[寺社建築] 寺の建物の名前

お寺には色んな建物があります。
それぞれ何のためのものでしょうか

本尊(ほんぞん)
本尊を安置する建物を、金堂(こんどう)・仏殿・大雄宝殿・本堂などと呼びます。
仏、大雄、はお釈迦様の尊称なので
全て、お釈迦様のいる場所、という事です。

金堂と本堂ってどう違うのかなとずっと疑問に思っていました。
日本史の本には必ず寺院の配置の移り変わりみたいな図があって、金堂となっているのに
実際に歩き回ってみると、金堂という表現を目にすることがなく、本堂ばかり

唯一、国分寺で金堂跡地、だけ
謎が解けました。
時代が違うんですね
金堂は奈良時代以前の呼び名
中国にも朝鮮にもその呼び方はないので、起源は分からない
仏像が金色だからなんでしょうね

この頃は、金堂には基本的に人は入らず
法要や儀式は金堂の南面に舞台を仮設して行っていました。
堂内には、華や供物をそなえる時のみに入った。

平安時代以降は、本堂と呼び方が変わりました。
役割も変わった。
金堂の頃は建物内部は仏様のものだったけど
本堂になると、
仏様と衆生(一般の信者)、そして間を取り持つ僧が全て同じ屋根の下
雨の多い日本ではとてもありがたい。

僧が議論するところが、講堂や法堂

唐招提寺の講堂

座禅の修業をするところが、僧堂や禅堂

東福寺の禅堂

僧の師弟が同居して法を伝える場所が僧房
小さな部屋が連なった建物でした

法隆寺の旧僧房

そこから独立して住まいを持つようになると
子院とか塔頭(たっちゅう)とか呼ばれます。

南禅寺の塔頭

お経を納めておくのが、経堂や経楼
堂や殿は最高級の建物
殿の方が若干格上のイメージ。
楼は2階建て

中世末期に出来た金閣寺や銀閣寺は本格的な楼閣建築ですが
それまでは楼と言っても単に二階に登れるだけで、一階は使われていない。

鐘楼(しょうろう)は時を告げるための鐘があり
太鼓で時を告げる場合は、鼓楼

東大寺の鐘楼

塔はお釈迦様の遺骨(仏舎利)を納めてあるよという標識
塔婆(とうば)の略です。

五重の塔、三重の塔、多宝塔など色々あります。

法隆寺の五重の塔

塔は木造の建物以外にも石塔もあります。
宝篋印塔や五輪塔など

瀧法寺の宝篋印塔

聖域を区切るのが門
囲って回廊になったりします。

法隆寺の中門

生活のための空間として、食堂、湯屋、また倉庫などもあります。

伽藍(がらん)
こういった各種建物を伽藍(がらん)と言います

大規模寺院は
本堂、講堂、塔、僧房、経楼、鐘楼、中門を含む回廊が揃っています。
厳密にこの種類じゃなくても良いんですが
7つも揃って大きいよねと、大規模寺院の事を七堂伽藍(しちどうがらん)と呼びます。

永平寺の七堂伽藍

鎌倉時代以降の寺院には、さらに違った種類の建物があったりします。
開祖が信仰の対象になりますので
開祖の遺影や像を安置する祖師堂や御影堂(みえどう)が作られ
本堂と同格、ないしはそれ以上に重視されます。

身延山久遠寺の祖師堂

[寺院]シリーズはこちら(少し下げてね)

[寺社建築]屋根材の話

[寺社建築] 斗栱はアートか
で、屋根を支える話はしましたので、今度は、屋根を葺く材料の話

茅葺
屋根を葺く材料の最初は草
草の種類が、だんだん、限定されていきます。

ひとつには稲藁
藁は稲を作る上で大量に排出されるゴミなので
何とか有効利用したい。
大量に使える物としては屋根が一番
でも、耐久性がいまいちでした。

「かや40年、麦わら15年、稲わら7年」と言われます。
茅には適度な油分があり、雨を弾きますが、
藁は水を吸う特性があって、耐久性に大きな差があるのです。

稲藁は、わらじやしめ縄、馬の餌などになっていきます。

茅(かや)とはススキの事です。
屋根材となるときだけ「かや」と呼び、生えている間はススキです。

桧皮(ひわだ)葺き、杮(こけら)葺き
桧皮葺きや杮葺きが開発されます。
桧皮(ひわだ)は桧(ひのき、檜とも)の皮を剥いだもの
形を整えて、ずらしながら、竹の釘で固定していきます。

