[建武]4 新田義貞。行け行けーっ

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
[建武]3 新田義貞、いざ鎌倉へ
の続きです。

進軍開始
鎌倉へと南下
倒幕への進軍スタートです。

ここで思わぬ強い味方と合流します。
後の2代将軍、足利高氏(尊氏)の嫡男、足利義詮(よしあきら)です。
この時わずか4歳

義詮は足利高氏が幕府に反旗を翻さないよう、鎌倉に人質に取られておりました。
でも高氏が反旗を翻しちゃった

身が危ない
足利義詮の取り巻きたちは、義詮を抱きかかえて、逃亡
新田義貞軍に合流です。

そうなると、関東の地侍たちは
ひょっとするとひょっとするかも

どんどん新田義貞軍は膨れ上がり20万騎ほどにまでなります。

小手指原(こてさしがはら)の戦い
迎え討つ幕府軍
北条貞国を隊長とし北へ

埼玉県所沢の小手指原で激突です。

私が現地を見てきた時の様子はこちら

トキワ荘通りから

数的には、新田軍の方が上回っていたものの
幕府軍が統制がとれていたのに対して
急に数が膨れ上がった新田軍の内部はお互いに
「はじめまして、どちら様で?」状態

当初はかなり苦戦を強いられます。
少しずつ慣れていった新田軍は盛り返していき
結局、幕府軍は久米川まで退却します。

久米川の古戦場を見てきた時の様子はこちら

新田義貞の鎌倉攻めを実地検証

ここでも幕府軍はズルズルと退却を強いられ
多摩川まで
川を越えられちゃうとまずいので
鎌倉から10万の援軍がやって来ていました。
最大の決戦、分倍河原の戦いです。


府中で追加ウォーキング

ここで、初めて、新田軍は大敗を喫します。
退却ーっ

堀兼(埼玉県狭山市)まで大きく戻りました。
もし、幕府軍が追っていけば、新田軍は息の根が止まったかも知れません。

ところが不思議な事に幕府軍は追っていかなかった。

ここまでをおさらいしましょう

小手指原の戦いが5/11
久米川の戦いが5/12
分倍河原で大敗を喫し、退却して体勢を整え直したのが
5/14日くらいではないかと思われます。

ここで歴史が変わります。

勝っているはずの幕府軍の中から、どんどん造反して
新田軍へ寝返って行くのです。

勝っているのだから寝返るってよほどの事
何が起きたのか

京都からの報せが届いたのです。
5/7に起きていた事実のしらせが
数日経って、関東にもたらされた。

「京都で足利高氏が、六波羅探題を滅ぼしたらしい」

あの足利高氏が?
ちゅうことは、鎌倉にもやって来るんじゃないの

動揺しまくりの幕府軍はもう敵ではなかった
再度の分倍河原の決戦は、新田軍が圧勝になります。

引け引けーっ

いよいよ鎌倉での決戦になります。

ただ、鎌倉は難攻不落の自然の要塞
切り立った崖で守られ
切り通しの道を固めれば入っていけない

さあ、どうする

続きはシリーズの次回ね

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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