大学入学共通テスト。あかんっ

ま、まさか。大学入学共通テスト日本史55点
の続きです。

こんな年表が示された後で

こんな問題

答は後で書きますので考えてみてくださいね

一番悔しかったのはこの問題

これも答は後にしましょうか

正解したのもいきましょう。
一番感動したのはこれ


これも答は後にしましょう

さあそれでは、以上3つの答を見ながら

ひとつめ
もう一度問題

これ見た瞬間
えっ、何よこのサービス問題
aは弘法大師空海に決まっているから、これは〇でしょ
うーん、bは鑑真?
でもaが〇だからbは鑑真じゃないってことか

で、答を見てびっくり仰天
私は、2にしたんだけど、答は4
要は、弘法大師空海は〇じゃない
そんなバカな!

急いで解説を見ました

Xはbで鑑真のこと。
aは空海のことで9世紀初頭の遣唐使で唐へ渡った。

Yはd。
両界曼荼羅は密教は空海のときで、9世紀初頭。
cの来迎図は浄土教によるもので、平安時代の中期以降となり9世紀よりはあと。

そういう事?
空海は有っているんだけど、時代が違うと。
なるほどねぇ
XとYの時代を問うているわけね
問題をちゃんと読めって話ですね。

次の問題

4番を選んだんだけど、正解は6番

解説はこれ
I
1570年代。
安土桃山時代。
織田信長と石山本願寺が争った石山合戦のときに毛利輝元の水軍が支援した。

II
12世紀末。
鎌倉時代の初め。
平清盛の子である平重衡による南都焼打ちで東大寺が焼失し、重源による再建が始まった。

III
12世紀中頃。
平安時代後期。
平忠盛は平清盛の父。

ああ、情けない
ちょっと前の正月に東大寺に行ったばかり
東大寺ミュージアムで、重源による再建の話も見て、南大門も見たんです。
なぜ間違うかなあ

平重衡に焼かれた後に再建なんだから、そのお祖父ちゃんの平忠盛より前の筈がない
穴があったら入りたい
一緒に東大寺を巡った父さんに合わせる顔がない

最後は正解した問題で気持ちを盛り返しましょう。

答は2です。

これを大学入試で取り上げてくれたことに感謝

私は、太陽暦への変更の話も、陸蒸気(おかじょうき)の話も大好きなので
この時刻表の話が大好き
実際に、この時刻表が新橋の駅舎が再現された、旧新橋停車場 鉄道歴史展示室に
展示されているんです。

ウォーキングイベントでは、2回ここを訪れ、
この時刻表について散々話した。

実はこの問題。歴史を知らなくても、問題文を丁寧に読めば
太陽暦への変更より陸蒸気が開通した方が早いということが分かる。

これが何を意味するか

太陽暦への変更の前は不定時法なんです。
夜明けが明け六ツで日没が暮れ六ツ

その間が2時間ずつで6つに分かれる
太陽の事情に合わせるので、夏と冬で、一時間の長さが違う
そんな情況の中で、何時何分に汽車が出発って書かれたところで
その前に正確に駅に到着出来る訳ありません

それでも、時刻表を作った訳です。

なぜそれでも良かったのか

庶民の誰もが、正確な時間の把握なんて出来なかったからです。
2時間に1回時の鐘がなって、おお、何時か、って感じ
おそらく汽車に乗る日は一世一代の晴れがましい日だから
2時間前には着いていたんじゃないでしょうか

太陽暦になってこそ、普通の時計が開発出来る訳で
そこからは、時計が徐々に普及していきますが
それまでは、一時間の時間を調整できる大名時計って
無茶苦茶複雑で超高額な時計しかありませんでした。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

ま、まさか。大学入学共通テスト日本史55点

年に一度のお楽しみ。
大学入学共通テスト日本史Bが新聞に掲載されると、毎年やっております。

今年は、歴史検定2級の合格後初
期待が膨らみます。

2019年、50点
2020年、67点
2021年、59点

自己ベストを更新するぞ

報道によると、日本史Bは過去最低の平均点だったとのこと
まずいっ
気合いを入れねば

しょっぱな、姓と苗字に関わる問題
おっ。良い問題かも
とは言え、
4拓のうち二つがどう考えても、どっちも合っている

次は?

Yの方、ちょうど建武シリーズやってる
えっ、源氏で所領の地名で苗字を名乗ったって、新田も足利もそうだけど
足利って尊氏?
自害なんてしてないから、新田?
東国の支配って、ええっ?

その後、進めていきますが
うーん、分からん
二つにひとつには絞れたものも決め手に欠けるものばかり

なんとか終わり、さあ採点

えっ
いきなり不正解で始まり
えっ、これも?
これもダメ?

歴史検定での日本史マスターの名が崩れ去る

採点すると、まさかの55点
うそ!

過去2番目に悪いんですけど

昨日、日本史マスターだっ
なんてな事を言った自分が恥ずかしい

二つで迷ったものはことごとく逆を選んでいた。

でも、歴史検定の試験日なら、絶対合っていた、というのが
3つくらいあった
例えばこれ

答えは4番

テスト当日なら3つとも年号覚えていたんだけど
これ外したのは恥ずかしさの極み

恐るべし忘却曲線

急いで、過去最低とやらの日本史Bの平均点を調べた
52.81点

うわっ
ギリギリ平均点
お恥ずかしいっ

ところで、さっきの新田か足利か迷ったところ
正解は足利だったんだけど
なんでかなあと、ネットで解説を検索

関東公方(鎌倉公方)の足利氏のこと。
清和源氏の一族で、下野国(栃木県)の足利荘から取って称した。
足利尊氏の子の足利義詮の子孫は京の室町幕府の将軍となり、足利基氏の子孫は東国の関東公方(鎌倉公方)となった。
1438年の永享の乱で関東公方の足利持氏は幕府側に攻められ、翌年に自害した。

確かに尊氏とは書いていない
鎌倉公方も良く考えると足利だけど
まさか足利持氏だとは思わなかった。
尊氏の弟の足利直義までは考えたんだけど。

明日
他の問題についても話しますね。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

やったやったっ 歴史検定2級の合格証が来たーっ

会社から帰ってポストを見ると何やら大型の封筒
何だろ

歴史検定?

