島秋人の手紙その2

島秋人の手紙その1の続きになります

前坂和子
当時高校生の前坂和子は
次に掲載される島秋人の短歌を心待ちにするようになります。

自分で、島秋人の歌集を作り、「いあいしゅう」と名付けます。
自分だけの歌集です。

そんなある日、新聞である報道があります。
島秋人の死刑が確定

前坂はいてもたってもいられず島秋人に手紙を書きます。

島からはとても素直な、ありがとう、の返信

何度かやり取りして
一度会いたいですね、ということになる

前坂は「いあいしゅう」を持っていきます。

その後、二人の文通は続き、
実に6年の長きに渡ります。

千葉てる子
次に、島の短歌に強烈に心を突き動かされた人がいます。
千葉てる子さん
島秋人より十歳年上。
熱心なクリスチャンです。

手紙を書いて面談もして
でも、あまり神様がどうのという話をする気になれなくて
友達のように接したら
島も心を開いて、神様の事もたずねるようになり
「信仰の姉さんになって下さい」
昨日書いた手紙の文面にあった、洗礼のくだりは
そういった経緯を経ています。

島は、次第に死刑になってかつ人のためになることができないかを考え
遺体と角膜を捧げようと考えます。
でも、肉親の同意書が必要です。
島は戸籍から外されてしまっています。

千葉てる子さんにあるお願いをします。

養母になってくれませんか

千葉さん快諾
10歳年上なだけなんだけどね。

島秋人、本名、中村覚は千葉覚になります。

その日
昭和四十二年十一月一日朝、処刑の日が明日であると告げられます。
この日、予め呼ばれていた五人との最後の特別面会が許されました。
お父さん、養母の千葉さん、前坂さん、教誨師(きょうかいし)の泉田精一さん、
そして彼の信仰の導きをした小川久兵衛牧師です。

千葉:明るいね、どこまでも明るくてね、ニコニコして、ほんとに明るい顔していました。どこにも曇りのない。とにかくみんなで会うのが嬉しかったんじゃない。いつも金網越しで会っていたもの。「このまま私が許されたら、いいことするんだけどもな」なんて、ポツッと言ったのね。ほんとだなあ、と思ってね。私は、涙ボロボロ出て・・・

手紙
被害者の鈴木さんへ、
長い間お詫びも申し上げず過ごしていました。申し訳ありません。本日処刑を受けることになり、ここに深く罪をお詫び致します。最後まで犯した罪を悔いておりました。亡き奥様にご報告して下さい。私は、詫びても詫びたらず、ひたすらに悔いを深めるのみでございます。死によっていくらかでもお心の癒されますことをお願い申し上げます。申し訳ないことでありました。ここに記し、お詫びのことに代えます。皆様のご幸福をお祈り申し上げます。
昭和四十二年十一月二日朝、千葉覚
 
吉田さんへ
吉田絢子様
奥様、とうとうお別れです。僕との最後の面会は、前坂君も来てくれるので、前坂君から聞いて下さいね。思い残すことは、歌集出版がやはり死後になることですね。被害者の鈴木様への詫び状を同封致しますから、お届けして下さいね。僕の父や弟などのことはなるべく知れないように守って下さいね。父たちも可哀想な被害者なのです。短歌を知って僕は良かったと思って感謝しています。僕のことは、自分で刑に服して償いとするほかに道のないものと諦めています。覚悟は静かに深くもっています。長い間のご厚情を感謝致します。有り難うございます。
 
前坂さんへ
前坂和子様
色紙と空穂先生の序文と住所をひかえたノートと年賀状と万年筆を差し上げます。年賀状の方々に、歌集刊行の節はお知らせ下さい。万年筆は私の使用していたものです。
十一月二日朝
惜しいようなのにとうとう朝です
和子さん、さようなら。
秋人

