宝船で良い夢見よう

どんな初夢を見られましたでしょう。

まだ見てない?

ではまだ間に合いますね。
おまじないを試してみてください。
弁天さんと仲良くなれる夢を見れるかも。

今日は昨日の続きで、宝船になります。

宝船
そもそも、宝船の始まりはというと
昨日お話しした、悪い夢を川に流そうという発想から。

日本人は何があっても
「水に流す」という発想が出来て素晴らしいと思っているんですけど
その一環ですね

回文
昨日お話しした、回文の短歌をもう少し解説していきましょう。

なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな
(長き夜の 遠のねむりの 皆目ざめ 波乗り船の 音の良きかな)

なーみをチャプチャプチャプチャプかき分けて

ああ、船に当たる波の音は良い音だなあ
という下の句は良いとして

上の句はちょっと不思議
そんな音聞いていると、みんな目覚めちゃうよ
えっ?そうかな
むしろ寝ちゃうよね
うつらうつら

無理して上から読んでも下から読んでもおんなじ回文にしているわけだから
文句言うな!でしたね

失礼しました。
起きちゃいます起きちゃいます。

言葉遊びが色々入っています。

「なみのりふね(波乗り船)」と「みのり(実り)」
「とおの(遠の)」と「とおの(十の)」、
「長き夜(夢見が続く)」や「長き世(長寿)」

長寿と船が読まれているとなると
当然、宝船のテーマソングとして採用されるわけですね。

七福神が宝船に乗った訳
最初の、船で悪い夢を流そうという発想は
船で、幸せが海の彼方からやって来るという風に
形を変えていき
宝船発想に結び付いていきます。

最初は米俵だけ積まれてたんですが
乗組員として採用されたのが七福神です。

身の回りには良いことなんてないけれど
いつか、海の向こうから幸せはやって来るのだ

これは、白馬に乗った王子様的発想で
ある意味ベーシックな発想方法かも知れません。

なぜ海の向こうからなのか

七福神の代表格、恵比寿が如実に表しています

恵比寿さんは、もとは誰かという事で蛭子命(ひるこのみこと)説と事代主命(ことしろぬしのみこと)説に分かれました。

恵比寿さんは捨て子だけど


どちらにしても、古事記では海の向こうに行ってしまう。

いつか船に乗って帰ってきて、我々に福をもたらしてくれる
恵比寿さんはその信仰の最たるものです。

そもそも、えびすという発音は「夷」や「戎」と書いて海の向こうの異民族のこと
船に乗ってやって来る必要があります。
鯛釣ってるしね。

では、その他の6人は?

実は、恵比寿さんだけが日本人で
あとの6人は外国の神様
インドと中国です。

船に乗らないとそもそも日本に来れないんです。

背景
さらにいうと、福は船に乗って外国からやって来るという
イメージづくりが必要でした。

天皇を中心とする、日本の支配者層は
渡来人、すなわち、始めから日本に済んでいた人ではないからです。

説は分かれてはおりますが
普通に考えて
釈迦がインドで生まれた頃って
日本では弥生時代が始まったばっかり

むちゃくちゃ差があります。

鉄を作る技術等々優れた技術をひっさげて来た人たちに
かなうわけがありませんよね

でも
長く長く暮らしてればもうそれは日本人だから
全然問題ないと思うんですけどね

カモフラージュのために
古事記を作って、もともとここにいた神様ですよ
って物語を作ったりしてる

私個人的には
帰るところはないんだ
ここが私たちの国なんだ
と前向きな主張だと思っています。

ということがあるので
福は船に乗ってやって来る

良いんじゃないでしょうか
結果として、この豊かな国が出来上がった

ハッピーニューカントリーですね

布袋さんはただの貧乏人

しんがりは、布袋さんにしました
七福神を一人ずつ紹介しようと思ったのは、この布袋さんに魅せられたからなんです

神じゃないのに
布袋さんは、唯一実在の人物。
中国の和尚さん。
もっというと貧乏な坊さん。
正直言って乞食に限りなく近い。

着物ははだけ、でっぷりとした腹が出ただらしない格好。
大きな袋を持っているのは、大黒さんのように袋から願ったものが出てくるというたぐいのものではない。
人に恵んでもらったものを少しだけ食べて、残りは袋の中に入れておくため。
本名は別にあるが、大きな袋を持ち歩いているので、通称、布袋和尚。
各地を転々とし、施しを受けながら生活をしていた。

なぜ七福神なのか
あり得ないです。
すごい。とてもすごい。
神でも何でもない。ただの人間。
しかも、貧乏。
福の神とは正反対。
この人を七福神に入れようという考え方がものすごいと思う。
江戸時代の何とかいう偉い人が、どうしてもこの違和感のある布袋が気に入らず、
七福神に入る資格無しとして運動を繰り広げたらしいが結局は外れなかった。

