[建武]3 新田義貞、いざ鎌倉へ

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
の続きです。

新田義貞と足利高氏(尊氏)が幕府の対応に愛想をつかしたところまででしたね

新田義貞
新田義貞に重いペナルティを告げに鎌倉から新田荘にやって来た幕府の使者
さらに調子に乗って威張り散らして、
門前町の商人たちにもどんどん徴税を迫ります。
領民たちもその理不尽な圧迫で辛い想いをしているのを見た新田義貞

頭にきたっ

その使者を一刀のもとに斬り捨ててしまいました。

幕府が遣わした使者を斬った、すなわちこれは、明確に幕府に楯突いたことになります

鎌倉幕府は、新田義貞を討て!

領民を守れずして、何が武士か。
御家人を守ろうともしない幕府も、もはや幕府にあらず。
真の武士である我々が忠誠を尽くす価値もない。
これを咎めるというならば、一戦あるのみ

鎌倉軍との戦争を決意

とは言っても、弱小領主にすぎない新田義貞が集められたのは
わずかに150騎程度の兵力のみでした

足利高氏
後醍醐天皇、楠木正成に加え
新田義貞まで反旗を翻したとなると
幕府としても大変

でも、この時点では反乱の各軍を全て合わせても
幕府軍には数の面で遠く及ばない

余裕で勝利の筈でした。

まずは一番重要な、伯耆国の船上山で挙兵した後醍醐天皇を倒せ
北条高家(たかいえ)を総大将にした討伐軍に、
副将格は、足利高氏
鎌倉から西日本へと進軍していました。

ところが、総大将の北条高家があっさり戦死してしまいます。

まずいっ
自分がついておきながら、総大将を守りきれなかったなんて
また、何か言われるんだろうなあ

そんなときに、後醍醐天皇から秘密の使者

どう
こっちに付かない?
悪いようにはしないから

よくよく考えると、足利家は由緒ある源氏の名家
なんで北条なんぞに仕えにゃならんのか
ああ馬鹿馬鹿しくなってきた。

元弘3年4月29日、
足利高氏は丹波国の篠村八幡宮(京都府亀岡市)で、
後醍醐天皇に味方することを決意し、反幕府軍を旗揚げした

ここからはあれよあれよ

5月7日、鎌倉幕府の京都出張所である機関、六波羅探題を攻め落としました
あっという間の京都制圧でした。

新田義貞
くしくもその翌日の5月8日
新田義貞は生品神社(群馬県太田市)にて、ついに反乱の狼煙を上げました。

もともと大軍を率いていた足利高氏とは違い
びっくりするほど少人数

このまま鎌倉を目指したところで、結果は目に見えています。

新田義貞考えました。
急がば回れ
今でいう群馬県庁の上野(こうずけ)の国府(こくふ)制圧作戦

群馬県庁はもともと戦争するつもりなんてありません。
あっという間に陥落

我、上野を制圧せり
と高々と宣言

この報せを聞き
こりゃ面白い事になってきたぞ

我も我もと手柄を立てたい武士たちが
新田義貞の元へと馳せ参じます

いざ、鎌倉へ

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[三十六歌仙]19 大中臣頼基。子の日の遊び

三十六歌仙シリーズ

大中臣頼基(おおなかとみのよりもと)

子日(ねのひ)する 野べに小松を ひきつれて かへる山ぢに 鴬ぞなく
(子の日の小松引きのように、多くの子供を引き連れて帰る山路に鶯が鳴いている)

大中臣頼基(おおなかとみのよりもと)
大中臣頼基は神祇官をつとめつつ、伊勢神宮の祭主です。
ずっと祭事にたずさわり、
宇多上皇に気に入られて、歌の世界でも活躍しました。

大中臣家は代々神事をつとめる家で、
歌人としても頼基が祖となり、伊勢大輔へ繋がる名家となる

鑑賞
子日(ねのひ)する 野べに小松を ひきつれて かへる山ぢに 鴬ぞなく
(子の日の小松引きのように、多くの子供を引き連れて帰る山路に鶯が鳴いている)

「子の日の小松引き」が分からないと、何のこっちゃ、って歌です。

当時、貴族の中では、正月明けの最初の子(ね=ねずみ)の日に
野に出て、行う行事というか、遊びというかがありました。
「若菜摘み(わかなつみ)」と「小松引き(こまつびき)」
若菜摘みは、その後、春の七草に繋がっていきます。

一方の小松引き
その名の通り、若い小さな松を根ごと引き抜くというもの

松は永遠の命の象徴
その子供を根ごと引き抜くことで
永遠の命を授かろうというもの

こっちは、門松に繋がっていきます。

この根の繋がりと、群れて帰っていく鶯のイメージをかぶせている

もう一首

しののめに おきて見つれば 桜花 まだ夜をこめて 散りにけるかな

(空が白み始める頃に起きて見たところ、桜の花は夜を徹して、
なおも散り続けているのだなあ。)

この発想。初めてです。
桜の咲いた美しさ
ちょっと捻って、桜の散る儚さを歌った歌は数ありますが

桜が夜を撤して散ろうとしているというのは
確かに言われてみると、夜だから散るのはお休み、って訳ではないけれど
そんなところに着目するなんて、びっくりです。

宇多法皇が亭子院にて開催した歌合に出された歌で、
対戦相手はあのスーパースター凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)

うつつには さらにもいはじ 桜花 ゆめにもちると みえばうからむ

こっちは、夢の中で出てきた桜が散っていた。ああ惜しい、と

結果は?

