雪舟。ねずみがチュウ

名僧シリーズ

雪舟
臨済宗 1420~1506年

あれ?
雪舟って水墨画の画家じゃなかったっけ
名前は、確かに坊さんぽいなあ

鎌倉時代って、新しい宗派がどんどん生まれて、
変化の時代だったけど
室町時代になると、仏教自体の発展や変化というより
落ち着いた感じで、文化全体のリード役みたいなそんなイメージです。

夢窓疎石だったり、吉田兼好だったり、一休さんだって、芸術的分野で名を残している。

その代表が、雪舟ということになります。

中国というのがベースにあります。
文化の先進国は中国なので、芸術家たちは中国に目が向いている
仏教の経典は中国語なので、一定以上の僧は、中国語に長けている。

生い立ち
備中国赤浜の生まれ

子供の頃、仏教の経典をあまり読まず、絵ばっかり書いていた。
師匠が怒って、お堂の柱に縛り付けてしまう。

えーんえーん

夕方になって
ちょっとやり過ぎたかな、と様子を見に行くと
足元にネズミ

ん?何だろう
動かない
動きそうなのに動かない。

ということは?
絵に書いたネズミ
雪舟なら可能かも知れないが
縛られているしなあ

涙を絵の具替わりに、僅かに動く足の指で書いたネズミ

わしは
間違っていた

それ以来、絵を書いていても咎めなくなった。

1430(永享2)年には上洛して相国寺に入っており、
1454(享徳3)年まではここで修行をしていた
画の師匠は天章周文

相国寺を離れた雪舟は中国地方の大名、大内氏を頼って
周防国山口へ流れた。

パトロンとして助けてもらえるからだが
もうひとつ、大内氏は、日明貿易をしていて、明への強力なパイプを持っていたから。

明へ
機は熟した。
本格的に絵を学ぶために、明へ

水墨画といえば、中国って感じしますね
ただ、雪舟の水墨画は、周文から学んだものに、
中国明王朝に留学して学んだ唐絵(からえ)の技術を融合させた
雪舟オリジナルのものです。

北京の礼部院で壁画を描き
皇帝が彼の絵を褒めたということもあって
明でも評判になったようです。

帰国後は、やはり大内氏に助けてもらいつつ
諸国を回って風景画を書いたようです。

弟子も多数集い、雪舟派が形成されます。
国宝が6点もあり、画家の中では破格の評価を受けていると言えます。

結局、京都には余り行かなかった。
この時代、京都というのが、廃れていき
文化の中心地ということでも無くなっていった。

その後応仁の乱で荒廃し
京都より、地方の有力大名のもとへ、芸術家が流れていくという傾向が加速します。

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室町時代の仏教

名僧シリーズ、室町時代に入って参ります。

個別の僧に入る前に、ばくっと、室町時代の仏教ってどんな感じなの?
というのを見ておこうと思います。

室町時代
元弘3年(1333)、鎌倉幕府は滅亡。
後醍醐天皇による建武の新政をヘて室町幕府の時代になります。

その初代の将軍·足利尊氏は聖徳太子の憲法十七条にならって
延元元年(1336)に、建武式目十七条を発した。

その翌年、全国六十ほどの国ごとに一寺一塔の建立を発願。

安国寺(あんこくじ)·利生塔(りしょうとう)と名づけられた。
古代の聖武天皇の時に同じような、国分寺というのがありました
よし、真似しましょう。

とはいえ、新たに寺院が建立するのは大変。
安国寺のほとんどは既存の寺院を安国寺と改称しました。
利生塔も既存の寺院の境内に五重塔か三重塔を建てました。
一番多かったのは、臨済宗、曹洞宗といった禅宗。あと、真言宗、天台宗、律宗など
浄土真宗とかが極端に少ないのは、体制よりの禅宗と明確に分かれて面白いです。

五山
五山という仕組みが中国の南宋時代にありました。
5つの大寺を中心に寺院を管理した官寺制度。

よし、真似しましょう。

鎌倉時代には、建長寺を五山第一としていました。
あの、蘭渓道隆無学祖元の建長寺です。

ちゃんと5つ揃えましょう。
京都五山=第一→天龍寺、第二→相国寺、第三→建仁寺、第四→東福寺、第五→万寿寺。
鎌倉五山=第一→建長寺、第二→円覚寺、第三→寿福寺、第四→浄智寺、第五→浄妙寺。
そして、京·鎌倉の「五山之上」に南禅寺をおいて最高の寺格とした。

