[ことば日本史] 関西は無かった

後鳥羽上皇は、承久の変の敗戦が決まった日、
北条義時追討の宣旨・院宣を取り消して、
この戦の責任は謀臣にあって自分にはないのだと、泰時に申し入れた。

しかし義時の処断はきびしく、
後鳥羽、順徳、土御門の三上皇は、それぞれ、隠岐、佐渡、土佐に配流された。
そして仲恭天皇を廃して後堀河天皇を立て、その父後高倉院の院政とした。

また乱の首謀者と目された院の近臣たちは、
ことごとく捕らえられ、関東に護送される途中で斬殺され、
在京御家人たちは六波羅によって斬られた。

そうした人々の所領は幕府に没収され、おもに東国出身の御家人がその地の地頭とされた

京都に進軍した泰時や時房は、そのまま六波羅にとどまって、
朝廷の監視や洛中警固、西国御家人の統制などに携わることになった。
これが六波羅探題(ろくはらたんだい)の創設につながる。

乱後のこうした処置によって幕府は、西国に対して、
より深く権力を浸透させることができた。
ここに朝廷と拮抗する東の王権としての鎌倉幕府が成立する

それまでも、関より東の意味「関東」という言葉はあった
「関東」は京都が中心だった朝廷からすると、若干上から目線の使われ方だった
「関西」という言葉はありませんでした
あくまで京都から見てどっち方向かしかなかった訳です

このあと、言葉は同じ「関東」が東国の王権が自らの呼称として常用し
鎌倉に視点をすえて、京都をふくむ西国を「関西」と呼ぶことになるのです

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)

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