[家重]9 将軍に

[家重]1 まいまいつぶろと呼ばれた将軍
[家重]2 家重様の目と耳になってはならぬ
[家重]3 どんな駒でも、前に進むことができる
[家重]4 お庭をともに歩きとうございます
[家重]5 二人だけの合図
[家重]6 まことでございます
[家重]7 もし口が聞けぬのなら
[家重]8 家重様にお伝えせずにいて、よいはずがございませぬ
の続きです

将軍に
お幸の産んだ家治(いえはる)は成長し、次第にその聡明さを表していった
吉宗の家治をとても可愛がる

本来ならば、随分前に吉宗が次期将軍を決めているはずが
ずっと吉宗は決めかねていた

皆の解る言葉を発することのできない家重
対して、とても聡明である弟の宗武
誰が見ても宗武の方が次期将軍にふさわしい
ただ、長男が継ぐという慣習を崩してしまえば、また、以前の兄弟間の骨肉の争いが再燃し
安定しなくなるだろう

家治の誕生、成長、その聡明さ
吉宗は、ずっと保留にしてきたその決断を下せる条件が整った

近親の者が集められた

来月余は将軍を辞すと決めた
九代は家重である。皆、異論はなかろうな

老中の松平乗邑(のりさと)が口を開いた

上様は側用人(そばようにん)制を復されるおつもりでございますか

いいや、側用人など二度と置かせぬ

ならば、我ら老中の前に座しているこの者は何でございましょうか
間に忠光を挟むとなれば、家重様のお言葉かどうか分かりませぬ

その方も忠光の事はよう知っておろう。忠光は勝手に言葉を作ったりはせぬ

ですが、忠光も己の考えは持っておりますぞ

何が言いたいのじゃ

忠光は自分の息のかかったお幸を大奥に送りこんでおりまする
家重様が将軍となられますならば、忠光は遠ざけてくださいませ

家重、そのほうなにか申さぬか

家重は怯んだ様子もなく、広間の隅にまで届く声で何かを言った

忠光、何と申しておる

だが、忠光は額を畳に擦りつけて口を開かない

伝えよ、忠光。余の命じゃ

忠光を遠ざける、くらいなら、私は将軍を・・・・

忠光! 続きを申さぬか

だが、忠光は突っ伏したまま、頭を振っている

ここで、将軍になりたくないなどと言おうものなら、そうなってしまう

忠光が言わぬなら、私が言いましょう

皆が振り返った先に、家治がいた

お祖父様、私は子ゆえ、少しは父上の言葉が分かります。代わりに申し上げましょう

権臣だというのであれば、忠光を遠ざけよう。私は将軍ゆえ
父上は、そう仰せになりました
私が権臣などを作るかどうか見ておれ、と啖呵を切られたのだと思います
だとすると、お祖父様にお伝えするにはあまりに不遜ゆえ
忠光は口を開かなかったのでしょう

皆が驚いた
知らぬ間に、家治はこれほどに機転の聞く事を言えるようになっていた
吉宗は、満面の笑み

余は、今日ほど嬉しいことはない
家重といい、家治といい、大したものじゃ
余は、子にも孫にも恵まれた
これで安心して引退できる

そのほうが「待った」を入れたゆえ、まことの家重と家治を知ることができた。乗邑、礼を申すぞ

家重は、ついに将軍を宣下した。
元服から20年。開ければ36歳になる11月の事だった

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] 大御所

徳川家康は、征夷大将軍となって江戸幕府を開いた2年後の慶長10年(1605)4月16日、
将軍職を二代秀忠に譲った。
そして大御所と呼ばれるようになる。

鎌倉時代以来、将軍の父の住む建物や、隠居した親王、摂政、関白が住む御殿を大御所と呼んだことから、
いつしか将軍の父や前将軍自身をも大御所と呼ぶようになっていた。
家康も、駿府に隠居して、大御所と呼ばれるようになり、
しかも死を迎えるまで、将軍以上の権勢をふるいつづけた。

二代秀忠も、引退して西ノ丸に住んでからは大御所と呼ばれ、
これ以降、前将軍は西ノ丸に住むことが慣例となった。

家康、秀忠、8代吉宗、11代家斉が大御所と呼ばれたが、
とくに家斉は天保8年(1837)に引退してからも実権を握ったままで、
天保12年(1841)に死ぬまで「西丸御政事」がつづいたことから、
将軍在任中をふくめて50年にもわたる家斉の治世は、
「大御所時代」と呼ばれている。

こうした幕府での大御所の権勢をふまえて、引退後にも隠然たる力を持つ人のことや、
ある分野の最高権威者のことを、大御所と呼ぶようになった。

気をつけないといけないのは、
「引退後にも隠然たる力を持つ人」と「ある分野の最高権威者」の両方の使われ方をするということ
本人に対して誉め言葉として使うのは、前者ととらえられる可能性があり
私はまだ引退していないんですけど、と言われかねないので避けたほうがいい

