[歳時記]4/27 駅伝が初めて行なわれた日

4/22
正月の箱根駅伝をはじめ人気のある駅伝競技。
日本人が大好きなこの競技は、「エキデン」として世界の共通語になりつつある。

駅伝という名称は東海道五三次の駅舎にちなんだものである。
だが、駅伝競争の起源はもっと古く、
オリンピックの聖火リレーを考案したドイツでは、
すでに第2次世界大戦前から盛んに行なわれていた。

一方、日本ではじめて駅伝が行われたのは、1917(大正6)年4月27日のことである。
読売新聞社が東京遷都50周年を記念して企画したもので、
京都三条大橋をスタートし、東京上野の不忍池にゴールする。
この全長508キロメートル、23区間のコースを出身別に東西に分かれた選手たちが、
昼夜ぶっ続けで走ったのだ。

夜は応援団がカンテラで選手の足元を照らし、
橋のない川は船で渡り、イノシシが出るところでは鉄砲を用意するなど、
箱根駅伝も真っ青のすさまじい駅伝だった。
選手たちは3日間昼も夜もひたすら走り続け、事故もなくみごとに走破した。

その後、大河ドラマのいだてんでモデルになった金栗四三が箱根駅伝を企画し実現する
こちらはパリ五輪で走る金栗四三

箱根駅伝は毎年楽しみです。
わが母校、中央大学は名門ですが
最近は今ひとつ
頑張れっ

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[歳時記]4/18 発明の日

4/18
現在の特許法のもとである「専売特許条例」が公布されたのは、
1885(明治18)年4月18日のことである。

それを記念するとともに、工業所有権制度の普及、啓蒙を図ることを目的に、
1954(昭和29)年、この日が「発明の日」と定められた。

毎年、特許庁では「発明の日フェア」と題して、発明品の記念展示、
庁内見学や弁理士特許無料相談などさまざまなイベントを開催している。

大人向けのイベントだけでなく、小中学生を対象にした科学の不思議や
モノづくりの楽しさを体験するイベントなどもあり多くの少年少女でにぎわっている。

日本は発明大国。
今や発明を趣味とする人さえいて、年間に数十万件もの特許、実用新案の出願がある。

ただし、すでに特許権や実用新案権が成立しているものもあって、
実際に許可がおりるのは全体の20パーセント程度とか。
いくらユニークな発想だと思っても、
人間が考えることは自然に似通ってしまうのかもしれない。

1998年の特許出願件数は4万件余りで、登録件数は14万件程度だった。

出願
発明。懐かしい響き
一時期一生懸命頑張ったなあ

ワープロの新しい入力方式、かなり早く入力できるとして、考案

弁理士さんにも相談し、
願書を作って、提出した。
就職直前くらいの時期で、ずいぶん昔の事なのでかなりうっすらとした記憶しかない。
特許だったか実用新案だったかも覚えていない。

当時のワープロメーカーにアプローチしたけど
SHARPだけは、試作品作ってみましょうか、という事は言ってくれたものの
結局は商品化に至らず

確か、出願はしたものの、数ヵ月だか1年だかの後に
もう一回本当に出願しますか、みたいな意思表示するときがあって
本当に出願すると言った時だけけっこうのお金がかかる親切な仕組み
意思表示しなかったから、本当の特許にならなかった。

今となっては、もし商品化されたとしても全然売れなかったと思う
JIS配列以外のキーボードはいくつかあったけど、結局全てJIS配列に駆逐されて無くなっちゃいましたので。

楽しかった思い出

その辺のいきさつご興味がありましたら、こちらを読んでね
漢字の音読み

実家にいる父さんも、オイルショックのとき
トイレットペーパーが盗まれるってことで、盗まれないトイレットペーパー入れを商品化しようと
仲間と一緒にあれやこれや
あのときの父さん、楽しそうで輝いていたなあ

次女も一年ほど前、いくつか発明に凝った事があった。
商品化には至らなかったけど。

誰しもが通る道なんだろうか

夢を描いてあれやこれやって、一回は経験すべきだなと思う
人生楽しい方が良い

あなたねえ、一回じゃないでしょうよ
寿司屋潰したのは誰?
ってカミさんには言われますけどね。

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[歳時記]4/14 徳川家康死去

4/14
徳川家康死去

江戸ファンとしては特別な日になります。

徳川十五代将軍シリーズもやりましたねえ

シリーズあれこれ(た行)

