庭復活大作戦。見事成功。

うちはマンションですが、一階なので専用庭がついています。

数年前に、芝生を育てるのに凝ったのですが
だんだん面倒になり
年々いまいち状態に。

去年、マンションが大規模改修になり、庭に足場の柱が組まれ
外に出れない状態
芝の手入れも一切出来なかった状態で
かつ、いっぱい工事の人が歩いたところは、芝がダメになっちゃった。

もう芝を育てるのはスパッと諦めようかと思っていた矢先
工事の人が部分的に芝を張り直してくれた

その辺の経緯は、こちらを読んでね

そうなれば、その親切に報いねば。

さらにこちらで、もう少し芝を張り変えて、庭復活大作戦を開始したところまで話しました。
庭復活大作戦

開始したときが4月24日
その時の状態がこんな感じ


横っちょは日があまり当たらないので、元々芝はほぼ育たないのが分かっているので
芝を諦めて、玉竜を植えた

さあ、そのあとどうなったのか
時の経過と共に、報告していきますね

5月9日、少しずつ新しく張り替えたところも緑色が出てきました。

5月29日
全般的に、緑がちょろちょろ増えてきました。

6月27日

とても良かったのが草取り
4/24に庭復活大作戦をやりますとブログで言ったら
芝専用の除草剤がありますよとコメントをいただいた。

芝専用の除草剤については存在自体は知っていたものの
芝だけ枯れず、他の雑草が枯れるというのがいまいち信じられず
使ったことはありませんでした。
でも、コメントをいただいたので使ってみようとさっそくやってみると
便利便利超便利。

コメントありがとうございました。
本当に芝は枯れず雑草がほとんど生えない
全く生えない訳ではないけれど
今までと比べると数段草取りが楽。

これならば、芝の手入れもそれほど苦になりません。

7月11日
これは、すごいぞ
芝をはじめてから数年の中で、最高なんじゃないでしょうか

踏まれてダメになっちゃったところももう一息

そして、いよいよ今日
8月22日
完璧じゃあ



[庭]シリーズはこちら(少し下げてね)

[歳時記]8/21 モナリザが盗まれる

モナリザ
現在、ルーブル美術館に所蔵されているモナリザ

かつて盗難にあったことがある

1911年8月21日
国家的大事件
警察の威信をかけた大捜索

逮捕されたのは
有名な詩人のギヨーム・アポリネールです。
彼の友人が、かつてルーブル美術館から小品を盗んで売りさばいていた事が分かり
共犯ではないかと疑われた

さらにその友人のピカソも

厳重な取り調べを受けたが、結局無実だった。

ではモナリザはどこへ行って
誰に微笑みかけているのか

2年もの月日が流れた。
イタリアのフィレンチェで
イタリア人、「ビンセンツォ・ペルージャ」が逮捕される

イタリア出身の木工大工で、
ルーブル美術館の絵画の保護ガラスをはめる工事をしていた男でした。

ペルージャは翌日は美術館が閉まることを知り、
中に潜んで隠れていた。
月曜の朝に隠れ場所から抜け出たペルージャは、職員が着ることになっていた、画家がはおるようなスモックの一種を身につけて、周りの人間から目立たないようにした。

モナリザが掛けられていたサロン・カレが無人であることを見て取ったペルージャは
絵を壁から外し、周囲から隔絶した階段吹き抜けに運んだ。

そこで保護ケースや額縁を取り払い(レオナルドが木板に描いた)モナリザをスモックのなかに隠して、そのまま警備室の前を通ってルーブル美術館の外へ出た。
警備員は水をペイル(水差し)に汲みにいっており、席を立っていた

ペルージャは2年もの間パリの自分のアパートにモナリザを隠していた後、
絵を抱えてイタリアへ戻っている。

モナリザは、イタリアの誇り
フィレンツェでもアパートメントに絵を置いていたが、
ああ、もう黙っていられない
自分はイタリアの誇りをフランスから取り返したのだ。

結局この地でギャラリーのオーナーをしていたアルフレード・ジェリと連絡をとった

逮捕

でも、モナリザはイタリア中の各所で披露され
新聞でも歓喜の見出しで飾られた後
ルーブルに返された。

たった6ヶ月で牢から出所
ただ、そのあとは特に騒がれた訳ではなく、
天寿を全うしたあと静かに生涯を閉じる

[季節]シリーズはこちら(少し下げてね)