本人がいないところでの話題として使うほうが無難だろう

[ことば]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]108 後水尾天皇。和子の入内

天皇シリーズ、江戸時代になります

後水尾天皇

後陽成天皇には、母を同じくする一宮(良仁親王)、二宮(幸勝親王)、三宮(政仁親王)の三人の皇子がいた
譲位するとすれば一宮になるが、一宮を嫌っていた

公家の密通事件や、家康の五女市姫が死去することで譲位は度々延期されたが
後陽成天皇の粘り勝ちで、
慶長16(1611)年3月27日、三宮が後水尾天皇天皇として践祚(せんそ)する

和子(まさこ)
後水尾には、2代徳川秀忠に五女・和子が生まれた翌年から縁組みの話が出ている。
慶長19(1614)年3月には、正式に入内(じゅだい)の宣旨が出された
この時代、天皇の外戚になることにさほど意味はなかったが、
家康は家柄が良いわけではないので望んでいたのだろう

元和6(1620)年6月、和子は入内し、女御(にょうご)とされた。
3年後には女一宮が誕生し、久しく絶えていた立后の儀が行われ、和子は中宮(ちゅうぐう)となった。
中宮は皇后のことで、これまでは皇族のほか藤原氏しかなれなかったから、
徳川家の娘が中宮になるのは極めて異例であった。
徳川家が摂関家と並ぶ家格となったということである。
家康・秀忠は太政大臣にまでのぼり、歴代将軍は将軍宣下とともに内大臣に任官し、
のち右大臣にのぼっている。
後水尾と和子の間には、皇子二人、皇女五人の七人の子が生まれた。
しかし、男子はどちらも夭逝した

禁中幷公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)
後水尾の在位期間は江戸幕府成立期であり、幕府の厳しい朝廷統制が行われた時代である。
これは、必ずしも朝廷や天皇に力があったから圧力をかけたということではない
正直、弱体化させる必要がないほどだった
新しい時代にふさわしい朝廷と天皇にしようということだったと思われる。

幕府は、元和元年(1615)7月、「禁中幷公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)を定めて
朝廷統制の方針を制度化した。
これは、第一条の「天子諸芸能の事、第一御学問也」という条項で有名である。
天皇を学問に専念させることで政治から遠ざけようとした、と説明されることが多いが、
ここで学ぶことを推奨されているのは、『貞観政要』(じょうがんせいよう)や
『寛平御遺誡』(かんぴょうのごゆいかい)である。

前者は、古来から帝王学の教科書とされてきた唐の太宗の政治に関する言行を記録した書、
後者は、宇多天皇が醍醐天皇への譲位に際して与えた書置であり、ともに政治学の書物である。
幕府は、天皇にあるべき君主の姿を学ばせ、そうした君主にしようとしたのである。
さらに『禁秘抄』(きんぴしょう)を学ぶべしとある
禁秘抄は順徳天皇が書いた有職故実書で
宮中行事・儀式・政務全般にわたる天皇として心得ておくべき故実を記したものである
今まで、おろそかにされてきた、天皇としての神事をちゃんとやってね、と言う事

武家諸法度(ぶけしょはっと)は260年の江戸時代を通じて度々変更されているが
禁中幷公家諸法度の方は、幕末まで効力を持ち続けた不磨の大典だった

続きはシリーズの次回

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[縄文]4 ムラができる

[縄文] 縄文人は生きている
[縄文]2 ムラづくり
[縄文]3 森をひらきイエをつくる
の続きです

火と炉

11.石がこい炉用の石を集める
イエのなかには、中央からやや奥よりの床に、火を燃やす炉をつくる。

炉には、床をただほりくぼめてつくった地床炉(じしょうろ)、ほりくぼめた周囲を石でかこった石がこい炉、土器の底を打ち欠いて床に埋めた埋甕炉(うめがめろ)などいろいろな種類がある。

「これぐらいの石でいいかな」
石がこい炉用につかう石は、近くの河原から集められた。

このようなイエのなかにつくられた炉は、
種火の保存、食料の調理、冬の暖房、照明などさまざまな役割をもっていた。

また、縄文人にとって火は神聖なものであり、
炉のまわりで火にたいする祭りごとがおこなわれたこともあったであろう。

ムラができる
12 完成のよろこび

縄文人は、それぞれの役割をもちながらも、
つねにムラの仕事はみんなが協力しておこなった。

とくにムラをつくるというような大きな仕事には、
ムラびと全員が共同してその作業にあたったのはまちがいない。
それだけにムラの完成のよろこびは大きい。

「やった! 新しいイエができた」
こうして、人びとは力を合せて、一軒一軒とイエをつくり、
やがてムラ人みんなが安心して住めるムラができあがった。

ムラは中央の広場をとりかこむように数軒のイエがたちならび、
さらに共同の作業をする場所や墓、祭りごとをおこなう神聖な場所などがきちっと定められていた。

とくにムラびとのまとまりを保つうえで大きな役割をはたしていたのが
中央の広場である。
広場はムラびとにとって、共同の作業や集会、
神聖な行事をおこなう大切な場所であり、
広場を中心としてムラの生活が営まれていた。

苦労してムラをつくりあげた人びとは、
全員が広場に集まってムラの完成をよろこびあった。