ひととなり
ただの貧乏人なのに各地でやたらに人気者。
みんなに愛されていた。
本人にも回りの人にも笑顔が絶えなかったという。
回りにいっぱい子供が寄ってきて、いつも子供をいっぱい引き連れて歩いていた。

雪の降る日に布袋さんの回りだけ濡れなかったという
予言したものがピタピタ当たったとか
橋の欄干の上に膝を立てて座ったとか

どうでしょう。
こういう人がいたら、逆に何かあるぞと。
何でいつも笑顔なんだ。子供にかこまれているんだ
ひょっとして、あんななりをしているけど、きっと名のある人に違いない、みたいな。

弥勒菩薩(みろくぼさつ)
布袋さん自身は弥勒菩薩が好きだったらしい。
弥勒菩薩についての書き物を残している。

弥勒菩薩は釈迦没後、56億7000万年後に登場し、世界を救うと言われている超ウルトラスペシャルな仏様。
となると、急に、布袋和尚は弥勒菩薩の化身だってことになってしまう。

そんなアホな、なんだけど。

庶民の思いと福の神
福の神って、もっと富が欲しい、もっと長生きしたい、もっと出世したいという願望を具現化するもの。
良く言えば、福かもしれないけど、悪く言えば欲。

そんなの神様に頼らず自分で何とかすれば?
みたいな抵抗感や
そもそも福を得ることが幸せなの?って
そもそも論。

貧乏でもええんちゃう?
メタボでもええやん
本人が幸せやったら
いつも笑顔が絶えないみたいな人生なんだったら、他になんも要らんのと違う

そんな福の神に対するアンチテーゼみたいなものが、布袋なんかもしらん

庶民はほんとに、大金持ちや、超長生きな仙人や、絶対に負けない武将や、何でもできちゃう超多才で美人なスーパーウーマンになりたいんだろうか
ひょっとすると、そんなものには、憧れてないのかもしれない。

仕事も家も財産もなーんもなくても、ただただ笑って生きていける
そんなおバカさんに憧れているのかもしれない

何がすごいって、そんなアンチテーゼが七福神の中に存在していること。
明らかにおかしいその存在を福の神だと言い切っちゃっていること。

布袋さんは今もスーパーマン、スーパーウーマンと同じ宝船に乗り込み
明らかな肥満体をさらけだし
根拠のない自信に満ちあふれ、ガッハガッハと笑い続けているのだ。

俺にまかしとけぃ
ってね

福禄寿と寿老人は同一人物

福禄寿と寿老人は七福神の中では、あまり人気がない
最後にメンバー入り

まとめて2人分解説しちゃいましょう

福禄寿
福禄寿は天がついていないので、インド出身ではありません
中国です
仏教でもありません
道教になります

道教は、民間の信仰を老子が取りまとめたもの

福禄寿って、本来は名前ではないんです。
道教で中心となっている3つの信仰を並べただけ

福は全般的な幸福なんだけど、後継ぎに恵まれ子孫が繁栄していくことに限定することもあるようです。
禄は、財産。経済的に豊かになること
寿は長寿。長生きですね。

福と禄と寿の3つの顔を持つ神様の像が作られたりして、神様の固有名詞っぽくなっていく

そうこうしているうちに、仙人と結び付く
道教では、修行を積むと超長生きな仙人になれる

道教ではさらに占星術も盛んなのだがそれとも結び付く
北半球では北極星はいつでも見られますよね。
南極星といって、滅多に見られず、砂漠の水平線ギリギリに見られることがあるという貴重な星がある。
古くからこれを見ることができると長生きできるという信仰があり、南極老人星と呼ばれている

福禄寿は、この南極老人星の化身であるところの仙人だということになる
次第次第に、その姿も統一化されていく

長い頭、長い顎鬚、大きな耳たぶをもち年齢 千歳という。
鶴と亀を連れて、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖をもつ姿が特徴である。

道教では、キリスト教やイスラム教のように唯一絶対の神を信仰するわけではないけれど、
3つの中心的な信仰を一人にまとめちゃった訳なので、
福禄寿だけで、ほぼ全て事足りることになっちゃった。

