[江戸城] 江戸城の全貌を確かめに。

江戸城の全貌、という本を図書館で借りました
さらに、皇居をあるく、というムックも。

よし。良い本を見つけたぞ
江戸城についてみっちり研究しよう。

週末3連休
昨日の土曜日は、カミさんがお休みで家にいたから、お出掛けは無理。
明日は台風らしいので、今日しかない。
本はまだ全部読めていないけど、持っていって読みながら頑張ろう。

二重橋前から
千代田線の、二重橋前駅からスタート
皇居は何回か来ていますが
すごく広いのでとても大変
よし。頑張るぞ!

皇居前広場



相変わらずだだっ広いなあ。

ここは、以前何だったかと言うと、武家屋敷。
時代によって、入れ替わりがとても激しい場所。
なぜかというと、老中だったり、若年寄だったり
今で言う大臣になった人が住む場所
内閣改造がある度に入れ替わるので、引っ越しが大変。

初期でいうと、保科正之
幕末では、老中で、坂下門の変で襲われた、安藤信正や
老中、久世広周の屋敷
京都守護職をつとめた松平容保(かたもり)の屋敷もありました。

楠木正成(くすのきまさしげ)像

えっ、なんでまた皇居に楠木正成?と違和感はあります。
足利尊氏に負けた後醍醐天皇側についた人

少なくとも室町時代には、足利尊氏にたてついた逆賊

ところが、明治維新以降、南北朝の南朝側を正とする皇国史観が一般化すると
最後まで南朝に味方し、天皇に尽くした忠義者となったんですね
戦前は、教科書にものっている涙涙の人だったようです。

二重橋
子供の頃、関西から家族で東京に旅行し、
はとバスに乗って、二重橋で記念写真撮ったなあ
東京の象徴ですね

おっ母さん ねえ おっ母さん
久しぶりに こうして手をつないで
おっ母さんと一緒に 東京見物できるなんて
あーとっても嬉しいわ
ほら、おっ母さん見てごらんなさい
あれが宮城 二重橋よ

東京だよおっ母さんの島倉千代子の台詞の部分です
宮城(きゅうじょう)というのがポイント
戦前は皇居のことは宮城(きゅうじょう)と呼ぶ方が一般的だったんですね。


今日も、記念写真を撮っている団体さんがいました。
ただ、この位置からだと、二重橋良く写っていないんです
手前にある、眼鏡橋的な橋は、二重橋ではなく、正門鉄橋
その奥にある鉄の黒っぽい橋が二重橋

二つの橋が見えるから二重橋ということでもありません。

昔、木の橋だった頃
あまりに高い位置にあるため、下まで橋桁が届かない
一本橋をかけて、そこから橋桁を出して、上の渡る橋を支えた
こんな感じ

下の方の橋は大丈夫なのかなあ

桜田門を確認

良い石垣だったなあ。
今回、ようやく石垣の積み方を習得したので
石垣を多く見て回ったのですが
それについては後程、石垣だけまとめて書こうと思うのでここでは省略します。

桜田門は特別の思い入れのある場所
ウォーキングイベントでみんなで、桜田門外の変の寸劇をやった
楽しかったなあ

坂下門

桔梗門

この二つの門は、今日は入れないんですが
一般参賀の日は入れるんですよね。
入ったことあるんだよね
鼻高々

ここでは、水戸違いという面白い話があるんですが
話が長くなるので、石垣の話同様、お堀の話だけをまとめて話すことにしてその中で。

和田倉門跡の横になんともエキサイティングなもの

分水石枡(ぶんすいいします)です。
これ何の説明もなく、ただ置いてあるだけなので
予め本を読んでいないと絶対に気付かない。

平成6年度の和田倉門界隈の発掘調査を行って上水と、その井戸6箇所が見つかった。
分水石枡は水道管の向きを変えるジョイント部分です
掘り出したものをぽんと置いてある。

上の四角くくびれているところに木枠で作られた水道管がはまるんですが
少し高さが違うのがお分かりいただけるかと思います。
高い方から来て、低い方へ流れる。

巽櫓(たつみやぐら)
敵が攻めてきた時の防御の施設

ぽこっと出っ張ったところに石落としがあるわけですが
明らかに石落としがあるのを知りつつ、あそこから登ろうと言う阿呆はいません。
どちらかというと、美しさが重視されたデザイン。
今残っている櫓(やぐら)は、富士見櫓とこの巽櫓だけです。