時代によって多少変わるんですが、だいたいこんな感じ

これは、臨済宗の中の制度で、臨済宗オンリー
臨済宗であれば何派でもオッケーね

この五山の住持(住僧の長)は、
臨済宗僧侶の身分などを管理する僧録によって選定され、
将軍によって任命された。

室町文化
室町の文化と言えば大きく2つ
北山文化と東山文化
金閣と銀閣と言った方が分かり良いですね

争いに明け暮れた時代ではあっても
民衆の力は強まり
寺社の祭りが盛大におこなわれるようになりました
中でも臨済宗の五山の諸寺は将軍や大名、
それに力をのばした商工人から寄進をうけて、財政は豊かでした。
文学や建築、庭園、芸能など、幅広い文化が花開きます。

まずは、3代将軍義満·4代義持の頃の北山文化
義満が応永4年(1397)に造営した北山山荘
のちの鹿苑寺金閣です。

義満は猿楽の観阿弥 .世阿弥父子をひきたて、
猿楽から能がうまれる。

能の多くは幽霊が主人公なんですって

東山文化は足利義政が応仁の乱の最中に将軍職をしりぞき、
文明5年(1483)、山荘の東山殿に隠居したことによります。
そこに義政は観音殿、後の銀閣や持仏堂の東求堂を建てました。

東求堂には書院造の茶室がつくられ、
茶の湯、能楽、立花(華道)などの芸能が発達しました。

文化の中心になるのは、お坊さんだったんですね

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玉川上水。このルートには深い意味があった。

武蔵野の水路
昨日、お盆休みだけど、台風でしたのでお出掛けもままならず
図書館で本を読んでおりました。
目に止まったのが、「武蔵野の水路」という本。
玉川上水の分水(支線)を、全て現地調査して調べあげた、学術的な本。
3800円もする、大型のハードカバーの分厚い本なので
図書館でなければ見る事はないでしょう。

玉川上水って、江戸時代に江戸の人達の飲み水の為に
羽村から42kmにも渡って川を作って水を引いた
というところがすごい、と思っていた。

もちろん、それはそうなんだけど
この本を読んでいると
飲み水確保のためだけじゃないのかと驚かされた。

江戸から遥か西に42km
その間にあるのは、武蔵野の台地
地形的には、こんな風です。

荒川と多摩川に挟まれた台地。

この図を見て、なんでこのルートだったのかの謎が解けた。

玉川上水のが流れている線は
武蔵野台地の分水嶺(ぶんすいれい)の線と同じ
台地の中で一番高いところなので
雨が降ると均等に水が左右に分かれる。

分水嶺の尾根伝いに自然に川が出来ることはあり得ない。
どっちかにすぐ雨が流れちゃいますので。

敢えて人間が分水嶺の尾根伝いに用水を掘ることによってのみ可能。

では、なぜ、玉川上水は分水嶺伝いに流したのか
単純に江戸に飲み水を流したいのであれば
分水嶺にこだわらなくても、他にもルートはある。

別の目的

それは、玉川上水本流のみを見ていたのではわからない。
玉川上水には、本流から枝分かれした分水(支流)が30近く存在する。
その主なものは以下の通り

分水嶺なので、荒川側と、多摩川側にほぼ均等に分かれている。

そして、重要なのが、各分水の用途
以下の表を見れば一目瞭然。

本流はあくまで飲み水確保ですが
本流の目的が達せられる水量がある場合には
各分水の門が開けられる。

すると、分水の地域の人達も恩恵に携われる訳です。
実はそれは、飲み水だけに限定されない。
逆に言うと、分水で飲み水としての品質を確保し続けるのは難しいかも知れない。