寿老人
先程福禄寿の姿が統一化と話しましたが、厳密には正確ではありません。
1つに統一化ではなく、2つに統一化

「南極老人星の化身の仙人」という表現を見ると
福・禄・寿のうち、寿の要素しか見えてきませんね。

「南極老人星の化身の仙人」としては2つに姿が統一化されるのです。

もう一方の姿は
にこやかな微笑みをたたえ、手には巻物を括り付けた杖、そして団扇や桃などを持ち、鹿を従えた姿

そうです。
寿老人なんです。

福禄寿と寿老人は同一人物です。
正確に言うと、福禄寿の1/3の「寿」だけと寿老人は同一人物です

本当に不思議。
じわじわ、姿形が統一されていくなかで、一つには統一できなかったというのはむしろ自然なことかなとも思う。
でも、明らかに同じ人だってみんな知っている。
色々調べたけど、同一人物だということに異を唱えている人は一人もいなかった。
にも関わらず、七福神の6番目と7番目に入っちゃう

この違和感は、やっぱりあったみたいで、
江戸時代に七福神を解説した本が2つほど見つかっていて、その中では寿老人は入っていない
一つ目は、寿老人の代わりに吉祥天が
二つ目は、寿老人の代わりにショウジョウという猿が入っている

それでも、寿老人を外そうという動きは力を持たず、寿老人で固まっていく。

それだけ、長寿に関しては願いが強いって事なんでしょう。
庶民としては、経緯なんてどうでも良いじゃない。
とにかく長生きしたいんです。
って、そういうことかな。

それで、七でいいの?って疑問については、
いやいや、福禄寿は3人分だし、弁財天なんて何人分よって話かも

まあ、固く考えなさんな、って事ですね

弁財天はプリティスーパーウーマン

三人目の福の神は、毘沙門天になったり、弁財天になったり
弁財天は七福神で唯一の女性です。

最初
弁財天も天が付くので、元々はインドのヒンズー教の神様
仏教に取り入れられ、その後日本へという経緯は、大黒天や毘沙門天と同じ
弁財天も最初は女性でありながら恐い神様。
最初、河(水)の神であったが、やがて音楽の神、言語の神となる。
日本に伝わった当初は、弁才天と呼ばれた

マイナーなところから
実は女神としては、吉祥天(きっしょうてん)の方が一番人気。
吉祥天は鬼子母神(きしもじん)の娘
実際に七福神でも吉祥天が入っていたこともある

そこで、ライバルに追い付け追い越せ

大黒天みたいに他のものとくっつきながらご利益を増やし、人気を獲得していく。

すごい勢いで
まずは神道のいちしきまひめ
このあたりは、オオクニヌシノミコトとくっついた大黒天に似てますね

もともと、河の神だったところから、水とかなり関係が深い

神社では、広島の厳島神社
滋賀県は長浜市竹生島の宝厳寺
江ノ島の江島神社

水に関連し、蛇や、龍と関係が強くなり
蛇の神、宇賀神ともくっつく

そのたびにご利益が増えていく
最初は川の守り神
弁は弁舌の弁なので弁舌の神
次に琵琶を持つようになって、音楽の神様、学芸全般へ
蛇の宇賀神とくっついたあたりで財宝的な要素が強くなっていく

合併で大きくなったソフトバンクみたいですね

決定的に
決定的にライバルを大きく追い越すのは、何と合併したときだと思います?

はい、その通り

吉祥天そのものです。
吉祥天と同一視されていくのです。

そんなことされちゃあ、吉祥天としても勝負のしようがありません。

元々、吉祥天は超美人。
綺麗すぎて取っつきにくい。

吉祥天と同一視されることで、美貌を手に入れ、それでいて、庶民に愛される親しみやすさも兼ね備える。
怖いもんなし。
吉祥天が北川景子なら、弁財天は上戸彩って感じかな

この辺で名前が変わる
弁才天から、弁財天へ
元々吉祥天は財の神の要素が強いので、福の神に不可欠な財の要素を決定的に持つことに
銭洗い弁天とかもそうですよね

そして、女性だということで、縁結びや安産まで
どこまでスーパーウーマンやねん
弁天さんという愛称までつけてもらえる。

はっきりいって弁天さん一人だけ拝んどきゃ大丈夫っちゅうくらい

まあ、七福神の中で女性部門を一手に引き受けましょうってことなんでしょうね
恐るべし弁天さん

毘沙門天の
ところで、吉祥天は、毘沙門天の奥さんなんだけど
ちゅうことは、弁財天も毘沙門天と夫婦?
そのわりには、宝船の中で、横にいる姿をあんまり見ない
大体、弁天さんの横は福禄寿が多い
仲悪いんかな?
それとも倦怠期?

弁財天に聞いたら、
いやいや、ひとの旦那様ですからって言うんでしょうね

吉祥天との関係は逆の説もあり、吉祥天が七福神の座と毘沙門天の両方をみずから弁財天に譲った、けなげな女性
弁財天は美人だけど、きつい女性という説も
となると吉祥天が上戸彩?
まあ、とらえかたは人それぞれという事にしておきましょう

索引はこちら
[七福神]シリーズはこちら(少し下げてね)