神社の屋根に使われます。

杮(こけら)は、椹(さわら)や杉、栗の原木を板状にしたもの
桧皮に比べるとすっきりした見た目になるが、耐久性は劣る
桧皮葺きが35年に対して杮葺きは25年

書院、客殿、高級武家屋敷、数寄屋造などに貴族趣味的に用いられた
今は、指定文化財など、現状を変えてはならない建物にしか使われていない。

ちなみに杮(こけら)という漢字は柿(かき)とは似ていますが違います。
柿(かき)のつくりは、なべぶたに巾ですが
杮は上からしたまで突き抜けています。
左が杮(こけら)右が柿(かき)


仏教伝来とともに、中国から寺院が導入され
瓦が入ってきます。

何あれ、かっこいいっ

人々は魅了され、次々と寺院が建てられていきます

神社としては、内心「負けた」と思っているわけですが
認めるのは悔しい。
そこで、寺院の事を「瓦もん」と言って馬鹿にします。
瓦礫(がれき)とか瓦解(がかい)というように
マイナスイメージの言葉が残っているのはその影響でしょう。

ただ、神社には、教義も教えも哲学もお経のように紙に書かれた物もありません。
勝負にはなりません。
そこで、もともと別ジャンルのものと位置付け、共存共栄を図ろうとします。
神仏習合です。

そうなると、もともと内心かっこいいと思っている瓦も解禁です。
神社にも瓦葺きが登場していきます。

ウォーキングしていると、やっぱり半分以上、神社に瓦は使われていません。
桧皮葺きではないにしても、銅板なのか何らかの金属板で、桧皮葺き風にしてあります。

瓦以上に、すぐに取り入れられたのが屋根の反りだと思います。
それまでは、神社の屋根はまっすぐだったんですが
カーブするようになります。
今、神社の屋根は、流造りと言われる前側が長めの屋根が主流です。

神社や寺院以外の建物で瓦がどうだったかというと
ほとんど普及しませんでした。
そもそも、寺院以外で瓦が禁止されていたというのがあります。

とはいえ、瓦の有用性は明らかなので、宮殿や大規模な屋敷とかには使われます。
むしろ、寺院側が、瓦職人を抱え込み
実質的に他では作れないようにしたという面が強いかと思います。

なぜなら、寺は武力を持っていたからです。
一大武力勢力だった。

時の権力者たちは、しばしば寺の勢力に手を焼き
潰そうとしますが、瓦で頑丈に守られた寺は、防衛に優れていた訳です。

本瓦
江戸時代より前の瓦は本瓦と言われるものでした。

江戸時代が始まって、3分の1くらいが経った
延宝2(1674)年、近江大津の三井寺の用を勤めていた西村半兵衛が
桟瓦(さんがわら)という今のタイプの瓦を発明します。

大発明、大革命です。

基本的に一種類の瓦ですむようになりました。

大幅コストダウン

作り方も簡単で歩留まりは良く
木枠で大量生産が可能になった。
葺く時も、職人が高度な技術を必要としません。
重さも軽いので、建物に必要とされる強度も全然違います。
良いことづくめ
一気に瓦が一般住宅にまで普及していきます。

きのう、かねやすの話でも言いましたが
江戸時代の最初は一般住宅において瓦葺きが禁止されていた。
火事の時、壊すのに危ないという理由

8代将軍吉宗の時、方針の大転換
瓦屋根の耐火性により
瓦屋根も「苦しゅうない」とされた
本郷辺りを焼き尽くした享保の大火で復旧する家屋は
むしろ瓦葺きが推奨された。

その前に桟瓦が発明されたというのが大きい。

その効果が実証されたのでしょう。

11代将軍家斉の時は、逆に瓦葺き以外の建物の建築が禁止されています。

明治10(1877)年に、更なる技術革新が行われます。
引っ掛け桟瓦の開発です。
それまでは、屋根の上に土を塗って、瓦を固定していました。
葺土なしの乾葺が可能となり、瓦の下に棒を渡し、釘留めか銅線で結ぶ工法が確立する
さらに爆発的な普及。

日本の屋根は瓦屋根と言えるほどになります。
♪いらかの波と雲の波~

[神社仏閣]シリーズはこちら(少し下げてね)

[寺社建築] 斗栱はアートか

[寺社建築]寺社建築の基礎と建具
の続きです。

建築技術
昔々、中国から仏教とともに建築技術が渡ってきたときは
それはそれは衝撃だったでしょう

それまで、各郷族たちはでっかい古墳を作って力を鼓舞していましたが
一気にその熱が冷めちゃった。

お寺かっこいいっ。あれ作ろう

やっぱりすごい日本人
そんな憧れの建築技術を、単純に真似するだけじゃなく
日本の環境に合わせたように改良していく。

日本の環境で中国と大きく違うのが、雨と木

雨がとっても多い
対応する為に、屋根の角度が急勾配になる
雨がバンバン当たると家が痛むから、屋根の軒先を大きく出す必要がある
そうすると、その軒先をどう支えるかという技術が発達していく事になる