若干水質は落ちたとしても、より大量に水を必要とするもの。
そうです。灌漑、農業用水です。

「分水嶺から水を流すと、最大限の灌漑面積を得られる」
という法則があります。

乾ききっていて、雑草が生い茂り
森にさえなり得なかった武蔵野台地が
玉川上水開発以降、新田開発が急激に進み
農業台地に劇的に生まれ変わるのです。

分水嶺に水を流す。
イメージして見てください。
台地全体が均等に水分に満たされ潤っていく。

ウォーキングしていると、立川崖線、国分寺崖線に
崖が連なり、そのあちこちに豊富な湧き水がある
これって、自然現象だとばかり思っていました。
人工的に作り出された現象だったんですね。
土地の中を通るうちに、美味しい清水となって湧き出る。

玉川兄弟は本当にそんな事まで頭に描いていたんでしょうか。
もしそうだったとすると、至上最高の兄弟ではないでしょうか
いや、考えていなかったと仮定しても
武蔵野台地全体の恩人に違いありません。

そして、その効果は農業だけではなかった。
潤った水は、生物を育んだ。
植物、動物。

そして、流れる小川は、子供達の格好の遊び場となり
原体験として心に刻まれた。
その風景は、絵画や文学の様な芸術も育んだ。

分水のうち、野火止用水、千川上水、品川用水で見られる事ですが
実は大名庭園の池泉の為に引かれた。
例えば、六義園は、千川上水から水を引いています。

動力にもなった。
分水には、多くの水車が作られ
粉をひく為の動力とかになった。

明治の一時期は、舟運にも使われています。

歴史
歴史を見てみましょう。

1653年、玉川兄弟により玉川上水開発。
その後、数々の分水が開発されていきます。

6上水と言われる
神田上水、玉川上水、本所上水(亀有上水)、青山上水、三田上水(三田用水)、千川上水
が揃います。
実は本所上水以外は、全て玉川上水からの水に寄っています。
先輩である神田上水すら、水が足りなくなって
玉川上水から神田上水に補水しています。

8代将軍吉宗が、急に神田上水と玉川上水の二つを残して、それ以外の4上水を廃止します。
理由は複数あるんですが
今回の本にいくつか面白い事が書いてありました。
品川分水は、当初から、細川家の池泉に水を引く目的だったけど、その目的が無くなったから廃止した。

吉宗のお陰でというか、井戸の技術がその後発達し
地下にある固い地盤を突き破って、さらに下から井戸水を吸い上げることも可能になった。

ただ、今回、本を読んで分かったのは
確かに上水は停止させられるんだけど
住民達の要望で、灌漑用水として復活したりしています。
さっきの品川用水も灌漑用水として復活。

そういった具合に、上水以外の用途でも復活すれば、台地は水で潤います。
そうすれば、井戸を掘れば水が出る。
実は、各上水は停止させられても
以前として玉川上水の水から飲み水を得ていると言えます。

明治19年に、コレラが大発生
水質の問題がクローズアップされ
明治31(1898)年、新宿に巨大な淀川浄水場が完成します。
玉川上水は、そこまで、37km水を運び、それ以降の5kmはここで役割を終えます。

昭和38(1963)年、淀川浄水場が廃止になります。
その跡地が、あの新宿副都心高層ビル街になるんですね。

羽村から12kmの地点に、小平監視所というのが出来
そこから、地下を通って、東村山浄水場に水が送られます。
現在もそうですから
玉川上水の12kmは今も、東京都民の水道水として役立っています。

それ以降は廃止。

さあ困った。

飲料水だけが良きゃ良いってもんじゃないことは学習しました。
どうするんだ。

すごいことがおきます。

昭和61年、1986年ですから23年後
12km以降にも、玉川上水に水が復活するんです。

12km以降廃止になった理由は、必要ないから、ということに加え
臭いとかの汚染問題があります。

なんと、12km以降に多摩川上流処理場というところで、高次処理水にして流すようにした。
飲み水とまではいかないが、玉川上水の12km以降には、水道水が流れている。
だから澄んでいて綺麗なのか。
そうなると、各分水も埋めちゃっていたのを堀り戻すところが出てきた。

分かってらっしゃる。
そして、粋です。

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士農工商ってほんと?

