[迷信]ヤマタノオロチはなにものぞ

迷信シリーズ、
またまたスサノオ繋がりです

ヤマタノオロチ

日本の神話に登場する伝説の生き物で有名なものといえば、ヤマタノオロチだろう。
「日本書紀」では「八岐大蛇」、「古事記」では「八俣遠呂智」と書かれている
出雲の国(現在の島根県)にいる怪物で、
スサノオに酒で眠らされ、首を切り落とされる。

その姿は、「目は赤かがち(ほおずき)のように赤く」とされ、
「ひとつの体に8つの頭と8つの尾をもち、長さは8つ分、各8つ分」
という大きさで、「腹には血をにじませていた」と描されている。

とはいえ、生物学的に考えてこのような生き物が実在したとは考えにくい。

では、ヤマタノオロチが何を意味しているのか、またどのようにして生まれたのだろうか。

いくつかの説がある。

よく知られているもののひとつは「溶岩説」

これを最初に唱えたのは物理学者で随筆家の寺田寅彦だといわれ、
その後もこの説を唱える研究者は多い。

ヤマタノオロチを描写する「赤い目」や、
8つの頭や尾を持つという描写は、火口から噴き出して、
「何にも分かれて流れていく溶岩の様子をイメージさせる
火山の噴火に悩まされた民衆が、
「溶岩=ヤマタノオロチ」という怪物を生み出したというのだ。

しかし、この説には異論もある。
この伝説の舞台となる一帯には船通山という山があるが、
これは火山ではない。
溶岩は流れようがない。
大山という巨大な火山もあるにはあるが、
最後に噴火したのは約2万年前といわれ、
日本神話が生まれた時代とは合致しない。
イメージしやすい説ではあるが、厳しいかもしれない

もうひとつ有力な説がある。
「洪水説」である。

具体的には、出雲の国を流れる川の氾濫のことをさす。

斐伊川(ひいかわ)には多くの支流があり、
たびたび氾濫を起こす暴れ川だった。

出ましたね、斐伊川。氷川神社に繋がる川

多くの支流で水があふれ、人々に襲いかかってくる様子が、
あたかも8つの頭を持つ巨大な蛇として受け止められ、
そこからヤマタノオロチという生き物のイメージが出来上がったというわけだ。
この写真を見れば、おおヤマタノオロチじゃない、って思います

川をつかさどる神は「竜神」とされる。
そこからも、「洪水=ヤマタノオロチ」説には、
信憑性があるともいえる。
また、「日本書紀」では、ヤマタノオロチはクシナダヒメを襲うことになっているが、クシナダヒメは「奇稲田姫」と書かれている。
つまり、稲田の女神なのである。
これもまた、「洪水=ヤマタノオロチ」説の裏づけのひとつとされる。

さらには、スサノオがヤマタノオロチを切ったときに
流れた血で川が赤く染まったといわれるが、
実際にこの川は鉄分が多いとされ、赤く見えることもあるという。

赤い色というと、伝説中にあるスサノオに切られて血を流す
ヤマタノオロチの姿を連想させる

ここにも「洪水説」が有力視される理由がある。
「出雲国風土記」には、
昔の人々が川からとれる砂鉄をもとにして鉄を作り、
それを材料にして鉄の農具や日用品を生産していたという記述がある。

出雲国は古来、優れた製鉄法である「たたら」で知られている土地だ

スサノオがヤマタノオロチを退治したとき
その体内から草薙剣という神剣が見つかったとされている。
川から鉄が産み出されたという意味になる

斐伊川は人々にとって、
資源と厄災のどちらももたらす存在だったといえる。
このような事情に対する人々の複雑な感情が、
ヤマタノオロチという形をとって
現代にまで残っているのかもしれない。

西武園遊園地で、ゴジラとともにヤマタノオロチもやってほしいなあ

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[ことば日本史]しっぺ返し

ことば日本史、鎌倉時代からです。

禅宗からのことばになります。

しっぺ返し
禅宗では、座禅のときに見られるように、師家(しけ)が修行者を指導するとき、
竹篦(しっぺい)で打つことがある。

修行者がなにかしかけてきたとき、間髪いれず師家がこれで打つことで返す。
すると修行者は、ハッとすると同時に悟る。

そのような導きのための行為が「しっぺ返し」だった。

竹篦は、長さ四、五十センチくらいの竹を割り
への字形にして、籐を巻き漆を塗ったもの。
いつしかその名が、人差し指と中指をそろえて人の手の甲や手首を打つことに転用され、
「しっぺ」と縮んだ。

