[関東の戦国]3 北条氏現わる

[関東の戦国]1 戦国時代のベース
[関東の戦国]2 享徳の乱、長享の乱
の続きです。

北条氏現わる
チャンスとばかり、第4の勢力が台頭してきます。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい)
無茶苦茶強い。

息子の代、氏綱の時に
鎌倉幕府の時の最高権力者、北条氏を勝手に名乗ります。
だから、伊勢宗瑞は北条早雲ね

元の北条氏と紛らわしいので、「後北条」と言ったりします。
執権北条氏の鎌倉、すなわち相模国を押さえたので
我こそは北条氏の後継者なりって事でしょう。

こんな感じの勢力になります。

これ以降、北条氏と上杉氏の55年戦争に突入していきます。

北条氏綱
2代北条氏綱の時にガンガン勢力拡大
扇谷上杉氏の重要拠点、河越城、下総葛西城を攻略
国府台合戦で、小弓公方の足利家も滅亡させます。
とうとう、関東管領に就任
関東管領は、山内上杉憲政と北条氏綱の二人になります。
さらに娘を足利晴氏に嫁入りさせ
足利家と親戚になっちゃいます。

そして、荒れてしまっていた鎌倉の鶴岡八幡宮を大々的に再建
これってすごいことなんです。
鶴岡八幡宮は関東武士全部の守り神
本来なら、鎌倉公方がやるべきことなのですから。

北条氏康
1541年、堂々の功績を残した氏綱も年には勝てず死去
3代氏康にバトンタッチします。
もう少しで、鶴岡八幡宮が完成だったんですけどね。

27歳
対する山内上杉憲政は19歳。扇谷上杉朝定は17歳
周辺大名の今川義元は22歳。武田晴信(後の信玄)は21歳
世代交代で役者が揃ってまいりました。

5年後の1546年。北条氏康はとうとう扇谷上杉を滅亡させてしまいます。
ひとつ消えました。
引き続きターゲットは山内上杉氏

山内上杉憲政、連戦連敗
とうとう武蔵国全てが北条氏の領地となる
山内上杉憲政は、色んなところに逃れようとするが、
どこも受け入れてくれず、越後の長尾景虎を頼りにする

山内上杉憲政の没落で、関東管領は一本化
北条氏康一人が関東管領になります。

上杉謙信
景虎殿。わしゃつくづく悔しゅうござる。
ぜひお前様に、山内上杉の家督を継いでいただき、
憎き北条氏から関東の地を取り返していただきたい。

かしこまりました。
その思い、私が引き継ぎ、取り返して見せましょうぞ。

出ましたっ。最後の大役者。上杉謙信の誕生です。
この時、23歳。

続きは、シリーズの次回ね
[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[三種の神器]草薙剣。その姿は

三種の神器シリーズ
[三種の神器]草薙剣。不思議なことだらけ
の続きです

草薙剣(くさなぎのつるぎ)
草薙剣は、目撃証言があります
三種の神器は、天皇たりとも、絶対に見てはいけないのですが
禁を破って見ちゃった

『玉籤集(ぎょくせんしゅう)裏書』より。以下意訳
「熱田の大宮司は、社家の者数人と語り合って密かに御神体を見た。
内陣に入ったところ、雲のような霧が立ちこめていてほとんど見えないので、
扇で払い出して、隠し火によって見たところ、長さ約五尺の木箱があった。
(中略)
御神体は、長さが二尺七~八寸(81~84cm)、刃先は菖蒲の葉のような形をしており、
中ほどはムクリと厚みがあって、柄のほう六寸(18cm)は節立っていて魚の背骨のようであった。
色は全体的に白いという。
大宮司が御神体を見たことは神の意にそぐわなかったのか、
思いも掛けないことで流罪となり、
その他の者も重い病や悪い病によって死ぬこととなったが、
そのうち一人だけ幸いにも死をのがれた者がこの事を伝えたものである。
その者、松岡正直より私に伝えられたものだ。」

この証言、怪しいが、草薙剣の姿を語るにおいて定説になっている
正しいとすると、両刃の白銅剣、かなりの長剣である

見たら死んじゃったエピソードはツタンカーメンの呪いのごとく
盗難防止のための古典的な手法だと思われる

三種の神器の作者、戸矢学さんは、色々な観点から、その姿を考察している

草薙剣と同様に、スサノオからアマテラスオオミカミに献上され、
天孫降臨の際、ニニギノミコトに与えられた剣に布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)がある
この布都御魂剣は内反り(うちそり)である

内反りというのは、カーブしている内側に刃が付いている
一般的に日本刀は外反り。カーブしている外側に刃が付いている

外反りでないと人は切れない
内反りだと振り下ろしたあと、手前に引かないと切れない

用途が違う
内反りなのは、草を刈る鎌
草を刈る鎌は手前にさっさっと引きながら草を刈っていく

戸矢さんは、草薙剣は、内反りだったのではないかと推測している

古事記日本書紀を何度見ても、草薙剣は戦闘用具として使われていない
ヤマトタケルが草を刈っただけ

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名称変更した
草薙剣の名前の謎
始めから、鎌の用途だったのではないか

途中で名称変更した謎
尾張氏の熱田神宮に置かれた草薙剣を返さなかった謎

ここに、戸矢さんは大胆な説をとなえる
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)は別物
だから、返さなくても怒られなかった

