[建武]5 鎌倉幕府陥落。不思議といふも類なし

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
[建武]3 新田義貞、いざ鎌倉へ
[建武]4 新田義貞。行け行けーっ
の続きです。

「分倍河原の戦い」「関戸河原の戦い」と、
相次いで反乱軍が幕府軍を破ったという情報は
周辺地域に一気に波及していって、
北条氏の政治に不満を持っていた各地の御家人たちが
さらに新田義貞の反乱軍へと馳せ参じてきました。

鎌倉に迫る頃には、なんと反乱軍は60万人!

鎌倉攻め
鎌倉(神奈川県鎌倉市)は、攻めるに難く守るに易い、天然の要塞

かつて源頼朝が、広大な関東平野の中ではなく狭い平地しかない鎌倉に幕府を開いたのは、
三方が複雑に山で囲まれ、海は一方向にしかないこの鎌倉の地が、
敵に攻め込まれにくい場所だったから。

鎌倉に入るためには「鎌倉七口」(かまくらななくち)と呼ばれる
7カ所の切通し(険しい峠)のいずれかを通る必要があり、
鎌倉へと敗走した幕府軍は、全軍をあげて、この7カ所の切り通しを完全封鎖したのです

来るなら来い。ござんなれ

反乱軍は、60万の軍勢を3つに分けて、鎌倉七口のうち、化粧坂(けわいざか)、巨福呂坂(こぶくろざか)、極楽寺坂(ごくらくじざか)の三ヶ所から攻めました。

5月18日、鎌倉攻略のスタートです。

いくら60万の大軍でも、極端に狭いところを通らねばならず
幕府軍も死に物狂いで防衛

ギュウギュウ

どうともなりません

総大将の新田義貞は化粧坂を攻めていましたが、
実弟の脇屋義助(わきや よしすけ)に指揮を任せます

わしに考えがある、別のところに移動するから
こっちは頼んだぞ

へへっ。海側から回ろうっと

な、なんじゃこりゃあ

待っていたのは稲村ヶ崎の断崖絶壁

船しかないわけですが
幕府軍もそんな事はお見通し
大量に船を配置し
急ごしらえで準備した小舟数隻なんぞはこっぱみじん

よしっ

黄金づくりの太刀を海中に投じて、龍神に祈りを込めます

龍神よ、願いを叶いたまえ

忠烈を龍神も納受ましまし、
その夜の月の入る方へ、
前々、干る事もなかりし稲村ヶ崎
俄に二十余町も干あがりて、
平沙渺々たり。
横矢、射んと、待ち構へぬる数千の兵船も、
落ち行く潮に誘はれて
遥かの沖に漂へり。
不思議といふも類なし。

海が、
引いて行くーっ

行けーっ
行け行けーっ

そんなバカなと思いますが
科学的に計算しても
数十年に一度の大引き潮が、この日に発生した可能性があるそうです。

北条高時
「いやだっ」
高時は、なんとしても、きかなかった。
「ここは、うごかぬ」

ご無念はよう拝察いたされますが、なにせい小袋坂、仮粧坂、極楽寺坂、三道ともに、
撃ち破られましては

妙齢なひとりの尼がやって来た

おっ。春渓尼か

高時の側室

母の尼公に、長い間ご不孝をおかけしましたと、おつたえ申しあげてくれい

尼公さまからも、今生の後先などは、つかのまのこと。
どうぞおとりみだしなく、北条九代の終りを、いさぎよく遊ばすようにと

だが言ってくれ。高時は高時の死に方をしよう。
死にたくないと泣き吠えて死ぬかもしれん

ホ、ホ、ホ、ホ。それもおよろしいかもしれませぬ

そなたたちは、高時のさいごを見たら、東勝寺のおくに姿をひそめて、
後日、新田へ命乞いして出るがいい

いいえ
お供をひとつにいたしまする。世に生き残る心はさらさらございませぬ

この高時が、そんな倖せ者とは思わなんだ。
死出の道、賑やかなことではある。
さあ、みなも飲め、あるかぎりな酒がめ相手に、討死しよう。
生じ雑兵の手にかからんよりは、酒を相手に、杯を手に

手の短刀は鞘を捨てた

がくと頸を落し、そして脇腹の短刀を引き廻しながら、

尼前……。これでいいか。
高時、こういたしましたと、母御前へ、おつたえしてくれよ。
よう、おわびしてくれよ

春渓尼のまわりは、すべて紅になった

それから二日後。

五山の一つ、円覚の一院では、高時の生母覚海尼公と、
法弟の春渓尼とが、五月の朝の朝ほととぎすをよそに、
姿を並べて自害していた。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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