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島秋人の手紙その1

心にひびく日本語の手紙シリーズとしては最終回になります。

とても一回じゃ無理なので2回に分けます。

手紙
前坂和子様
十一月十四日
昨日の朝日新聞に村田めぐみちゃんの詩のことが「天声人語」にのっていた。
「手足の不自由な子供を育てる運動」月間のための記事ですが。
君の眼力?には感心したり、驚いたりです。
六百の詩と三年十一カ月の生命。
ベストセラーづくものは何となくキライな僕は
読んでいてもだまされているみたいになってしまう。
読まずギライだなあ。僕がいいたいのは上手なものはきらいなんだ。
少し欠点のあるものの方が親しみを感じる。
絵葉書、美しいなあと思った。
草の色と水の色とが美しくとけあっていて気に入った。
来週か、その次の週に洗礼を受ける事になります。
本当は川の中に入れられるのだそうですが頭を濡らすだけですむそうです。
冬もやのこもった空を見て来たら何となくものうくなってしまって、
さっきまで活力のあった体がもさーっとしている。
いちおくの人間の中のひとりの僕がひそうな思いで過ごす、いちにち。
ちっぽけなもの。100000000の中の1。
考えてみれば虫けらみたいなもんだ。
蟻がいっぴき踏まれて死んだよりなんでもないことだろう。
僕のひとつのいのちはひとつしかない。
いちにちがいとしいと思う。死刑囚だから。
  秋人

島秋人
島秋人は、本名中村覚
強盗殺人の罪を犯し逮捕され
最高裁にて死刑を言い渡される。
その時、27歳になります。

獄中で一冊の本と出会います。
開高健の「裸の王様」

絵を書くことによって、暗い孤独感の少年が少しずつ開かれていくという筋がありました。

絵を書きたい

自分の心の中にある童心を呼び覚ましたい
子供の書いた絵を見たい

中学の恩師、吉田好道先生に手紙を書きます。
思いに至った経緯と、子供の書いた絵をおくってもらえないかという内容

彼は子どもの頃から病弱で、さまざまな障害を持っていました。
家も貧しく、他人からバカにされて少年時代を過ごします。

新聞配達の仕事につきますが、集金の金を盗んで、家出し、東京で放浪の生活を始め、
窃盗・強盗未遂で少年院に入ります。
以降、出所しては犯罪を犯し、の繰り返し
少年院と強制入院させられる精神病院を行ったり来たり
そして、とうとう強盗殺人を犯してしまいます。

送られた手紙は、吉田先生のみならず、その奥さんの目にも止まります。

(以下、島秋人を特集したテレビ番組をまとめたWebサイトからの引用)

吉田:それは彼岸のお中日でしたの、秋の。
そして、主人が部屋で手紙を広げて読んでおりましたけれど、だんだん、だんだんこう下を向きまして、
ほんとにジッと下を向いて動かないんですね。
私もちょっとどんな手紙がきたんだろうと心配になりまして、そして主人に、「何の手紙ですか?」と訊きましたの。
そうしたら、黙って、私に寄越しましたのでね、
私、読まして頂きましたら、
「私は、中村覚と言って、昔、先生に教えて頂いた生徒だ。今、死刑囚になって、東京の拘置所にいる」と書いてありましてね。
そして、開高健の『裸の王様』という本を読みまして、そして非常に先生の絵が見たくなった」と言うんですね。
で、「自分のことを振り返りますと、人の誉められたとかということは全然なくって、いつも底能だ、バカだ、と言われて、過ごしてきたんですけど、先生にたった一度だけ誉められた思い出がある」というんですね。
それは、「自分の一生のうちに、その一度だけだった」というんです、「誉められた」ということ、「先生の絵が是非みたい」という手紙でしたの。
主人はそれを読みましてね、ほんとにその生徒のことをちょっと忘れていたんです、十何年も経ちましたし。
でも、胸に応えたらしいんですね。
私もそれを読まして頂いて、ほんとに胸がつぶれる思いがしましてね。