大手門
さあ、ようやくやってまいりました。江戸城本丸への入口です

二つの門で構成される枡形門と言われる形式

門がひとつなら、敵が攻め入ってきた時、二方向からしか攻撃できませんが
このようにくいくいっとなっていれば3方向から攻撃できる
門はとても頑丈


基本的に内側に開きます
扉を閉じながら、敵を押し返し安いから
ピタッと閉まる訳じゃなく微妙に上側にVの字の隙間が出来る
門を閉めさせまいと、敵が槍を突っ込んできても、閉めてかんぬきを閉められる。

戦をしたものしか分からない、きめ細かい部分です。

鯱が置いてあります。

明暦3年に大手門を作り直したとき、の門の上に付けた鯱
背中に明暦3年と書いてあるのが分かります。

さあ、いよいよ入城

おっと、まだ入ってないのにこんなに長くなってましたね。
続きは明日にいたしましょう。

おでかけマップ

夢窓疎石。敵を弔いませんか。

名僧シリーズ

日本庭園でいうと神様みたいな人
そうか、夢窓疎石(むそうそせき)は僧だった

夢窓疎石(むそうそせき)
1275~1351 臨済宗

後醍醐天皇の招きで、鎌倉から上京し、臨川寺、南禅寺等に住します。
後醍醐天皇によほど信頼されていたんですね

足利尊氏や直義に、安国寺、利生塔を進言しています。
安国寺や利生塔については、こちらを見てね
室町時代の仏教

そしてさらに、後醍醐天皇の冥福を祈るために天龍寺を建立
出ました、天龍寺。

この流れだけ見ても、夢窓疎石の「気持ち」が伝わってきます。

自分は、後醍醐天皇に引き上げられて、一流の僧になることが出来た。

後醍醐天皇は一旦は、足利尊氏等の助けを受けて、建武の新政という成功者になる
この時点では、後醍醐天皇と足利尊氏は同じ方向を向いていた筈。
夢窓疎石も、その同じ方向を向いていたのでしょう。

その後、後醍醐天皇の残念な政治、のため、足利尊氏が反乱を起こして、後醍醐天皇を討つ
後醍醐天皇はしぶとく生き残り、南朝を起こすわけですが、そっちに行くのは難しいですね
足利尊氏につく訳ですが
恩人の後醍醐天皇の事を思い続けていたんでしょうね

足利尊氏にもよほど信頼されていたと思われます。
尊氏にある提案をします。
後醍醐天皇の冥福を祈りませんか

敵ですよ、敵
お互いに殺そうとした相手。
夢窓疎石でないと絶対に言い出せなかったでしょう。

その提案を受け入れ、尊氏は
大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改め
天龍寺を建立します。

芸術
仏教って宗教でありながら、哲学とかの色んな側面を持っていると思いますが
仏教の「芸術」の側面を庭園の観点から大きく発展させたのは、夢窓疎石です。
庭園の神様。

天龍寺の他

苔寺とも呼ばれる西芳寺

枯山水に関して言うと、元々あったもので、夢窓疎石が開発したものではありません
ただ、枯山水を大きく発展させたのは夢窓疎石です。
もともと浄土式の寺院であった西芳寺に呼ばれ、
禅宗寺院として復興していきました。
禅宗寺院の形をつくるため、庭も含めた大きな改革を行います。
その中で、枯山水を禅の修行をする場としてつくりました。

石で表現された大自然と対峙し、見えないもの聴こえないものを感じること
それを、禅の修行と考えたのです。

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]25 武烈天皇。怖くてやる気がなくて。そして途絶えた。

天皇シリーズ

武烈(ぶれつ)天皇
小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわささぎのみこと) 498~506年 

仁賢天皇には、息子が一人だけ。武烈天皇です。
仁賢天皇が崩御すると
大臣(おおおみ)の平群真鳥(へぐりのまとり)は好き勝手し放題。
自分が天皇になろうとまで考えます。

皇太子(武烈天皇)のためだと言って、宮殿を作り
自分が住み着いちゃった。

武烈天皇がめとる筈だった影媛(かげひめ)
その前にもう、真鳥の息子、鮪(しび)と関係を持っちゃっていた。
鮪(まぐろ)と書いて、しびと読むんですね

武烈天皇が影媛を呼び出したその場所に
鮪が割って入る。
恐いですね。修羅場ですね。

古代の人は面白いです
こんな場面ですら、歌をやり取りするんです。

(お前は一体誰なんだ)という歌

(お前こそ誰だ。俺の女に手を出すつもりか)という歌

等々。
結局、その歌のやり取りで、影媛と鮪の関係が分かり、怒り心頭

その足で、大連(おおむらじ)の大伴金村の家に行き、
兵をあげて、鮪を討て。

大伴金村は、鮪を殺した。
ついでに、お父さんの平群真鳥まで殺しちゃった。
大伴金村からすると、平群真鳥はライバルですから。

可哀想なのは影媛。
心底鮪の事を愛していた。

青丹よし 奈良の峡間はざまに 鹿じもの
水漬く辺隠り 水灌ぐ 
鮪の若子を 漁り出な 猪の子
(あをによし ならのはざまに ししじもの
みづくへごもり みなそそぐ 
しびのわくごを せりづな ゐのこ)

