[足利将軍]1-5 足利尊氏。やっぱり尊氏だったが

[足利将軍]1 足利尊氏。悪い奴にされちゃうの?
[足利将軍]1-2 足利尊氏。とらえどころの難しい人物像
[足利将軍]1-3 足利尊氏。第二幕で大敗北
[足利将軍]1-4 足利尊氏。第三幕は決定的
の続きです。

南朝
色々な犠牲は払ったが
これでようやく、尊氏義詮の体制

ところが、ちょうどその頃
すでに別のとんでもない誤算に見舞われていた

南朝の和睦受諾は偽りであり、
そのため幕府は窮地にたたされる

尊氏が直義追討に出陣した20日後、
南朝を代表して中院具忠が京都に乗りこみ、後村上天皇の指令を次々と実行しはじめた

北朝の崇光天皇、皇太子直仁親王は廃され、
かつて後醍醐天皇より伝えられた三種の神器も、
偽器だという名目のもとに接収された

南朝、京都を一気に奪還するため総攻撃
京都で留守を預かっていた義詮(よしあきら)大慌て

な、何が起こった

1日も耐えられず、京都を捨て近江へ逃げた。
北朝の光厳・光明・崇光の三上皇を人質にとり、
ひとまず楠木一族の根拠地の河内東条へ、ついで賀名生へと移した

足利幕府成立以降、南朝側が京都を完全制圧するのはこれが初めてになる

京都のみならず、関東でも九州でも、南朝勢が大蜂起

ひょっとしてこのまま南朝?

ところが、この南朝の勢い、長くは続かなかった

足利軍が次々奪還
結局、南朝は華々しい、つかの間の成功に満足し
再び賀名生へと引き返していった。

ビックリしたねえ
何とかなったねえ

ところが、厄介な問題が残る
崇光天皇が廃された上
光厳・光明・崇光の三上皇は連れ去られたまま

すみませんが返していただけませんか
と使者を送るが

イヤーだね

新しい天皇を立てるしかない
候補者がいるにはいるけど、皇位を授ける資格のある上皇がひとりもいない

光厳・光明両上皇の生母である広義門院の協力をあおぐ事にした

お母さんすみません、ここはひとつ

形ばかりの践祚式
北朝第四代の後光厳天皇
相変わらず、三種の神器もない

そうこうしているうちに九州
まだ、超実力者、直義の養子、直冬が残っておりました。

九州・中国方面に着々と捲き返しの足場を築きあげた。
その結果、直冬党は幕府および南朝に伍する第三勢力としての実力をそなえ、
ここにまたしても天下三分の形勢が出現することとなった

南朝と連携して、京都へ総攻撃
一度は制圧するも、やはり長くは持ちこたえられず
引き上げる

京都は義詮だけでは厳しい
関東の直冬党を一通り倒した尊氏が、鎌倉から京都に移る

なんだかんだ行ってやっぱり尊氏
荒廃した京都を建て直し
地に落ちていた幕府の権威を回復すべく
諸国の守護にも一人ずつ働きかけていく
諸国の守護たちは三勢力に分かれてしまっていたが
人心掌握術にたけた尊氏
次第に尊氏派が増えていく

三上皇の帰京も実現する

いよいよ、直冬の強固な地盤へ大軍を率いて行こう
それだけの余裕が出てきた

ところが結局は九州への大遠征は実現しなかった
尊氏自身に起きた病魔

延文3年4月30日、尊氏は京都の二条万里小路第に54年の生涯を閉じる。
戦地を駆け巡った尊氏であったが
畳の上でのあっけない最期だった

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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