雨が降るから木が育つ
木が豊富なので、とても贅沢な材木の使い方が出来る

斗栱(ときょう)
寺社建築、一番寺院っぽくてかっこいいのは、斗栱(ときょう)でしょう

斗栱自体は中国から来たものですが、日本ではさらに大きく発展

あまりにかっこいいので、装飾かと思っておりましたが
実用的な技術だったんですね

軒先を大きく出そうとすると、自分の重みでバキッと折れちゃいますので
柱から手を出して支える感じにする
肘を出しているみたいだから肘木(ひじき)

でも、その肘木も折れちゃ困るので
肘木を支える肘木で支える
でも、その肘木を支える肘木が折れちゃっちゃ困るので
肘木を支える肘木を支える肘木で支える

三つで支えているから三手先と言います。

一点で支えると弱いし、
棒は横からの力がかかると弱いという事から、
十文字に木を組んで、ガシッガシッと縦横の木材を掴まえつつ伸ばしていく
組物(くみもの)という考え方に発展していった。


4手先5手先とどんどん増えていくんだけど
屋根はそれだけ高くなっちゃう
真横に組物を伸ばしていけんやろか

はい、分かりました
こんなんどうですやろ

何?このむにゅっと曲がったの
折れちゃわないの?

尾垂木(おだるき)と言いましてね
奥まで長いんですよ


奥の長い先が屋根の重みで下に押されると、あら不思議
下側の先が上向きに跳ね上がる

小学校で習いました。
てこって奴です

この成功で味をしめたのか
鎌倉時代に「てこ」の考え方を発展させた桔木(はねぎ)というものが開発されました。

屋根界の革命とも言えるもので
尾垂木よりももっとでかく、屋根の中に隠れていて外からは見えない


これさえあれば、屋根問題はオールクリアと言うほどのもので
斗栱だの組物だの尾垂木だのは一気に役目を終えてしまった。

でもまだ、斗栱はある気がするんだけど。

はい
桔木のお陰で、実用としての斗栱は、そのまま
無くても良いけど、かっこいいなという
アートとしての斗栱に役割を変えたのです。

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無念!江戸検定1級が無くなっちゃう

昨日、江戸文化歴史検定の事務局から封書が届きました。

期待していたのは、「何かの間違い」
採点ミスかなんかで合格してないかなと

江戸検1級。残念!58点。

おおっ。自己採点とぴったり一緒の58点

合格80点以上で、58点じゃ、どれだけひっくり返っても合格しませんね

でも、今年のお題、新江戸東京百景巡りのところ、1~20問までは見事に19点でした。

平均点は55点
3点しか上回っていないのね

ただ、2級合格者しか受けられないので、全員猛者たち
私が2級合格に3年かかったように、何年も受け続けている人もいるでしょうから
初挑戦で平均点に達したのは、そこそこなのでは?

よしっ、毎年10点ずつアップしていって、3年後には合格だ

えっ
ところが、その封書の中にびっくりの文言

2006年より始まりました江戸文化歴史検定は、2020年第15回の実施をもって終了となります。

えええっ。あと1回しかチャンスはないってこと?

この数年、とても充実した日常を送ってこられたのは
江戸検というあなた様の目標があってのこと

ラブユーとうきょう江戸検定でしたのに

今後、どうせいと言うのでしょう。

3年計画などと、トロいことを言ってんじゃない、との八幡神からのお告げでしょうか

あと1年はなあ
こっちは2級合格に3年もかけているのですぞ。

予感はあったんですよ
データを見ると、2級3級の受験者は、年々減少傾向
そんな中で、1級だけはずっと横ばいだったんです。
2級に受からないと1級は受けれないんだけど
1級はマニアックすぎてそんなすぐに合格できるしろもんじゃない
2級合格者が増えていく数と、1級合格者+もう無理と1級を諦める人の数がバランスしていたんでしょうね

去年一昨年と会場が小さくなっていってたからなあ。

無くなっちゃうと言うことは
5年もすれば、江戸検の存在を覚えている人はいなくなるから
自慢するのも難しくなるよね
自慢して誉めてもらうのが3度の飯より好きなんですけど。

ええい
ごちゃごちゃ言ってないで
やれるとこまでやることにいたしましょう。

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