最初、剣は銅製の渡来のものだったけど
せっかくの機会なので
三種の神器たるもの日本製でなきゃならず
日本で鉄の製造技術も整ったので、鉄製のものが作られて、それが分身となった

本体と分身は同じものである必要はなく、
「本体と同じであることが公に保証」されていればいい

残念ながら、ちょっとだけ矛盾している気がする
草薙剣と名前を変えたのは尾張氏
目撃証言だと、草薙剣は銅製で、両刃、すなわち内反りではないんです

銅製と内反りの組合せがいまいちなんですが
少なくとも2種類以上ある、ということは
名前をわざわざ変えていることからもそうじゃないかと思われます

ただ、あくまでも三種の神器として認定されているのは「草薙剣」であって
天叢雲剣ではなく、本体は熱田神宮のものとされています

[神様]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] ビタ一文

ことば日本史、室町時代から

平安時代に行われていた貨幣の鋳造は、律令政府の支配力が衰えるとともに、打ち切られた。
その後、なんと600年もの間、日本では公式な貨幣は作られなかったんです
今では考えられませんね

じゃあどうしたか。
中国のお金を日本国内で使ったんです
平安末期になると、唐の銭貨が日本に流入し、
鎌倉時代には宋銭、室町時代には明銭が輸入された。

ところが、大変な事態がおきます
それまで質の良い銅銭を日本に輸出していた中国の明が、
戦争や国内政策の変更によって明銭の鋳造をストップ
日本に明銭が入ってこなくなります

お金がなければ、経済は成り立ちません
仕方ない。お金を作ろう

あちこちで、明銭を真似てお金を作ります

今なら、偽金作りは大罪ですが
無いんだから仕方ない理論です

模造銭や私鋳銭。
特に質の悪いお金を鐚(びた)銭と言います

鐚(びた)銭は、一度受け取ってしまっても
次の取引で受け取ってもらえるとは限りません

受け取り拒否の事を「撰銭(えりぜに)」と言います

できれば受け取りたくありませんが、無いものはない
よし、鐚銭2枚で、一文なら良いよ
一般的には割り引いて流通させていました。

「ビタ一文負けられない」とは、そんな
鐚(びた)銭の一文でさえも負けられないということです。

ただ、明銭が入ってこない以上、どんどん状況は悪化し
経済にかなり影響が出るようになりました

そこで、室町幕府や大名の大内氏は「撰銭令」(えりぜにれい)を出します
特に質の悪いお金は省きますから、撰銭(えりぜに)はしちゃいけません
割引もしちゃいけません
室町幕府の撰銭令は、作ってもいけません

現実の事が何も分かっていない人が作る法律はろくなもんじゃありません

それに比べて、やっぱり物事が分かっていたのが織田信長
織田信長の出した撰銭令は、お金を質によって3段階に分けて
価格差を容認した

公に認められた鐚一文

その後江戸時代になって、ようやく日本でも公式な貨幣が作られるようになります

もったいないから、銭形平治が投げていたのは、鐚銭かもしれませんが

[ことば]シリーズはこちら(少し下げてね)

[足利将軍]7 義勝。影の薄い将軍

足利将軍シリーズ
印象がとても薄い将軍です

[4代目から]モカの釜ヒタヒタね澄んで晴れてるひでー秋、の2つ目の「カ」です

義勝(よしかつ)
強烈な印象だった義教(よしのり)が、家臣に殺される大事件
次の将軍は嫡男千也茶丸(義勝)と決まったものの当時8歳
何かができる訳ありません

管領の細川持之が実際には取り仕切ります

若くして将軍になるということはそれほど珍しい事ではない
一時的に誰かが実質的に取り仕切っていたとしても
それなりの年齢になると自分の色を出すようになってくるもの

ところが義勝はそうならなかった

義勝の次の将軍は義政、
義勝の弟で、征夷大将軍になったのが文安6(1449)年なので
年表上、あたかも、7年ほど義勝の時代があるように見えるのだけれど
実はそうではない

義勝は翌年9歳で無理矢理元服
ここから将軍にになるわけだけど、その僅か8ヵ月後の10歳にしてこの世を去る

義政は弟なわけだから10歳より若い8歳
14歳で元服するまでは征夷大将軍はお預けで
その間は将軍は空席だった

義勝が何をしたか、どんな人物だったのか
ほとんど記録が残っていない
影が薄いのも仕方ありません

生まれた時はかなり詳しく記録が残っています

裏松(日野)重子が待望の男の子を生んだ
お父さんの義教は大喜び
出産後すぐに産所に赴き、自らへその緒を切り落としている

二日後また出向いていって、お湯初めの儀式
自らひしゃくでお湯をかけてあげている

こののち10人ほど男の子は生まれているが
実際に足を運んだのはこの時だけ

影響
義教暗殺(嘉吉の乱)後、幼少の将軍二人が続いて、
実質将軍不在になるこの時期の影響を見ていきましょう

義教は、恐怖政治で、どんどん気に入らない大名を粛清し
有力大名の家督を入れ換えさせていたので
義教が死んだ事で反義教派が復活していきます
とはいえ、各家では、入れ換えられた家督相続者もいるわけで
あっちでもこっちでも家督争いが激化します

実質将軍不在なので、将軍が手を打つことはできません
相対的に大名は力を持ちつつの内部分裂

畠山氏がその典型

義教を暗殺した播磨の赤松氏を征伐したのは隣の山名宗全
一度力を削がれていましたが、復活します

このような状況が
このあとの応仁の乱に繋がっていくのです。

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