その後、吉田先生は急いで海に行き、海の絵を自分で書き
奥さんは自分の子供の絵を選ぶ
吉田先生の丁寧な手紙、絵、さらに奥さんも手紙を書いて同封する。

まさか、奥さんからまで手紙をもらえると思っていなかったので大感激
すぐに返信

その返信の中で、最後に俳句を書いたのが
奥さんの心に強く届きます。
奥さんは、短歌をやられているんです。

短歌をやってみられたらどうかしら

自分の人生で考えて
短歌を詠っているということで
随分救われた事があったそうです。

短歌を作って奥さんに送る

こんな風に変えてみれば、より良くなるわよ
って送り返す

短歌を詠う時の名前は
「島秋人」ってどうかしら

素敵ですね

秋人はしゅうじんとも読めますから

そういう日々を経て
世間様に発表出来るレベルに達したと
今度は毎日新聞の歌壇に投稿することを勧める

採用される事もちらほら出てきて
少しずつ、死刑囚の詠んだ歌は世の中の知るところとなります。

その読者の中に、高校生がいました。
名前は前坂和子

特段短歌に興味もなかった前坂が、最初に島秋人の短歌を目にしたのは
本当にたまたまだったようです
それから、とても気になる短歌となります。

後に、文通が始まることになり
その手紙の一つを先程紹介させていただきました。

なぜ文通が始まることになったのか、
明日、続きをお話しすることにします。

握手さへはばむ金網(あみ)目に師が妻の
手のひら添へばわれも押し添ふ
 
うす赤き夕日が壁をはふ
死刑に耐へて一日生きたり

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幕末の公使館跡を歩く(高輪)

春だ
週末だ
お出かけだ

祝日に雪だったので行けなかった、芝公園からね

芝公園から
勝海舟と西郷隆盛、江戸城無血開城会見の地
札の辻
高輪大木戸門
泉岳寺

という大物はもう行ったことがあって
それに新ネタをどう盛り込んでいくか

東京街かどタイムトリップ
普通のガイド本ではなく、ちょっとマニアックな感じの東京歩き本があったので
昨日買いました。
そこから、今日の地域で二つほどあったので、盛り込もう。

スタート
NECビルの横に、薩摩藩屋敷跡
あれっ
2組4人もいる

これがあるだけなんですけど
これをバックに記念撮影していました。

今まさにこの場所での話を中心に西郷どんなので
いやあ、大河ドラマの影響力は大きいなあ

すると女の子の方が、
西郷吉之助って書いてある!

あれれっ
西郷どん見てきたんじゃなかったのか

西郷どん、連続で行きましょう

この、ど定番の話は今日は省略
西郷隆盛。なぜ江戸城総攻撃を中止したか
を読んでね

GoogleMapに
港区立港郷土資料館ってあるぞ

よし、行ってみよう

エレベーター降りたら、いきなり、鯨の骨がお出迎え

なかなかのインパクトです。

勝海舟の書いた陸蒸気の掛軸とか
むさしあぶみとか
家光を探しましょう屏風とか
当時の台場の配置図や設計図とか
家康の書状とか
貝塚や、この前行った丸山古墳の出土品とか
色々楽しめます。

全体的印象は、いかにも公立って感じで
それはそれで好感が持てる

さあ、次行くか

出入り口で、資料の本に目が止まった
大体、博物館って、その分野で専門的な本や資料を置いてあったりするコーナーがある
気合い入っているところだと、その博物館が出版したりしている

いつもパラパラっとは見るようにして
へえ、面白いね、と

今回、強烈に気になるものがあった

丁度、今読んでいる本で
「外国人が見た 幕末・明治の日本」というのがあって
オールコック、ハリス、パークス、ロッシュ、ヒュースケン、アーネストサトウなんかが書いてある
とても面白い本。

その繋がりで、今日、英初代公使オールコックが滞在した、東禅寺には、今日行くつもりでいた。

ズバリやん

必死で立読み
こんなのがあった

えっ、ちょっと
東禅寺は知ってたけど
フランスもオランダも高輪に集中してるの?

幕末の公使館跡を歩く、高輪コース
行く行く、絶対行く

良く良く辺りを見ると、この博物館自体が販売している
1500円
事務所を探して

すみません
これはここで買えるんでしょうか

はい、販売しております。

大幅に、予定追加です。

このでっかい本を小脇に抱え
タブレットのGoogleMapも見ながら
そうそうマニアックポイントも行かなきゃね

うわあ、忙しいぞ

定番ものも含めいっぱい行ったんですが
写真をスライドショーで見ていただくとして
解説はバッサリ割愛させてください。

よし、公使館跡巡りへゴー

フランス
まずは一番近いフランスからだな
済海寺になります。

フランスは幕府側につきました。

初代、ド・ベルクール、二代目ロッシュ
ロッシュはすごく面白いので、また近いうちに、改めて書きますね

これ、外国人側で、済海寺を描いた珍しい資料

うーん、かなり近代的になっちゃってます。

マニアックポイント
次、オランダなんですが
その前にマニアックポイントだけはさらっとご紹介
昔、広大な土岐家下屋敷だったのが
途中の民家を挟んで亀塚公園と、三田台公園に別れるんですが
元が同じお屋敷だったので塀の形が同じだというもの
亀塚公園

