その一方で教育の熱意が大きく膨らみ、津田塾大学の前身、女子英学塾を開くこととなる。
そこで、良妻賢母教育が主であった、女子教育のあり方を大きく変えていく。
社会からの圧力も大きかったため、自分の考えを貫くため
資金援助はほとんど受けていない。

捨松としても、親友の挑戦をずっと手伝い続ける。
でも、その趣旨から、資金援助はしていないし
捨松こそ教師に向いていると思うが、そういった手伝い方もしていない。
あくまでも裏方で、手足を動かす、無償でのお手伝い。

おそらくお互いに、自分が出来ないことをやっている親友が羨ましく
差し出がましくない、相手を尊重したお手伝いをしたのだろう。

思えば、捨松の人生。
有り余る発想力、行動力、リーダーシップを持ちつつも
常に誰かを応援する人生だった気がする。
そうしながら輝き続けた、不思議で面白い、魅力的な人生。

ところで明日、今回の大山捨松さんのブログに関するちょこっとしたこぼれ話を書きますね

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