信長、秀吉、家康の中では、家康が好きです。

日本の今は、徳川家康と渋沢栄一で築かれたと思っています。

260年にわたる平和な時代
日本の歴史の中で、この時期にしかありません

死因
今日は、家康の死因について

徳川家康が74歳のとき、鯛の天ぷらに当たって腹痛に襲われたのが原因で寝込んでしまい、
死に至ったというのが家康の死亡についてのひとつの説。

どうでしょう

家康が病気になったときに診察をした医師である
片山宗哲が書いた『片山家譜』のなかの一節に
「大権現、御腹中に塊ありて、時々痛み給ふ」というものがある。

この文章は、医学的に見てみると、
どうやら家康は胃ガンにかかっていたとみることもできる。

つまり、鯛の天ぷらが原因であるという説は違うかも知れない

家康が鯛の天ぷらをその時期に食べたのかも知れないが
食べても食べなくても、その時期には家康は亡くなる運命にあったのかも知れない。

家康は、異常なほどの健康オタクであり
そこいらの医者が舌を巻くほどの医学の知識を習得している

例えば、馬術は断トツに優れているのに、いざという時は馬に乗らない
危ないから

不用意に死んじゃった、というイメージはどうも家康には馴染まない気がする

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[歳時記]4/13 日本に喫茶店が初登場

4/13
昨日がパンで今日はコーヒーです。

日本ではじめてコーヒーを飲ませる喫茶店ができたのは、
1888 (明治21)年の4月13日。

東京上野の下谷西黒門町に登場した「可否茶館」が現代的な喫茶店の第1号だった。

1階はビリヤード、2階は喫茶店という洋館で、客席は50、
新聞や雑誌だけでなく将棋や碁なども備えていたというから、今でいうサロン、
娯楽場のようなものだったらしい。
経営者は鄭永慶という東京の士族だった。

当時の宣伝文句がすごい。
「珈琲の美味なる思わず腮を置き忘れん事疑いなし」。
つまり、アゴが外れるどころか、アゴを置き忘れてしまうほどおいしいというのだ。
よほど自信のある味だったのだろう。

値段はコーヒー1杯が1銭5厘、牛乳入りのカフェ・オレは2銭だった。
さらに席料が1銭5厘。
当時はビール1本が1銭だったから、それにくらべれば高くはないが、
もりそばが1杯1銭という時代を考えれば、やはり割高という感じはある。

華々しく開店した店だが、残念ながら経営は順調にはいかなかった。
値段が高額だったのも災いしたが、
それ以上に問題だったのが、人びとがコーヒーにまだ馴染んでいなかったこと。

いくら新しいもの好きの日本人とはいえ、見た目は真っ黒で、おそるおそる飲んでみると、
これが未体験の苦い味。

コーヒーの苦さは当時の人の口には合わなかったのだ。
結局、赤字続きの経営に鄭はノイローゼとなり、
日本初の喫茶店はたった3年でつぶれてしまった。

その後、明治末から昭和にかけて「カフェー」が流行。
東京銀座の「カフェー・ライオン」、
京橋の「カフェー・プランタン」「カフェー・パウリスタ」などが現われ、
これがコーヒーの普及におおいに貢献した。

しかし、これらの店には着物に白いエプロン姿の女給がいて、
コーヒーというよりもお酌をしてビールや酒などを飲ませていたわけだから、
厳密には喫茶店とはいえないかも

また、昭和になると今度は音楽喫茶が流行。
音のいい蓄音器でクラシックや軽音楽などが聞けるとあって、
当時の学生やサラリーマンなどが集まり、
音楽とともにコーヒーを楽しむようになった。

戦後になるとさらに多様化して歌声喫茶、深夜喫茶、
同伴喫茶、ノーパン喫茶ってのもありましたね。

いつ頃だろう、喫茶店を見なくなってきたなあ、という時期がありました。
でも、その時期は長く続かず
ドトールだの、スターバックスだののチェーン店が雨後の竹の子のごとくバババババ

昔ながらの純喫茶と言われる店も健在
次女は、純喫茶を色々巡るのが趣味
いっぱいありすぎて大変、と言っておりました。

今は、コンビニで美味しいコーヒーが100円で飲める時代になりました。
コンビニの100円コーヒーほんとに美味しい
毎日お世話になっています。

今は、中京圏のコメダ珈琲がものすごい勢いで出てきています。
カミさんは中京圏なので大喜び
喫茶店はね、アンバタトーストがないとダメなのよ、ほらほら

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