三田台公園

参拝の人が置いてあるベーキングパウダーをパタパタやって、いつも顔が真っ白な
玉鳳寺の御化粧地蔵(おしろいじぞうと読む)

朝顔につるべとられてもらい水、の井戸とかはスライドショーでね

オランダ
オランダは長応寺

ないなあ
いくら探してもありません。

良く良く見ると
長応寺跡。
今、長応寺はないんですね

頑張って探して、ここ

オランダ公使館跡との看板すらございません。

ここは、スイス、ベルギー、デンマークも使っています。
この絵面白いですよ

写真家ベアトの撮影した以下の写真を元にスイス人、ド・ヌービルが絵を描いています。

何故そんなことしたかというと、オランダ国旗の横に、スイス国旗も入れたかったから。

イギリス
イギリスはこのあとお話しする、東禅寺なんですが
第一次東禅寺事件、第二次東禅寺事件と攘夷の襲撃に逢い、
御殿山に公使館を建設したのに、伊藤博文、高杉晋作、井上馨の長州3人組に焼き打ちされてしまいます。
で、次に目をつけたのが、高輪接遇所
泉岳寺のすぐ横に建設します。
今、泉岳寺前児童公園になっているところはその一部

ごめんなさい
今回泉岳寺そのものは赤穂義士記念館や木像館も行ったし、
四十七士の内、細川家預かりになった17人の自刃の場も行き
赤穂義士関連も気合い入ってますが
バッサリ割愛ね

イギリス2
いよいよ、東禅寺です。



初代オールコックは、
本国に戻った後、「大君の都」という本を書き
東禅寺を絶賛している
完璧な寺だと。

第一次東禅寺事件では、護衛の武士が勇猛果敢に戦ってくれたので
勲章送ったんだけど、第二次東禅寺事件では
護衛の武士が襲撃しちゃった。
複雑ね

どこ行こう、そうだ!おでかけマップ

甦れ、田中久重の万年時計

田中久重シリーズ第三弾ということになります
田中久重。東芝未来科学館に行って来ました。
田中久重。東芝未来科学館に行って来ました。続き

あまりにすごいので後回しにした、万年時計です

万年時計

2つの意味で感動してしまいました。
ひとつは、万年時計そのものと田中久重の仕事の仕方だったり思いだったり
予想を遥かに超えていました

もうひとつは、プロジェクト
万年時計を分解して、その機構を理解した上で
動く万年時計として復元しようという
国家的大プロジェクトが100人規模の現代の最高峰の技術者を集めてとりおこなわれたんです。

こういうの大好き
増上寺の台徳院霊廟の解体復元プロジェクトも泣けたなあ
徳川将軍の墓掘り起こし大プロジェクトも

はるか時空を越えて、超一流の技術者同士に思いが通じ合うってやつ
ああ、泣ける
泣いて良いですか

東芝未来科学館で万年時計の映像が流れていて
それで度肝を抜かれて、家に帰ってさらに調べると
プロジェクトの様子が、一時間番組がyoutubeにアップされていましてね

当分、この興奮が尾を引いてしまいそうです。

以下、この番組の内容を中心に引用していきますね

概要
6つの時計の面があります。
和時計
二十四節気
十干十二支(干支です。60種類のいずれか)
七曜(日月火水木金土)
月の満ち欠け
洋時計
そして、上部のガラスのドームになっているところが、天球儀
京都から見た太陽と月の位置が正確に分かります
一回のネジの巻上げで何と1年間動きます。

もうここまでで、暦ファンとしてはクラックラ来てます。
卒倒しそうです。

番組では、3つの謎と言っておりますが
仰る通り
卒倒ポイントは3つです

卒倒ポイント1:天球儀
今までも、天球儀はありました。
江戸時代の天文学者にとってみれば、最も関心の高いグッズです。
渋川春海だってかなり精巧なものを作っていますし
伊能忠敬だって全国に持ち歩いています。