[富岡日記]4 やはり七粒も八粒もお付けになりましたか

和田英の富岡日記、やっぱり有名なのか
[富岡日記]2 神様お願い
[富岡日記]3 盆踊りが思わぬ方向に。
の続きです。

数ヵ月がたち、英(えい)は一等工女に出世
そして冬になります。

おトイレの行き帰り
おトイレが結構遠いところにしかありません。
当時は灯りといってもとても暗いもので、途中の道はかなり暗い
怖いので、誰かと連れあって行くことが多いのですが
英はおトイレが近い方なので、そうそう付き添ってくれません。

一人で行かざるを得ないときは全速力
なぜかというと、時々たぬきかむじなかが、いたずらをする

あるとき、4人で行ったとき、
中のはしご段の際の部屋から火が見えました
あんなところに火があったら危ないな、と思って良く見ると、火が青い

えらいものを見てしまった。
みんなに言ったら怖くて大騒ぎになるから
自分も怖くて大声を出したくなるのをグッと我慢

すると春日さんが、震えながら
さっきの火は何でしょう

一同、きゃあああ
大急ぎで帰って、その日は布団にくるまってすぐに寝ました。

お芝居
ある日事業済み後部屋長から、
今夜お賄にお芝居があるから参って見るように

大喜びで皆参りました。
何個もあります大釜の上に舞台が出来まして、
花道は本式にかかって、賄方の番頭共が皆役者になりまして、かつらをかむり、
衣裳なども皆本物で致します
おいらんとその恋人とのやり取り

みんな大喝采

すると、そでから、取締役が二人
お偉いさんまで芝居に参加するのかと大盛りあがり

でも何だか勝手が違います

大声を出しておいらんを突き飛ばす。

ようやく意味が飲み込めました。
どうも無許可だったようです。

みんなそそくさと会場を後にしました。

4月頃
さらに時が流れ、春になりますと尾高様に呼ばれました
(あの、渋沢栄一の大河ドラマでお馴染みの尾高惇忠が工場長です)

とてもよくやってくれているので、出来るだけ長くいてほしい

直々に言われたので天にも登る気持ち

でも、それからまもなく、国元の長野から報せが入り
いよいよ、製糸場設立が正式に決まったと

官営の富岡製糸場の目的は、外国人指導者を招き、製糸場のノウハウを身に付け
次の展開では、そのノウハウを元に民間で、製糸場を作っていこうというもの

その考え方に呼応して、長野でも漠然とではありますが
製糸場を作りたいという希望。
英が富岡製糸場に来たのには、それも視野に入れての事です。

明確な目標が決まったので、尾高にもその旨を伝え
富岡製糸場としては、英が抜けるのはつらいけれど
元々それが目的であったし、英こそは適任と喜んでくれた。

同じく、一等工女で一番仲の良いのが、静岡県から来た今井おけいさん
英が取れる桝数は四五升なんだけど
おけいさんがある時六升をあげた。

すごいと喜んでいると
あなただって出来ると思うわ

チャレンジ、と頑張ると
数日後に見事六升あげることが出来た

すると、さらに数日後
武州押切から来ていた小田切せんという20歳くらいのとても元気の良い女性
なんと八升をあげたとのこと
工場始まって以来の事と大騒ぎになり
入れ替わり立ち替わり、見に行って大評判

これは素晴らしいと
おけいさんと話したんですが
同じ繭で同じ釡
やってみません?