おおっ
ひょっとして、あの待ちに待った

かなり大型だからなあ

カミさんが何か横でゴチャゴチャ言っているのにも生返事しつつ
ハサミでシューッ

出たっ

次は?
おおっ

やったやったーっ

点数は自己採点した時通り、78点
やった!合格だぁ 78点。歴史検定日本史2級。
60点で合格ですからね
すごくないですか

うん、すごい

合格率36.3%
いやあ、なかなかです。

頑張ったもんなあ
うるうる

これで私も日本史マスターを名乗れますね

[建武]5 鎌倉幕府陥落。不思議といふも類なし

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
[建武]3 新田義貞、いざ鎌倉へ
[建武]4 新田義貞。行け行けーっ
の続きです。

「分倍河原の戦い」「関戸河原の戦い」と、
相次いで反乱軍が幕府軍を破ったという情報は
周辺地域に一気に波及していって、
北条氏の政治に不満を持っていた各地の御家人たちが
さらに新田義貞の反乱軍へと馳せ参じてきました。

鎌倉に迫る頃には、なんと反乱軍は60万人!

鎌倉攻め
鎌倉(神奈川県鎌倉市)は、攻めるに難く守るに易い、天然の要塞

かつて源頼朝が、広大な関東平野の中ではなく狭い平地しかない鎌倉に幕府を開いたのは、
三方が複雑に山で囲まれ、海は一方向にしかないこの鎌倉の地が、
敵に攻め込まれにくい場所だったから。

鎌倉に入るためには「鎌倉七口」(かまくらななくち)と呼ばれる
7カ所の切通し(険しい峠)のいずれかを通る必要があり、
鎌倉へと敗走した幕府軍は、全軍をあげて、この7カ所の切り通しを完全封鎖したのです

来るなら来い。ござんなれ

反乱軍は、60万の軍勢を3つに分けて、鎌倉七口のうち、化粧坂(けわいざか)、巨福呂坂(こぶくろざか)、極楽寺坂(ごくらくじざか)の三ヶ所から攻めました。

5月18日、鎌倉攻略のスタートです。

いくら60万の大軍でも、極端に狭いところを通らねばならず
幕府軍も死に物狂いで防衛

ギュウギュウ

どうともなりません

総大将の新田義貞は化粧坂を攻めていましたが、
実弟の脇屋義助(わきや よしすけ)に指揮を任せます

わしに考えがある、別のところに移動するから
こっちは頼んだぞ

へへっ。海側から回ろうっと

な、なんじゃこりゃあ

待っていたのは稲村ヶ崎の断崖絶壁

船しかないわけですが
幕府軍もそんな事はお見通し
大量に船を配置し
急ごしらえで準備した小舟数隻なんぞはこっぱみじん

よしっ

黄金づくりの太刀を海中に投じて、龍神に祈りを込めます

龍神よ、願いを叶いたまえ

忠烈を龍神も納受ましまし、
その夜の月の入る方へ、
前々、干る事もなかりし稲村ヶ崎
俄に二十余町も干あがりて、
平沙渺々たり。
横矢、射んと、待ち構へぬる数千の兵船も、
落ち行く潮に誘はれて
遥かの沖に漂へり。
不思議といふも類なし。

海が、
引いて行くーっ

行けーっ
行け行けーっ

そんなバカなと思いますが
科学的に計算しても
数十年に一度の大引き潮が、この日に発生した可能性があるそうです。

北条高時
「いやだっ」
高時は、なんとしても、きかなかった。
「ここは、うごかぬ」

ご無念はよう拝察いたされますが、なにせい小袋坂、仮粧坂、極楽寺坂、三道ともに、
撃ち破られましては

妙齢なひとりの尼がやって来た

おっ。春渓尼か

高時の側室

母の尼公に、長い間ご不孝をおかけしましたと、おつたえ申しあげてくれい

尼公さまからも、今生の後先などは、つかのまのこと。
どうぞおとりみだしなく、北条九代の終りを、いさぎよく遊ばすようにと

だが言ってくれ。高時は高時の死に方をしよう。
死にたくないと泣き吠えて死ぬかもしれん

ホ、ホ、ホ、ホ。それもおよろしいかもしれませぬ

そなたたちは、高時のさいごを見たら、東勝寺のおくに姿をひそめて、
後日、新田へ命乞いして出るがいい

いいえ
お供をひとつにいたしまする。世に生き残る心はさらさらございませぬ

この高時が、そんな倖せ者とは思わなんだ。
死出の道、賑やかなことではある。
さあ、みなも飲め、あるかぎりな酒がめ相手に、討死しよう。
生じ雑兵の手にかからんよりは、酒を相手に、杯を手に

手の短刀は鞘を捨てた

がくと頸を落し、そして脇腹の短刀を引き廻しながら、

尼前……。これでいいか。
高時、こういたしましたと、母御前へ、おつたえしてくれよ。
よう、おわびしてくれよ

春渓尼のまわりは、すべて紅になった

それから二日後。

五山の一つ、円覚の一院では、高時の生母覚海尼公と、
法弟の春渓尼とが、五月の朝の朝ほととぎすをよそに、
姿を並べて自害していた。

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