[神社]神様が次々と。そしてイザナミが

[神社]日本が生まれる
の続きです。

国が生まれました。
次に、神様を生みましょう

最初に産まれたのが、大事忍男神(オホコトオシヲ)。
これは、『大事を耐え忍び達成した』といういわゆる『大仕事を終えた結び』を意味します

最初なのに、終わり?
おそらくですが、最後に産まれるはずなのに、書く順番を間違えた
間違う、ってそんなことある?とは思いますが

家宅六神と呼ばれる、住まい作りに関係の深い神々が生み出されました。
石の神、土砂の神、門の神、屋根を葺く神、屋根の棟の神、風を防ぐ神です。

まずは住むところを確保したかったのでしょうか
ちゃんと家を建てる順番に従っています。

続いて、海や水にかかわる神々、自然現象の神々が生まれると、
その神々の間に、さらに新たな神が生み出されていきました。
自然との関わりを強く意識するのが日本の神様
ここ、重要で
あとでまた登場する神様たちもいます。

人間の英知へと繋がる神様が続きます。

船(交通)
食物(稲)
そして、火
火之迦具土神(ヒノカグツチ)は、イザナギとイザナミを悲劇へといざないます

火の神様を産んだイザナミは、陰部をおおやけど
アチチチチ

苦しむイザナミの吐瀉物、便、尿からも色んな神様が産まれます
頑張ったんですね

いよいよ、命が尽きてしまいます。

出雲国 (島根県)と伯伎国(伯耆国、鳥取県西部)の境にある比婆山に葬られました

許せん!
イザナギは怒り狂って、ヒノカグツチの首を長剣で切り落としてしまいます

まだ、気持ちがおさまりません

イザナミーっ
戻って来てくれー

イザナギは黄泉の国(よみのくに)へ向かいます

続きはシリーズの次回

[神社]シリーズはこちら(少し下げてね)

[足利将軍]2 足利義詮。やるしかないじゃないの

[足利将軍]1-5 足利尊氏。やっぱり尊氏だったが
の続きです。

足利将軍シリーズ、2代目義詮(よしあきら)になります。
足利尊氏の息子です。

鎌倉
新田義貞が鎌倉幕府を倒すべく兵をあげたとき
鎌倉に人質として残されていた義詮は新田軍と行動を共にし
一躍足利勢力のシンボルとなる

足利政権が樹立されたあと
尊氏とその弟直義(ただよし)は役割分担をしつつ進めていく

尊氏としては、息子の義詮が成長するまでは
直義に基盤造りをしておいてもらって、時期が来ればうまくバトンタッチと考えていた

ところが前回までにお話しした数々のゴタゴタがあり
義詮も前倒しで表舞台に立つことになる

性格としては、強い信念を持っているタイプではなく
状況によってうまく合わせていくタイプ
残っているもろもろの文書からは、あまり良い評判があるわけではないが
状況がコロコロ変わるこの時期の「将軍」としては
結果としてその方がうまくいったと言える

