巻層雲。ハロが目印

雲のシリーズ、前回は巻雲でした。

温暖前線で雨が降る場合のはじめの一歩が、巻雲ならば
次の一歩が巻層雲です。

その次、巻積雲になり、という感じで少しずつ変わって行きます。

巻層雲
巻層雲は高度の非常に高い場所で、空一面を覆うように、
ベターってしろ一色になっている雲
薄雲とも言われます。

層状の雲には、もうちょっと高度が低くなった、高層雲というのもあるんだけど
どっちも空を覆うようにベターってなっている訳だから
下から見て、高度が分かるわけありませんね

お手上げです。

でも、一つ手がかりが。

巻層雲には、ハロというのが出来る場合があります。

こんな感じで太陽の周りが丸く囲まれる。

幻想的ですね
見つけたらラッキーです。
きっと良いことが起きます。

巻層雲はとても高い場所なのでとても寒い
ということは、中身は雨粒じゃなく、氷の粒です。

プリズムのように、光を屈折させて
光の輪っかを作るんですね

ハロが出来ていれば、高層雲ではなく、巻層雲だと明確に言えるのですが
残念ながら逆は真ではありません。

巻層雲だからといって、常にハロが出来る訳ではありません。

ハロが出来ていない、ベターっとした雲の場合には
見分けがつきませんので諦めましょう。

ハロが出来ているか見分けようと空を見上げたとき
雲が薄い場合、太陽の光が強すぎて、眩しく良く見えないことがあります。
特にハロが出来るのはお昼時とかのまだ太陽が高い時なのでなおさらです。

そんなときの裏技。
あれ?ハロちゃうのん?写真撮ろうと思った時なんかは特に有効

街灯を太陽隠しに使うんですね。
かっこいいです。

うまい具合に街灯がないときは、自分の手で代用しましょう。

雲の写真を撮る専門家は
常に柄の長いお玉を持ち歩いているそうです。

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ヒメヒオウギ

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[百人一首]5 奥山に

奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の
声きく時ぞ 秋は悲しき

奥深い山の中、散り敷かれたもみじを踏み分けて鳴く鹿の声を聴くときは
秋の悲しさが身に染みるなあ

猿丸大夫
猿丸大夫ってとても不思議な名前

三十六歌仙にかぞえられているのに
確実にその作品だと言えるものが一首もない

本当はそんな人いなかったんじゃない?

じゃあ、この歌は何なのかですが
古今集で「読み人知らず」となっているのを
藤原定家が勝手に猿丸大夫の作として、百人一首に入れちゃった。

哲学者の梅原猛さんは
柿本人麻呂の別名なんじゃないかとの説を唱えています。
人麻呂は人丸とも言われているんですが
政争に敗れ、ときの権力者から、抹殺された上に
貶められた
名前を人から猿に変えさせられたと。

面白い説なので
井沢元彦さんがこれを題材に「猿丸幻視行」という歴史ミステリー小説を書いて
江戸川乱歩賞をもらっています。

おそらく実在しない人物なのに

すごく歌のうまい人がいてね
山の中に住んでいるんだよ
それはそれは、素晴らしい歌を読む
誰も見たことないし
詠んだ歌は分かっていないんだけどね

良いですね
ファンタジーです。
サンタクロースが歌を詠むみたいなもんです。

読み人知らずの良い歌ばかりを集めて
「猿丸大夫歌集」を作ったり
猿丸大夫のお墓があったり
猿丸大夫の家系図があったり
みんなが「お約束」の中で遊んでいる。

藤原公任もロマンチストですよね
そういう人を三十六歌仙として選んじゃうんだから

そして、藤原定家も
そんな質の良い、おふざけに乗っかって
百人一首に選んじゃう訳ですから
天晴れです。

クリスマスとかハロウィンとかバレンタインデーとかあるんだから
勝手に猿丸大夫の誕生日とか決めて
大手流通チェーンが大々的にイベント打てば良いのに

気になる人や、お世話になった人にプレゼント、和歌を添えて贈る日
モンキーマジックデー

鑑賞
分かり安いですね
こんなに分かりやすい歌も珍しい。

みんなが同じイメージを思い描くことができますね

メスの鹿は当時「めか」と言われていたらしいから
これはオスの鹿

紅葉の綺麗な時期に、メスを求めて求愛の鳴き声を発するらしい。

こんな鳴き声かな

恋しかぁ

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クレマチス

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[昭和歌謡]47 わたしの城下町

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです

わたしの城下町
小柳ルミ子
作詞 安井かずみ 作曲 平尾昌晃
1971年

♪格子戸をくぐり抜け 見上げる夕焼けの空に
誰が歌うのか 子守歌 私の城下町

改めて読んでみて
この歌詞、素晴らしいですね
格子戸で夕焼けで子守唄が聞こえる城下町
こういう歌詞でヒットしたわけですから
とても良い世の中ですね

気づかなかったんだけど
「私の城下町」じゃなくて「わたしの城下町」らしいです。

作詞の安井かずみさんいわく
「私の城下町」と言い切れるのは、殿様だけだから

小柳ルミ子
八重歯、可愛かったなあ
時の流れというのを感じますね
色々ありましたよね

西郷どんで、お由羅をあんな風に演じられるようになるんですから

瀬戸の花嫁もそうだけど
こういう国民的歌謡曲とも言える歌をもらったって
幸せでしょうね

今の歌謡曲も、良く良く聞くとかなり良い歌詞が多いです。
なかなか今も、とは思うけど、
いくらなんでもこの、わたしの城下町ほどの歌詞は無理でしょうね
会社に新人の娘さんが来て、カラオケでこんなの歌ったら
おじさんたちひっくり返っちゃいますね。

