玉川上水。このルートには深い意味があった。

武蔵野の水路
昨日、お盆休みだけど、台風でしたのでお出掛けもままならず
図書館で本を読んでおりました。
目に止まったのが、「武蔵野の水路」という本。
玉川上水の分水(支線)を、全て現地調査して調べあげた、学術的な本。
3800円もする、大型のハードカバーの分厚い本なので
図書館でなければ見る事はないでしょう。

玉川上水って、江戸時代に江戸の人達の飲み水の為に
羽村から42kmにも渡って川を作って水を引いた
というところがすごい、と思っていた。

もちろん、それはそうなんだけど
この本を読んでいると
飲み水確保のためだけじゃないのかと驚かされた。

江戸から遥か西に42km
その間にあるのは、武蔵野の台地
地形的には、こんな風です。

荒川と多摩川に挟まれた台地。

この図を見て、なんでこのルートだったのかの謎が解けた。

玉川上水のが流れている線は
武蔵野台地の分水嶺(ぶんすいれい)の線と同じ
台地の中で一番高いところなので
雨が降ると均等に水が左右に分かれる。

分水嶺の尾根伝いに自然に川が出来ることはあり得ない。
どっちかにすぐ雨が流れちゃいますので。

敢えて人間が分水嶺の尾根伝いに用水を掘ることによってのみ可能。

では、なぜ、玉川上水は分水嶺伝いに流したのか
単純に江戸に飲み水を流したいのであれば
分水嶺にこだわらなくても、他にもルートはある。

別の目的

それは、玉川上水本流のみを見ていたのではわからない。
玉川上水には、本流から枝分かれした分水(支流)が30近く存在する。
その主なものは以下の通り

分水嶺なので、荒川側と、多摩川側にほぼ均等に分かれている。

そして、重要なのが、各分水の用途
以下の表を見れば一目瞭然。

本流はあくまで飲み水確保ですが
本流の目的が達せられる水量がある場合には
各分水の門が開けられる。

すると、分水の地域の人達も恩恵に携われる訳です。
実はそれは、飲み水だけに限定されない。
逆に言うと、分水で飲み水としての品質を確保し続けるのは難しいかも知れない。

若干水質は落ちたとしても、より大量に水を必要とするもの。
そうです。灌漑、農業用水です。

「分水嶺から水を流すと、最大限の灌漑面積を得られる」
という法則があります。

乾ききっていて、雑草が生い茂り
森にさえなり得なかった武蔵野台地が
玉川上水開発以降、新田開発が急激に進み
農業台地に劇的に生まれ変わるのです。

分水嶺に水を流す。
イメージして見てください。
台地全体が均等に水分に満たされ潤っていく。

ウォーキングしていると、立川崖線、国分寺崖線に
崖が連なり、そのあちこちに豊富な湧き水がある
これって、自然現象だとばかり思っていました。
人工的に作り出された現象だったんですね。
土地の中を通るうちに、美味しい清水となって湧き出る。

玉川兄弟は本当にそんな事まで頭に描いていたんでしょうか。
もしそうだったとすると、至上最高の兄弟ではないでしょうか
いや、考えていなかったと仮定しても
武蔵野台地全体の恩人に違いありません。

そして、その効果は農業だけではなかった。
潤った水は、生物を育んだ。
植物、動物。

そして、流れる小川は、子供達の格好の遊び場となり
原体験として心に刻まれた。
その風景は、絵画や文学の様な芸術も育んだ。

分水のうち、野火止用水、千川上水、品川用水で見られる事ですが
実は大名庭園の池泉の為に引かれた。
例えば、六義園は、千川上水から水を引いています。

動力にもなった。
分水には、多くの水車が作られ
粉をひく為の動力とかになった。

明治の一時期は、舟運にも使われています。

歴史
歴史を見てみましょう。

1653年、玉川兄弟により玉川上水開発。
その後、数々の分水が開発されていきます。

6上水と言われる
神田上水、玉川上水、本所上水(亀有上水)、青山上水、三田上水(三田用水)、千川上水
が揃います。
実は本所上水以外は、全て玉川上水からの水に寄っています。
先輩である神田上水すら、水が足りなくなって
玉川上水から神田上水に補水しています。

8代将軍吉宗が、急に神田上水と玉川上水の二つを残して、それ以外の4上水を廃止します。
理由は複数あるんですが
今回の本にいくつか面白い事が書いてありました。
品川分水は、当初から、細川家の池泉に水を引く目的だったけど、その目的が無くなったから廃止した。

吉宗のお陰でというか、井戸の技術がその後発達し
地下にある固い地盤を突き破って、さらに下から井戸水を吸い上げることも可能になった。

ただ、今回、本を読んで分かったのは
確かに上水は停止させられるんだけど
住民達の要望で、灌漑用水として復活したりしています。
さっきの品川用水も灌漑用水として復活。

そういった具合に、上水以外の用途でも復活すれば、台地は水で潤います。
そうすれば、井戸を掘れば水が出る。
実は、各上水は停止させられても
以前として玉川上水の水から飲み水を得ていると言えます。

明治19年に、コレラが大発生
水質の問題がクローズアップされ
明治31(1898)年、新宿に巨大な淀川浄水場が完成します。
玉川上水は、そこまで、37km水を運び、それ以降の5kmはここで役割を終えます。

昭和38(1963)年、淀川浄水場が廃止になります。
その跡地が、あの新宿副都心高層ビル街になるんですね。

羽村から12kmの地点に、小平監視所というのが出来
そこから、地下を通って、東村山浄水場に水が送られます。
現在もそうですから
玉川上水の12kmは今も、東京都民の水道水として役立っています。

それ以降は廃止。

さあ困った。

飲料水だけが良きゃ良いってもんじゃないことは学習しました。
どうするんだ。

すごいことがおきます。

昭和61年、1986年ですから23年後
12km以降にも、玉川上水に水が復活するんです。

12km以降廃止になった理由は、必要ないから、ということに加え
臭いとかの汚染問題があります。

なんと、12km以降に多摩川上流処理場というところで、高次処理水にして流すようにした。
飲み水とまではいかないが、玉川上水の12km以降には、水道水が流れている。
だから澄んでいて綺麗なのか。
そうなると、各分水も埋めちゃっていたのを堀り戻すところが出てきた。

分かってらっしゃる。
そして、粋です。

索引はこちら
[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

玉川上水。このルートには深い意味があった。」への2件のフィードバック

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