福の神、貧乏神、という本を読みました。

七福神ファンですから。

七福神巡りは何度もやっていますが、
お寺に祀られていたり、神社に祀られていたり様々

一つの答えは、神仏習合で、神道も仏教もいっしょくただから。
この辺の話は、いつか数回に分けてじっくり話したいと思っています。

もうひとつは、神道だの仏教だのにとらわれない、民間信仰だから。

草の根的な自然に沸き起こってくる信仰。

名僧シリーズでやっているような、えらい人は誰一人からまない。
とても不思議。
庚申塔や富士塚や小さなお地蔵さんや。
ウォーキングをやっていると気になることだらけ。

この本を読み進めていくと、とても興味深いことが書いてある。

七福神の広まり
七福神が広まった一つの要因は、広めた人がいるから

大黒さん、恵比寿さん、毘沙門天あたりで顕著なんだけど
例えば、大黒さんなら大黒舞みたいなのがあって大黒さんの格好をしたり
恵比寿さんの人形を持ったりして
めでたい口上を言って家々を回る。
正月だと、門付けといって、
獅子舞みたいな感じで、家々を回ると
いくばくかのお金をもらえる。

ただ、それが成り立つのは、正月のようなごく限られた日だけ
また来たってことになるから
地方を回って、それで広がっていくということになる。

とはいえ、それだけで生計がたつとも考えがたく
おそらく本業が別にある

どういう人達かなんだけど
この本によると、いわゆる被差別層の人達。

信仰や宗教って、穢れ(けがれ)と実は表裏一体。
穢れの代表格は死
でも、葬式は仏教寺院の主要な収入源になっている。

死体を片付けるというような、誰もが忌み嫌うような仕事は
被差別層の人達が担当しているけど
実は、信仰的な事と、極めて近い距離にいたことになり
そのままの自然な流れで、民間信仰の中心的な役割を担うようになっていったのだと。

驚きました。
ただ、理不尽な扱いを受け続けていたと思っていたのに
ありがたや、と手を合わせてもらえる対象の一役も担っていたことになる。

頭の中が大混乱です。

改めて疑問が沸いて来ます。
士農工商って何だろう

士農工商
江戸時代が好きで、ずいぶん本も読んだけど
読めば読むほど一つの疑問が沸いて来ます。

士農工商ってほんと?

教科書で習った江戸時代の、基本中の基本のキーワード
士農工商という身分制度があったと習いました。

でも、どの本を読んでも、士農工商について書いていない。

こんなに出てこないのはやっぱりおかしい。
士農工商って身分制度は、本当はなかったんじゃないのか。

考えてみれば、士農工商は矛盾がありすぎる。

漁業や林業はどれよ
朝廷や、お公家さんたちはどうなるの?
大人気の相撲取りや歌舞伎役者や落語家等の
江戸を象徴する人達は、商、なの?工、なの?

一番の疑問は
江戸の中で15%の敷地面積を占めていた、神社仏閣
僧侶や神職が入っていないのは、おかしすぎる。

出家というのは、俗人ではなくなるという意味だから
枠組みのどこにも入らないって事かも知れません。
天海をはじめとして、かなり社会の根幹的なところを担いましたので
やっぱり納得がいきません。

昨日書いた一遍の時衆たち
かなり、被差別層の人達の割合が大きい。

一遍自身だって、乞食僧だから、アウトロー

七福神でいうと、私が一番好きな、布袋さんは、乞食僧です。

そういう人が神様になっちゃう。

例えば、仙台で超有名な福の神、仙台四郎って知恵遅れです。

恵比寿さんだって、元々は立てない未熟児の蛭子命(ひるこのみこと)が元になっているし
そもそも、夷(えびす)や戎(えびす)って外国人を見下した差別用語です。

結局、「関係ない」んじゃないだろうか

庶民の文化を見ていくにつれ
武士たちを支配者、自分達は被支配者なんて感覚はどうにも見てとれない
ほぼ対等にとらえているし、
ともすれば、小馬鹿にしていたりする。

頼りにしているのは、武士達や立派なおエライさんじゃなく
弱いものの立場に立ってくれる人を神としてあがめ
そんな、身近な神様を
たのんまっせ、と頼りにしている。

これこそが、日本の誇るべき、八百万の神なんじゃないだろうか。

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