ああ、今度カラオケでこれ歌おう。

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エニシダ

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高松凌雲。赤十字の精神で

江戸の理系力シリーズです。
医学ジャンルとしてはこれが最終回です。

高松凌雲
たかまつりょううん 医学者 1836~1916

今の福岡県に産まれますが
江戸で医学を勉強しているお兄さんに刺激を受けて
自分も江戸に出て
石川桜所という蘭医に弟子入りし
書生として働きながらオランダ医学を学びます

その後、今度は大阪に行って、緒方洪庵の適塾に入門
オランダ語は自由に読み書きできるようになる

緒方洪庵が幕府の奥医師兼医学所頭取になって
適塾が閉鎖になってしまいます。

一回、田舎に帰りますが
やっぱり
って、江戸に舞い戻り
再度、石川桜所の元へ

石川桜所に随行して京都へ
そこで、噂を聞き付けた一橋家からお声がかかります。
幕府の奥詰医師となります。

フランス
幕末の一橋家

一橋慶喜が将軍になり
慶喜の弟、昭武はパリ万博に出展の為、フランスへ
そのまま、諸国に留学で回る

この時、あの渋谷栄一も同行して諸外国を回ったんでした。

なんと渋谷栄一以外にも同行した有名人がいたんですね
高松凌雲

フランスではパリ市民病院が併設している医学校へ入学
講義だけでなく、実際の病院での治療も見学
外科手術も目の当たりにし
あまりの技術の高度さに言葉を失う。

さらに、パリ市民病院に貧民病院が併設されているのを知り、見学
通称、神の家と言います。
貧しい病人を無料で治療しており
経費は全て富裕層からの寄附で賄われていることを知る

外国の新聞で幕府の崩壊を知り
新政府からの帰国命令で帰国した。

ここから、渋沢栄一とは若干動きが異なります
渋沢は新政府に抵抗する旧幕府の動きには同調しなかったが
高松凌雲は榎本武揚と共に函館に向かうことになる

榎本武揚から
箱館病院の院長になってくれませんか

病院の事に一切口出ししないということだったら良いですよ。

最新の医学のノウハウ及び、フランスから持ち帰った幾つかの器具がとても役に立った。

戦争が激化するにつれ
新政府の負傷者も担ぎ込まれるようになった

そいつは、憎き薩長の奴ら
何でこいつらを治療する
ここでとどめを刺してやる

幕府の兵士たちはいきりたつ。

待てっ

私にとっては同じ患者
気にいらないんだったら
出ていってください

いよいよ、官軍が函館病院の近くまで迫ってきた

榎本さん、あなたは必要な人だ。逃げてください。
ただ、私には患者がいる
函館病院は私の城
ここに、残ります。

不安がる病院のメンバーを説得

薩長たりとも人間
我々が取りうる方法はひとつ
無抵抗

全ての武器をタンスにしまいこむ

なだれ込んできた官軍に
薩摩藩の山下喜次郎という人物がいた

天下様はみだりに殺戮することを禁じている。
まして傷病者とあればなおさらである

さらにそのあと、同じく薩摩藩の村橋久成(後のサッポロビール創始者)がきて
和平を促す。
高松は説得に応じ、榎本に「降参しましょう」と手紙を書く

返答は
高松の無事を喜び、今までの患者達への配慮に感謝する
薩摩藩の特別の配慮に感謝する
自分は討ち死にするが
新政府の函館戦争の総指揮官、黒田清隆にお渡し願いたいものがある

オランダ留学の時から肌身離さず持ち歩いていた「海律全書」国際海洋法の本

その後
ご存知の通り、幕府は敗れます。

黒田清隆が、榎本武揚という男に惚れて
頭を丸めてまで、新政府の首脳陣に助命嘆願したこと
その後の榎本武揚の活躍はこちらを読んでね
榎本武揚。後半。この命に意味があるのなら

高松凌雲にもお声がかかります。

すみませんが
お世話になるつもりはありません。

やりたいことがある

それは、あのフランスで見た貧民病院、神の家

一開業医として理想の実現へ
この病院は成功し、貧窮の人達は無料で治療。

ということはひょっとして、日本赤十字を始めた人?

ちょっと違うんだなあ

佐野常民
日本赤十字の創始者は佐野常民
佐賀藩です。

あれ?聞いたことあるような

はい。
田中久重に佐賀藩に来ない?と誘った人物
繋がりました。
こういうの楽しいですよね

実は、佐野常民も緒方洪庵の適塾に入門し
パリ万博にも同行し
高松凌雲と共に、フランスの神の家に感激した一人

高松凌雲は函館戦争でしたが
佐野常民はその後の、西南戦争の時に
敵味方を分けない、赤十字的活動を行います。

目指すものは一緒なので
佐野常民は高松に「一緒にやらない?」
とお誘いします。

一緒にやれれば良かったのにね
詳しい経緯は分からないんですが
結果、断っちゃっています。

その後、高松は一病院だけでは限界があると
同愛社というものを設立
榎本武揚、渋沢栄一が強力にバックアップし、
赤十字的活動を広く展開していきます。

一方、佐野常民は、博愛社というのを設立
後の日本赤十字社になります。

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アッツサクラ

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