さっそく明日からと約束して
全集中
糸を切らせると無駄な時間が発生するので
そういった無駄な時間を極力減らす

そうすると七升取れた

そして三日目二人とも八升を取ることに成功
二人で喜び合いました

部屋に帰ると、部屋でもその話でしきり

同郷で年上の、和田初さんが
そんなに取れる筈がない
七粒八粒付けてとったのに違いない。

そんな筈ないじゃないですか
と、それ以降取り合いませんでした。

和田初さんは負けず嫌いなので、翌日、一心不乱に頑張ったらしく
七升取れたとのこと

気にせず、英は八升取ることだけを考えておりました。

それから、三日後
深井さんが、英たちがいるところに来て
時計台の隅から二番目の和田初さんって方が八升取りました。

英はおかしくてたまらない

部屋へ帰ると、和田さんの方から話しかけてきて
ようやくなんとか八升取れました。

あら、ようございました。
やはり七粒も八粒もお付けになりましたか

ははと笑って
あの時はごめんなさい
これからは決してあんな事は言わないようにする

取り方の話をしつつ、二人で声をあげて笑い合いました

不思議なものです。
それから、ひとりふたりと八升取れる人が出来てきて
八升取ることがそれほど珍しい事ではなくなりました。

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]26 米内光政。日独伊三国同盟に反対。帝国海軍の葬儀委員長。

米内光政(よないみつまさ)

阿倍信行内閣が4ヶ月で倒れたあと、大命が下ったのが米内光政
昭和天皇のかなり強い意思だった。

米内光政は海軍出身
首相ともなると、ほとんどの人が、超キレ者だった人だけど
米内は、それほどでもない。

兵学校ではグズ政とあだ名されていたし
海軍に入ってからも、派手な功はあげていない

小さいことからコツコツと、ってタイプ

みんなが嫌がる仕事も黙々とこなし
気がつくと、連合艦隊司令長官になっていた。

翌年の昭和12(1937)年、林銑十郎内閣で海軍大臣に
そのあとの近衛文麿内閣でも、海軍大臣になる
さらに平沼騏一郎内閣でも。

山本五十六・井上成美と共に、「条約反対三羽ガラス」と言われ
日独伊三国同盟に徹底的に反対
陸軍と真っ向からぶつかる

阿倍信行内閣では海軍大臣を退くが
昭和天皇としては、米内なら陸軍を押さえられるかも、と考えた。
昭和15(1940)年1月、米内光政内閣発足。

日中戦争は、汪兆銘政権ができたものの、全面講和には至らなかった。

近衛文麿は、一国一党を目指し、新体制運動を展開

米内内閣ではどうしても、日独伊三国同盟は結べないと考えた陸軍は
米内を引き降ろしにかかる

結局、阿倍信行内閣よりは長いが、1年はもたず
7ヶ月で総辞職した

再び
ただ、米内はそれだけでは終わらなかった。

開戦後の、昭和19(1944)年、米内に再び大命が下る
陸軍の小磯国昭との二人に連立で内閣を組織せよと。

どっちが首相する?

ジャンケンで決めるか
と言ったかどうかは分かりませんが
副総理格の海軍大臣となる

次の鈴木貫太郎内閣でも海軍大臣に。

ひたすら、太平洋戦争終結へ向けて動き回る
ポツダム宣言が出されると、受諾すべしと
戦争継続を主張する者と真っ向対立

結局天皇に判断が委ねられ、受諾が決定。

強行派たちをどう押さえるか

天皇は直接話をしようと行ったが
米内は、それでは私のいる意味がありませんと断り
苦労したが説明して回った。

戦後の東久邇宮稔彦内閣や、幣原喜重郎内閣でも
海軍大臣を留任

ひとつ重要な仕事が残っていたから。

山本五十六の葬儀では葬儀委員長を務めた米内だったが
今度は海軍の葬儀委員長

ずっと海軍で
海軍大臣を7度も務めた。
愛着なんてもんじゃない。
その海軍を終わらせる

粛々と、規律正しく

陸軍は派手に解散式を行ったが
そういうのもなく、ただひっそりと。

天皇からは労をねぎらわれ
いただいた硯箱

米内光政は、東京裁判で罪に問われることはなかった。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)