無学祖元。気骨の人

名僧シリーズ
前回の鎌倉時代の名僧。ただ微笑む蘭渓道隆。
の続き的話になります。

無学祖元(むがくそげん)
1226~1286年 臨済宗仏光派

無学祖元は中国の僧
蘭渓道隆と同じ感じですね

13歳の時に出家
みるみる習得していきます。

当時、元(蒙古)が圧倒的な武力を背景に、南下して
無学の寺にも攻め入ってきた

元兵が無学に切りかかってきたとき
詩を朗々ろうろうと唱えました。

乾坤孤筇(けんこんこきょう)を卓(たく)するに地なし
喜びえたり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なりと
珍重(ちんちょう)す、大元三尺(だいげんさんじゃく)の剣
電光影裏(でんこうえいり)、春風(しゅんぷう)を斬る

(天地も私も一切が「空くう」である。
だから、元兵が三尺の剣で私を斬ろうというのなら、喜んで受けてやろう。
そんなものは電光一閃、春風を斬るようなものだ。
一切が「空」であるから、斬っても「空」である)

元兵の中にも学識のある人がいて

止めろっ
と制し
深々と礼をして、去っていきました。

僧探し
時代は少し経ち、日本です。
幕府や朝廷にも、庶民にも信頼された中国の僧、
蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が亡くなってしまいました。

本場の中国から、一流の僧に来てもらうとやっぱり違うなあ
と実感した、鎌倉幕府の執権となる北条時宗(ときむね)

中国へ僧探しのスカウト要員を派遣します。

野球で言うと大リーグからの助っ人ですね。

景徳寺の環渓は、時宗の手紙を読むと
迷うことなく一番弟子の無学を推薦しました。

私ですか、分かりました。
私も祖国を元に奪われました。
聞けば日本も、侵略される危機にあると。
何とか私が、日本をお守りできる一助になれるのなら。

日本へ
弘安2年(1279)6月
無学が、日本にやって来ました。

時宗は早速、蘭渓がいた建長寺の住持として迎え入れます。

国存亡の危機
国を預かる総責任者としての時宗の
考え方や行動が大きく影響します。

建長寺に日参し
座禅を組んで、心を鍛えます。
無学も持てるもの全てを時宗に与えます。

いよいよ、弘安の役(第二回目の蒙古襲来)です
円覚寺を建立し、無学を開山に迎えます。

戦争で傷ついた人を敵味方関係無く、治療するためです。
大きく言うと元だって中国
元の兵士が敵国の地で、寺に運び込まれ
そこには中国人の僧が温かく迎え入れてくれる
そんなこと考えられないでしょう

いよいよ、時宗出陣

どう進みまする

時宗は
目の前に広がる敵兵をイメージ

カーーツッ

よろしい
行ってなさいませ
決して後ろを振り返ってはなりませぬ。

大軍が押し寄せましたので、壮絶を極めましたが
少なくとも日本軍は気迫と士気において大きく上回り
侵略はされず、元軍は退散していきます。

当初の考え通り
多くの怪我人を治療し
多く出た死者も、敵味方関係無く円覚寺で弔うことになりました。

その時の疲労心労がたたり
時宗は34歳の若さで亡くなります。

一定の役割を果たせたし、
時宗が亡くなった事でひとつの区切りかと、中国へ帰国することにします。

でも、時宗の跡を継いだ北条貞時(さだとき)も、時宗以上に無学に惹かれていました

多くの弟子達、信者達に懇願されます。

もう少し私にもやれることがあるのかも知れない。

その後、大干魃があったりと大変な時代は続きますが
無学とその弟子達は、乗り越えていきます。

61歳、日本で天寿を全うすることになります
ひとつの詩を残します。

来たるも、また前(すす)まず、去るも、また後(しりぞ)かず。
百億毛頭(ひゃくおくもうとう)に獅子現(ししげん)じ、百億毛頭に獅子吼(ほ)ゆ
(生も死もない。全身を勇者の獅子と化して、吼えつづけるだけだ)

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