[足利将軍]8-4 義政 応仁の乱終結

[足利将軍]8 義政。頑張る気持ちはあるんだけど
[足利将軍]8-2 義政。応仁の乱の始まり
[足利将軍]8-3 義政。応仁の乱2
の続きです

応仁の乱3

まだ続く応仁の乱

本来、市街戦は短期決戦で1~2ヵ月で終わる事が多かったのだけど
京都内で東軍西軍両軍が陣地を強固に囲ったので、すぐには攻め落とせなくなった
さらに、足軽という、雇われ兵が大量導入されることで、戦のやり方が変わってきた
両軍の勢力が全く拮抗していたため、どんどん長引くことになり
京都の町は焼け野原になっていく

5年目になり、疱瘡(ほうそう=今でいう天然痘)が大流行
さすがに厭戦気分が蔓延
6年目の文明4(1472)年、山名宗全と細川勝元との間で、和睦交渉が始まった
色んな情報が飛び交うが、ほとんど誤報だらけでうまくいかない
正式に和睦がなされないまま、なんと山名宗全と細川勝元の二人ともが隠居してしまった
両軍のトップがいずれもいなくなった事になる

さすがにそうなれば戦いも終結と思いきや
諸将たちは思い思いに戦いをずるずると続ける

そんな中で、東軍の諸将たちがそれぞれ勝利をおさめてきた

翌年、7年目、山名宗全が70歳で他界
さらに、同年、細川勝元も亡くなる

同年、足利義政が息子の義尚に将軍の座を譲った

翌年、8年目。山名政豊と細川政元が和睦交渉を再開し成立
やっと終わったのか

ところが、それぞれの諸将たちは陣を解かなかった
結局山名と細川だけの単独和睦

義視が義政に謝罪し、許しを請い許される
ここで大きな役割を果たしたのが、日野富子だった

西軍の大物、大内政弘が義政の働きかけに応じ、長州に戻ることになった
そうなると、強気一辺倒だった畠山義就も考えざるを得なくなった

そうして11年目の文明9(1477)年
西軍はなし崩し的に解散し、それぞれ国元に戻った
応仁の乱、終結

ただ、一人の勝者も生まれた訳ではない
京都が焼け野原になっただけだった

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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