引き分け

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[歳時記]12/25 クリスマス

12/25
説明不要。12月25日はクリスマスです

誰もが知っているイエス・キリストの誕生日

ところが、なんとキリスト生誕の日が、別の日だったことがあるという。

キリストの正確な誕生日はよくわかっていない。
そのため、初期のキリスト教徒は1月1日、1月6日、3月27日などにキリストの生誕を祝っていた。

その頃、教会が組織としてクリスマスを祝うことはなかった。

両方教会でキリストの誕生を12月25日に祝った最古の記録は、
336年のローマ暦にある。
この日は、ローマ人の冬至にあたり農神サトゥルヌスの祭りとして盛大な祝いが行なわれていた。

そこで、この日をキリストの生誕の日に決めれば、
人びとから親しまれて盛り上がると考えた。

その後、東西の両教会は祝日制度を調整し、
クリスマスを12月25日に統一。

これがしだいに浸透していったのだ。

正確な言い方をすると、クリスマスはキリストの誕生日ではなく
キリストの誕生を祝う日だと言える

日本でも、キリスト教の伝来とともに伝わり、

明治から大正時代にかけて一般家庭でも祝われるようになった。

なぜ1月1日じゃないのか
そういうと、昔ニュースステーションで、久米宏さんが
西暦って、キリストが生まれたときを1年にしてるんじゃないの?
だったら西暦1年1月1日がキリストが生まれたときである筈で
その前の12/25までの数日はなんで紀元前なの?
考えると夜も眠れない

と問題提起
とても印象に残っている。

結局は、さっき書いたような、大人の事情で
元々盛り上がる日に合わせましょうってこと

暦は、そもそもその前からあって
ユリウス暦というもの
これは、1年が地球の公転と完全一致していなかったので、
毎年少しずつ1月1日がずれていっていた。
これを改良したのが、グレゴリオ暦
今も使われている西暦です
ようやく、季節が動かなくなった
その時、1月1日をいつにするかという議論の中で
その年のユリウス暦の1月1日に決めた。

そのあとで、キリストの誕生祭が決まったから
別の日なんですね

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[歳時記]12/24 日本ではじめてチョコレートが販売される

ちまたでは、クリスマスイブ
クリスマスイブと言えばチョコレートですね

ん?

うちで買ったケーキです

12/24
日本ではじめてチョコレートが販売されたのは、1878(明治11)年12月24日。

クリスマス・イブのこの日、東京両国若松町の風月堂の主人、米津松造が、
「かなよみ新聞」に「貯古齢糖 (チョコレート)」として広告を掲載し、
チョコレートの製造、販売をスタートした。

ところが、はじめて体験する甘さに人びとが飛びつくかと思いきや、
当初はまったく売れなかったという。

「牛の血が入っている」とか「あんな色をしているのは泥を固めたから」といった
とんでもないウワサが流れて、みんなから敬遠されてしまったのだ。

味もチョコレート特有の苦味が嫌われて、
「あんな苦いもの食べられない」という声が殺到したらしい。

それでも、1899(明治33)年6月、アメリカで修業した森永太一郎が帰国して、
ミルクチョコレートを開発
チョコレートの普及が始まります。
お分かりですね、森永製菓です。

1918年には東京菓子(現明治)もチョコレートの販売を開始します。

昭和になり、太平洋戦争
そして、戦後の「ギブミーチョコレート」に繋がっていきます。

初めて食べた人
日本で初めてチョコレートを食べた人となると、もう少し時代が遡り、江戸時代になる

江戸時代に書かれた「寄合町諸事書上控帳」に、
オランダや中国と貿易が行っていた長崎へ、
チョコレートが伝えられたとの記録が残っている。

寄合町とは、長崎の有名な遊女町である。
寛政9(1797)年3月晦日(末日)に
寄合町の大和路という遊女がチョコレートをもらったとの記述がある。

ちなみに寄合町諸事書上控帳の中では、チョコレートは「しょくらあと」と書かれている。

記録によると、出島の阿蘭陀人(オランダ人)からもらった品物の中に
「しょくらあと6つ」が含まれていたことがわかる。
これが記録として残っている日本初のチョコレートだ。

出島のオランダ人は、帰国の際に布団や道具などを遊女に与えることも多く、
チョコレートもそのような過程で遊女に渡ったのでしょう。
チョコレートは異国の珍品だったのだ。

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