それで打たれて打ち返すことが「しっぺ返し」、
そして、たんにすばやい仕返しという意味にまで日用化した。

座禅
私にとって座禅といえば玉寶山長光寺
新宿にある曹洞宗のお寺です。
10年近く前になりますが、初心者もOKの座禅会というのが行われていて、参加した。
そのあともう一回行った

丁寧に説明してくれて
静かな部屋で座禅を組む

想像以上に痛いし、すごい音がする

ご指摘を受けて調べると厳密には座禅の時に使われる竹の真っ直ぐなのは「警策」で
漆が塗られていて曲がっているのが竹篦
若干使われる場面が違うかも

面白いもので、叩いて欲しい人と叩いて欲しくない人に大きく二分されるらしく
順番に回りますから、近づいてきた気配を感じたら
叩いて欲しい人は静かに手を上げてくださいとの事

私は当然手をあげました

このブログを書くにおいて、久しぶりに長光寺のホームページにアクセスしてみた

コロナにより、当分の間座禅会はお休みしていますとのこと
とてもとても残念

そのあと住職さんがしてくれた法話がものすごく良かった

「人人具足」
人は生まれながらにして100%具わっている

当時、職場でとんでもなく合わない人がいた
彼とうまくいかない事があるたびに
心の中で、
なんなんだよあいつは
まあ、悪い奴じゃないんだろうけど
なんであんな風にするんだろう
こういうふうにすれば彼も良くなるだろうに

違う
知らず知らずのうちに、自分が上に立ち
心の中ではあるけれど、上から目線で、教育的指導をしている

人は生まれながらにして100%備わっている
ここをこうすれば、みたいに条件付きで存在しているのではない
一人一人違うだけ
違っていたとしても、やはりそれぞれが生まれながらにして100%なんだ
変える必要もないし、変えさせる必要もない

変えさせようとするから合わないと感じることになる

なんなんだあいつは、と心の中で思いそうになると
人人具足、人人具足、人は生まれながらにして具わっている
彼は彼のそのままで100%、と心の中でつぶやく

嫌な奴には、人人人人言い続ける事になっちゃうんですけどね

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[足利将軍]3-3 足利義満。手紙持っていっただけなんですけど

