[天皇]99 後亀山天皇。南北朝統一

後亀山天皇

南朝最後の天皇となった後亀山天皇の在位は、弘和3(1383)年から元中9年(1392)までの9年間である。

後醍醐天皇が延元元年(1336)吉野朝廷を開いて以来五十年、
南朝は後村上・長慶天皇をへて後亀山天皇が即位するころには、その勢力は大きく衰退していた。

そうした中で、北朝をかつぐ足利幕府は、「神器」を擁する南朝がつねに反乱分子の拠りどころとなって、内紛を続発させてきたことが政情不安の元だと考え、弱体化した南朝を強引に、
北朝と合体させようとはかったのである。

ときの将軍は、三代足利義満。
大義名分論を主張して、武家の風下にくだることを良しとせぬ南朝に対して、
元中9(1392)年10月、義満は三つの条件をつけて和睦を申し入れた。

一、後亀山天皇は譲位の儀式をもって、三種の神器を後小松天皇に渡すこと。
一、今後の皇位は、南朝方の大覚寺統と北朝方の持明院統が迭立して、交互に即位すること。
一、諸国の国衙領は、南朝方の大覚寺統が支配し、
長講堂領は北朝方の持明院統の支配とすること。

南朝方にとって、第一の条件は屈辱的であったが、
軍事的勢力の大きな開きはいかんともしがたく、
第二、第三の条件に将来の保証を託して、
幕府の和睦提案を受け入れることに決した。

後亀山天皇が、神器を奉じ、吉野行宮を出発したのは、
10月28日である。
奈良をへて、京都に還御したのが閏10月2日、洛北の大覚寺に入った。
三日後の閏10月5日、神器が大覚寺から北朝後小松天皇の皇居である土御門東洞院内裏に移された。

神器の渡御は実現したが、
南朝方が主張した譲位の儀式は行なわれず、
講和の条件は、初手から後亀山天皇の存在が無視されるという状況の中で反故にされてしまったのである。

当時の史料にもいう「南北合体」は、
強者と弱者の論理の中で実現し
後醍醐天皇が吉野に移って以来、57年ぶりに皇統は一本化した。
とはいえ、「南北合体」は北朝方の意思を反映したともいえず、
ほとんど幕府先導による武家の意思だけが優先した南北朝合一だった

こうした力の論理は、
その後、法皇となった後亀山院とその一統に
きびしい茨の道を強いることになる。

南北朝合一が実現して一年半後の明徳5(1394)年2月22日、
後亀山院に太上天皇の尊号が贈られたが、
足利義満はなお一年あまりも拝謁を願い出ようともしなかった。
義満によって無視された中で大覚寺にあった後亀山院は
応永17年(1410)年11月、突然吉野に潜幸してしまう。

これは、両統迭立の実現を迫る後亀山院の
示威行動と見られているが、その成果もなく、
二年後の応永19(1422)年、
北朝後小松天皇の皇子躬仁親王が即位して称光天皇になった。

後亀山院は、応永23(1416)年9月まで吉野にあり、
その間には、南朝回復を期する勢力の台頭もあったが、
幕府の請いをいれて、ふたたび大覚寺に還り、
その後は政治の表舞台に立つことはなかった。

応永31年4月12日、後亀山院は、大覚寺で崩御した。
陵墓は、大覚寺近くの嵯峨小倉陵(京都市右京区)。
後亀山院の筆跡は、観心寺の「観心寺縁起」奥書と
松尾寺蔵の宝篋印塔陀羅尼経が知られている。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です