[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
の続きです。
新田義貞と足利高氏(尊氏)が幕府の対応に愛想をつかしたところまででしたね
新田義貞
新田義貞に重いペナルティを告げに鎌倉から新田荘にやって来た幕府の使者
さらに調子に乗って威張り散らして、
門前町の商人たちにもどんどん徴税を迫ります。
領民たちもその理不尽な圧迫で辛い想いをしているのを見た新田義貞
頭にきたっ
その使者を一刀のもとに斬り捨ててしまいました。
幕府が遣わした使者を斬った、すなわちこれは、明確に幕府に楯突いたことになります
鎌倉幕府は、新田義貞を討て!
領民を守れずして、何が武士か。
御家人を守ろうともしない幕府も、もはや幕府にあらず。
真の武士である我々が忠誠を尽くす価値もない。
これを咎めるというならば、一戦あるのみ
鎌倉軍との戦争を決意
とは言っても、弱小領主にすぎない新田義貞が集められたのは
わずかに150騎程度の兵力のみでした
足利高氏
後醍醐天皇、楠木正成に加え
新田義貞まで反旗を翻したとなると
幕府としても大変
でも、この時点では反乱の各軍を全て合わせても
幕府軍には数の面で遠く及ばない
余裕で勝利の筈でした。
まずは一番重要な、伯耆国の船上山で挙兵した後醍醐天皇を倒せ
北条高家(たかいえ)を総大将にした討伐軍に、
副将格は、足利高氏
鎌倉から西日本へと進軍していました。
ところが、総大将の北条高家があっさり戦死してしまいます。
まずいっ
自分がついておきながら、総大将を守りきれなかったなんて
また、何か言われるんだろうなあ
そんなときに、後醍醐天皇から秘密の使者
どう
こっちに付かない?
悪いようにはしないから
よくよく考えると、足利家は由緒ある源氏の名家
なんで北条なんぞに仕えにゃならんのか
ああ馬鹿馬鹿しくなってきた。
元弘3年4月29日、
足利高氏は丹波国の篠村八幡宮(京都府亀岡市)で、
後醍醐天皇に味方することを決意し、反幕府軍を旗揚げした
ここからはあれよあれよ
5月7日、鎌倉幕府の京都出張所である機関、六波羅探題を攻め落としました
あっという間の京都制圧でした。
新田義貞
くしくもその翌日の5月8日
新田義貞は生品神社(群馬県太田市)にて、ついに反乱の狼煙を上げました。
もともと大軍を率いていた足利高氏とは違い
びっくりするほど少人数
このまま鎌倉を目指したところで、結果は目に見えています。
新田義貞考えました。
急がば回れ
今でいう群馬県庁の上野(こうずけ)の国府(こくふ)制圧作戦
群馬県庁はもともと戦争するつもりなんてありません。
あっという間に陥落
我、上野を制圧せり
と高々と宣言
この報せを聞き
こりゃ面白い事になってきたぞ
我も我もと手柄を立てたい武士たちが
新田義貞の元へと馳せ参じます
いざ、鎌倉へ