[足利将軍]3-1 足利義満。言うだけの事はある
[足利将軍]3-2 足利義満。室町時代の始まりの大行事
の続きです。

足利義満
「拝賀」という大行事を行い
自らの権威を見せつけた。

公家たちは、なぜ将軍に直接支配されないといけないのか、と
釈然としない気持ちは持っているので
抵抗はしてみる

ところが、そう試みた者は例外なく没落していくのをみるにつけ
あきらめ、そして積極的に機嫌をとって気に入られる方が得策だと考えるようになる

そして、いよいよその風潮が天皇にまで影響するようになる

火元は三条公忠だった

義満に要望を出す
京都に一町ほどの土地をいただけないか

三条公忠としては忠誠を誓う見返りというほどの事だったのだろうが
大きく間違いをおかしていた。

京都の中の土地は天皇の専権事項

義満自身もビックリした。
おいおい、そんなことも知らんのか

仕方ない、天皇に対して推薦状を書いた

三条公忠が京都に一町の土地を欲しいようです。
与えてやったらどうでしょう。

この推薦状を厳子(げんし)即ち三条公忠の娘であり、後円融天皇の奥さんに持たせた。

ところが、8日間なしのつぶてだったあげくに、厳子を通じての返信が不許可

京都の中の土地は天皇の専権事項なので、そんな風にいわれても困ります。

まあ、そうですね

義満としてもそりゃ分かってはいるわけですが面白くない

三条公忠いらんことしてしまいました。

ところが、二日後にこの不許可が覆ります。

やっぱり、土地はあげることにしますが、厳子は追放します。

そりゃまたどうして?
厳子は手紙持っていっただけなんですけど。

天皇としては、言う通りにしないとまずいと思い直したけれども
公忠に対しては頭に来た。
公忠にとって死活問題の嫌がらせ

公忠にとって今の地位にいられるのは娘の厳子が天皇の奥さんだから
えらいことになった。

大慌ての公忠は、土地下さい、の要望を撤回
義満に対しても
やっぱり撤回します、忘れてください。

この件自体は、本人が撤回した以上、義満としてもどうしようもないが
面白くない、という意識は残っている

別のちょっとした人事に関わる要望を天皇に出した。

拒否はしなかったが、なしのつぶて
今で言う、既読スルー

義満がご立腹と聞いて、慌てて許可したが事遅し

義満が右大臣を辞任してしまった
辞めてやる攻撃です。

結局は、義満も撤回してなんとかなったのですが

天皇の方も頭に来ており
二ヶ月後、全く訳の分からないお触れを出します。

京都の土地は全て没収し、元々の持ち主のところに戻します。

そんなことできるはずのないあり得ないお触れ

これを皮切りに、徐々に後円融天皇の精神が壊れていきます。

続きはまた次回

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]99 後亀山天皇。南北朝統一

後亀山天皇

南朝最後の天皇となった後亀山天皇の在位は、弘和3(1383)年から元中9年(1392)までの9年間である。

後醍醐天皇が延元元年(1336)吉野朝廷を開いて以来五十年、
南朝は後村上・長慶天皇をへて後亀山天皇が即位するころには、その勢力は大きく衰退していた。

そうした中で、北朝をかつぐ足利幕府は、「神器」を擁する南朝がつねに反乱分子の拠りどころとなって、内紛を続発させてきたことが政情不安の元だと考え、弱体化した南朝を強引に、
北朝と合体させようとはかったのである。

ときの将軍は、三代足利義満。
大義名分論を主張して、武家の風下にくだることを良しとせぬ南朝に対して、
元中9(1392)年10月、義満は三つの条件をつけて和睦を申し入れた。

一、後亀山天皇は譲位の儀式をもって、三種の神器を後小松天皇に渡すこと。
一、今後の皇位は、南朝方の大覚寺統と北朝方の持明院統が迭立して、交互に即位すること。
一、諸国の国衙領は、南朝方の大覚寺統が支配し、
長講堂領は北朝方の持明院統の支配とすること。

南朝方にとって、第一の条件は屈辱的であったが、
軍事的勢力の大きな開きはいかんともしがたく、
第二、第三の条件に将来の保証を託して、
幕府の和睦提案を受け入れることに決した。

後亀山天皇が、神器を奉じ、吉野行宮を出発したのは、
10月28日である。
奈良をへて、京都に還御したのが閏10月2日、洛北の大覚寺に入った。
三日後の閏10月5日、神器が大覚寺から北朝後小松天皇の皇居である土御門東洞院内裏に移された。

神器の渡御は実現したが、
南朝方が主張した譲位の儀式は行なわれず、
講和の条件は、初手から後亀山天皇の存在が無視されるという状況の中で反故にされてしまったのである。

当時の史料にもいう「南北合体」は、
強者と弱者の論理の中で実現し
後醍醐天皇が吉野に移って以来、57年ぶりに皇統は一本化した。
とはいえ、「南北合体」は北朝方の意思を反映したともいえず、
ほとんど幕府先導による武家の意思だけが優先した南北朝合一だった

こうした力の論理は、
その後、法皇となった後亀山院とその一統に
きびしい茨の道を強いることになる。

南北朝合一が実現して一年半後の明徳5(1394)年2月22日、
後亀山院に太上天皇の尊号が贈られたが、
足利義満はなお一年あまりも拝謁を願い出ようともしなかった。
義満によって無視された中で大覚寺にあった後亀山院は
応永17年(1410)年11月、突然吉野に潜幸してしまう。

これは、両統迭立の実現を迫る後亀山院の
示威行動と見られているが、その成果もなく、
二年後の応永19(1422)年、
北朝後小松天皇の皇子躬仁親王が即位して称光天皇になった。

後亀山院は、応永23(1416)年9月まで吉野にあり、
その間には、南朝回復を期する勢力の台頭もあったが、
幕府の請いをいれて、ふたたび大覚寺に還り、
その後は政治の表舞台に立つことはなかった。

応永31年4月12日、後亀山院は、大覚寺で崩御した。
陵墓は、大覚寺近くの嵯峨小倉陵(京都市右京区)。
後亀山院の筆跡は、観心寺の「観心寺縁起」奥書と
松尾寺蔵の宝篋印塔陀羅尼経が知られている。

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