ただ、今までのものは3次元で太陽や月や惑星などの通り道が示してあって
今日は何月何日なのでと丸い印を人間がシュッと合わせて理解するためのもの

「動かす」天球儀であって、自分で「動く」天球儀なんてあり得ない
夏至から冬至までの太陽の回る軌道の高さを変えるため支柱の根っこの場所と角度を変えることで実現。
お皿上のものが回り、その上にいくつかの歯車がありその先に支柱
結果としてこんな風に

奇跡だと思う。

プロジェクトの責任者もとても嬉しそう。

卒倒ポイント2:和時計
和時計以外の5つの面はえっそんなのまで?みたいな嬉しさはあるけど
理屈的にはまあ可能かなと。
一年を固定の数字で割ればいい
二十四節気は一年を24で、干支は60で、曜日は7で、月の満ち欠けは29.4で
洋時計は普通に時計。

ところが、和時計だけは簡単にはいきません。
不定時法だからです。
このブログでも何度か話しました。
日の出りが明け六つ、日の入りが暮れ六つ
その間を6等分したのが一時(いっとき)
季節によって変わるという事です。

それで時計を作れって
そんなん無理やん

以前、谷中にある大名時計博物館に行きました。
実は全く無理な訳じゃなく
色んな人が数々の工夫で何とかしています。

季節によって文字盤を入れ換えたり
重りを変えて、進む速度を変えるとか
でも、そういう調整をするのは人間が季節を理解して行う。

調整自体を機械にやらせようという発想は今までありません。

そんなん無理やん

何と文字盤がぞろぞろぞろっと動きます。
上の方に寄ったり、下の方に寄ったり

一体なぜそんなことが可能なのか

こんな変わった形の歯車がある
虫歯車と名前をつけるんだけど、それで可能になるってことまでは分かる
プロジェクトのそうそうたるメンバーも
良く分からん、作ってみるしかない

同じものを作って動かしてみて、ようやく、そういう意味か
これより先は言葉では余りにも難しいんで、やっぱり動画を見てくださいね
動画を見ると合点がいきます。

発想ですね
専門家の人も、全くこんな発想したことないと言われてました。

卒倒ポイント3:動力機構
長くなっているので、ここはさっと行きますが
ゼンマイ一回の巻き上げで1年動くって、どうにもこうにも
専門家もビックリのゼンマイが二つで
力が強い最初の頃と、力が弱い最後の頃を均一のスピードにするための
サザエ車というこれまた独自の発想の機構を介して動く

復元
分解して機構は理解できた
さあ復元だ

目標は「愛、地球博」での出展
ありましたね、愛知県での万博
私も行きました。

同じ仕組みの部品を作って組み上げて
今動く、田中久重の万年時計の完全レプリカ

例えば歯車でいうと
全て久重がひとりでコツコツとヤスリで擦って歯を出していった。
気の遠くなる作業

今は、当時とは比べ物にならない精度ですぐ出来る
設計図が完璧に書ければ、動くはず

ところが問題発生
例の虫歯車のところが引っ掛かってスムーズに動いてくれない
結局、ヤスリでちょっとずつ削って微調整。

良いですね
久重からの声が聞こえて来そうです。

そこは苦労してもらわないと

台座の装飾、綺麗ですよね
これはさすがに久重が自分で作った訳じゃなく
当時の超一流の職人に依頼

今回も現代の超一流の職人に依頼

さあ、どうだったか

結論的に言うと
完全レプリカという意味では、
愛知万博に間に合わなかった

ゼンマイは真鍮で出来ているんだけど
どうにも時間がかかりすぎて断念
ステンレスで作りました。

そこ以外は完璧なはず

さあ、ゼンマイ巻くよ
動くかなあ

動いた!
みんな大歓声、大拍手

復元したものにしか分からない
久重の思いとかこだわりとか
そういうことを感じつつの作業ですから
おそらく全員に久重の魂が乗り移っているでしょう

プロジェクトリーダーさんが
最後に言っていました

仕事って、困難な事があると代替策を考えて
こうやったら
100%同じではないにしても大体同じ感じになるっていう
安易な方向に行ってしまうけど
田中久重はそれを一切しなかった人なんじゃないかな

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[江戸の理系力]シリーズはこちら(少し下げてね)