その都度、置かれた苦境を打開するため、人の意見に耳を傾けて果断に
悪く言えばなりふりかまわずとにかく行動するタイプのリーダーだった

尊氏が東国で激戦を戦い
京都の留守を任されていた義詮
隙を突かれて南朝に攻められる

その時、義詮が取った作戦は全面降伏

以前直義が南朝と和睦という奇策を行ったことがあるが
その時は北朝側にかなり有利な条件だった
今回はそれどころではないほぼ無条件

いくらなんでも、というその内容に尊氏はビックリし難色を示す

お父さん、何を言っているんですか
無理なものは無理なんですから私に任せてください

強引に尊氏を説得
南朝に拒否されても
また来ましたー、という図々しさで交渉していく

結局、南朝は、約束を守らず、京都に押し寄せ大勝利
義詮は京都を捨てて大津へ退避

ただ、兵を分散させずに済んだ尊氏は
直義に勝利することが出来たし
体勢を整え直した義詮は
大勝利に酔いしれて油断していた南朝から
あっというまに京都を取り返す。

ただ、この間、義詮は大失敗を犯している
三上皇を一緒に連れて退避すべきだったのに
京都に残したまま、自分たちだけ退避

京都は取り返せたものの、三上皇は連れ去られてしまった

次の天皇の践祚式(せんそしき=即位させること)どうするよ
次の天皇を任命する権限のある人もいないし
三種の神器もない

まあ良いんじゃない
大失敗に落ち込んでいる暇がない

この箱に三種の神器が入っているていでね
上皇のお母さんを連れてきて
はい、あなた上皇ってことで

恥も外聞もない

やるしかないじゃないの

尊氏の時は、強力な直義と役割分担出来たし
高師直という凄腕参謀もいた

尊氏が54歳で亡くなった時、義詮は29歳
期せずして強大な権力を手に入れる
尊氏の時のように分散する相手がいるわけじゃない

自分には、尊氏のようなカリスマ性も
直義のような考える力もない

そんなこと分かっとるわ

でも放り出さなかった
立法司法行政全て自分で、考えられないようなスピードでこなす

裁判も直々に即決
大して状況は分かってなくても
はい、こっちの勝ち

やるしかないじゃないの

相変わらず戦況は混沌を極め
得意の京都放棄も何度かしながら

何だかんだ言って
義詮の時に行った数々の事は
次の絶対的権力者、義満への布石になっている

38歳
短くて太い人生が終わる
その時まだ義満は10歳だった

俺って
良く頑張ったんじゃないの

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[迷信]山で急に動けなくなるのは 妖怪のせい

<spanstyle=”font-size:18pt;”>山で急に動けなくなるのは妖怪のせい
日本人は生活にまつわるさまざまな出来事を妖怪のしわざだとして受け止めてきた。

そのひとつにヒダル神がいる。

長旅の途中の旅人や、山を越える途中の人が激しい疲労感や空腹感に襲われて動けなくなり、
最悪の場合は命を落とす。
その悲劇は、人々の間で「ヒダル神に取り憑かれたせいだ」とされてきた。

ヒダル神は西日本を中心に伝承されている、妖怪の一種。
地方によってダラシ、ダル、ダリなど呼び方は違うが、
人間を行き倒れさせるという点では同じ妖怪だ。

やせこけた体にふくれ上がったお腹、ぎょろぎょろと際立つ目、
そのイメージは古くから絵や物語に描かれてきた。

旅の移動手段が徒歩だった時代には、
途中で行き倒れて命を落とす人はけっして珍しくなかった。
ヒダル神は旅人の間で恐れられてきた存在だった。

ヒダル神に憑かれたという人は、急な疲労感や空腹感に襲われる。
そのせいで立っていられなくなったり動けなくなったりする。

文献などで描写されているこの状態は、低血糖状態とすれば説明がつく。

長時間歩き続けることは、体に軽度の負担をかけ続け
有酸素運動にあたる。

有酸素運動の際は、血液中にある糖質がエネルギーに変わり、
それが足りなくなれば脂肪が分解されてエネルギーに変わる。

ただし、脂肪の分解には少し時間がかかるため、
血中の糖質が少ないと補給が間に合わずにエネルギーが枯渇してしまう。

これが低血糖になるメカニズムであり、
空腹で歩き続けると低血糖を起こしやすい。

低血糖を起こさずに歩き続けるためには、
糖質を含んだ食べ物をこまめに口にする必要があるが、
現在のように数多くのコンビニやスーパーがなかった時代は、
空腹を感じたからといってすぐに食べることはできないし、
歩みを止めれば日が暮れてしまう。

昔の旅人にとっては、多少の空腹で歩き続けることはごく当たり前のことだったはずだ。

旅装に身を包んで山谷を越え街道を歩く昔の旅の様子は
牧歌的にも思えるが、人知れずヒダル神に出会って命を落とす危険もあった。

この危険を人々は妖怪の姿で記して、
空腹を我慢しすぎ低血糖におちいらないように広く戒めたのだろう

[ことば日本史] 関西は無かった

後鳥羽上皇は、承久の変の敗戦が決まった日、
北条義時追討の宣旨・院宣を取り消して、
この戦の責任は謀臣にあって自分にはないのだと、泰時に申し入れた。

しかし義時の処断はきびしく、
後鳥羽、順徳、土御門の三上皇は、それぞれ、隠岐、佐渡、土佐に配流された。
そして仲恭天皇を廃して後堀河天皇を立て、その父後高倉院の院政とした。

また乱の首謀者と目された院の近臣たちは、
ことごとく捕らえられ、関東に護送される途中で斬殺され、
在京御家人たちは六波羅によって斬られた。

そうした人々の所領は幕府に没収され、おもに東国出身の御家人がその地の地頭とされた

京都に進軍した泰時や時房は、そのまま六波羅にとどまって、
朝廷の監視や洛中警固、西国御家人の統制などに携わることになった。
これが六波羅探題(ろくはらたんだい)の創設につながる。

乱後のこうした処置によって幕府は、西国に対して、
より深く権力を浸透させることができた。
ここに朝廷と拮抗する東の王権としての鎌倉幕府が成立する

それまでも、関より東の意味「関東」という言葉はあった
「関東」は京都が中心だった朝廷からすると、若干上から目線の使われ方だった
「関西」という言葉はありませんでした
あくまで京都から見てどっち方向かしかなかった訳です

このあと、言葉は同じ「関東」が東国の王権が自らの呼称として常用し
鎌倉に視点をすえて、京都をふくむ西国を「関西」と呼ぶことになるのです

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)