奈良の谷間で、射殺された獣のように、
水がひた寄せる岸辺にひっそり斃れ、
水びたしになっている、鮪さん。
その屍を探し回って、あばき出すようなことはしないで、猪さん。

泣き暮らします。

暴君
日本書紀には、武烈天皇はひどい暴君のように書かれています。
妊娠している女性の腹を裂いて、中の赤ん坊を見たとか
手の爪を剥がして、その手で芋を掘らせたとか
高い木に登らせて、その木を根元から切ったとか。

ただ、現在は実際にそういうことがあったわけではなく
途切れた先の天皇を際立たせるために、
作り事を書いたんだろうというのが定説となっています。

政治はというと全くの無関心
大伴金村に任せきりで、遊びほうけています。

そして、在位7年にして崩御します。

途切れた
困りました。
武烈天皇には子供がいない。
雄略天皇が、ライバルを次々殺しちゃってからというもの
後継者難に苦しみ続けておりましたが
いよいよ完全に途絶えてしまいました。

天皇家は、神武天皇以来、万世一系とかいって、途切れずに続いていることになっておりますが
この時は明確に途切れたと言えるでしょう。

小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわささぎのみこと)という名前がそれをもの語る
小泊瀬は大泊瀬(おおはつせ)に対応するもので、雄略天皇の事
やはり暴君でしたのでね。

稚鷦鷯(わささぎ)は大鷦鷯(おおささぎ)即ち、仁徳天皇に対応するもの
仁徳天皇以来の血筋が途絶えたということ。

じゃあ次はどうするのか
大伴金村がなんとかするんですが
次の継体天皇については、シリーズの次回でね

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[昭和歌謡]89 嫁に来ないか

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです。

嫁に来ないか
新沼謙治
作詞、阿久悠 作曲、川口真
1976年

♪嫁に来ないか ぼくのところへ
さくら色した 君がほしいよ
日の暮れの公園でギターを弾いて
何かしら忘れ物している気になった
幸せという 奴を
さがして あげるから
嫁に 嫁に来ないか
からだ からだひとつで

歌詞
良いですね。こんな歌詞書けますか
さすがです、阿久悠さん
思いついたとしても、気恥ずかしくて世の中には出さないでしょう。

今後、絶対あり得ませんね
この雰囲気の歌詞

新沼謙治
スター誕生の男性代表ですね
スター誕生の男性と言えば、新沼謙治か城みちるか
おそらくかなり気合い入って、売り方を考えて
あの風貌となまりで
よし。嫁に来ないか、だと

私の中では新沼謙治と言えば、紅白歌合戦
売れた年に出たのは、良いとして
その後、何年も何年も連続出場
大してヒット曲もないのになんでまた出てんの?
よっぽどNHKに貢献してるんだろうなぁ

ある時、雑誌で、紅白出場歌手の選考方法というのが出ていた。
まずは、紅白に出場して欲しい歌手のアンケート
これがかなり重要視される

アンケートを取ると
毎年毎年常に上位に入る歌手がいる。新沼謙治。
新沼謙治は外せない。

えっ
えええええっ

新沼謙治ってそんなに人気あったのか
おみそれ致しました。
おかしなNHKへのコネじゃないかと疑って申し訳ございませんでした。

プロポーズ
プロポーズの歌ですね

プロポーズってかなり前から考えますよね
私は具体的な言葉までは決めていませんでしたが
ひとつだけ決めていたのが、「大阪弁で言う」ってこと。
こだわりです。

カミさんには、会ったその日に、この人と結婚しようと決めた。
数ヵ月後にプロポーズするわけです。

話の中で、自分達のではなく、一般論としての結婚の話。
おっと、これは良い方向に行きそうだぞ。
自分は結婚することは難しい、と言い出した。
きたっ

なにそれ。
俺の事も考えてぇなぁ

はい、これプロポーズ。

そのあとは、結婚に対する障害を一つ一つ
こうやったら大丈夫。
そこは、こういうふうにしたげるよ

分かった?
解決だから、今度挨拶に行くからね
ちゃんと親に連絡しとくんだよ。

カミさんは今もって、プロポーズされていないと言い張っています。

ダメかなあ
確かにムードもへったくれもありませんね

[昭和歌謡]シリーズはこちら(少し下げてね)