[三種の神器] 八尺瓊勾玉って何の形?

[三種の神器] えっそうだったの?
[三種の神器] 八咫鏡はアマテラス
[三種の神器] 八咫鏡。どんな形?
[三種の神器] 草薙剣。不思議なことだらけ
[三種の神器] 草薙剣。その姿は
の続きです

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
三種の神器の3つめは、八尺瓊勾玉です

他の二つは本体は伊勢神宮だったり、熱田神宮にあって、分身が皇居にあるのだけれど
八尺瓊勾玉だけは、本体自身が皇居に存在する

そもそも、勾玉(まがたま)というものは何者なんだろうか
まずは一般論としての勾玉について考えてみたい

勾玉(まがたま)
勾玉(まがたま)とは、名前の通り、曲がった玉
実は古事記と日本書紀で、違う字が使われている
古事記は「勾」で日本書紀は「曲」
意味としてはどちらも、曲がる、なんだけど
「勾」は、卑字凶字
人が曲がって埋葬される
即ち、死体の意味

中国から、はい、これね、と教えられた字の背景的な意味が
古事記の段階では良く分かっていなくて
日本書紀の段階で、あらそういうことなのね、と字を変えた

倭国というのも、卑字凶字なので、その後「日本」に変えたのと同じこと

「三種の神器」の本では曲玉、と表記していますが
一般的には勾玉の方が通りが良いので
当ブログでは「勾玉」と表示したいと思います

それでは、勾玉のあの形はいったい何なんでしょうか

穴に紐を通して、ネックレスのように使っていたんだと思いますが
あの形は日本人が作り出した形で、日本にしかない
一部朝鮮に存在しますが、日本から行ったのだろうと思います

三種の神器に採用されるくらいのものなので、霊的な何かが象徴されるはず

ひとつは魂の形
いわゆる人魂(ひとだま)
お化けが出るとき周りに飛び回っているやつ

もうひとつは、胎児
生命の誕生の形

「三種の神器」の本ではさらに二つの意味がつけ加わったのだろうと推測しているが
それは、次回にお話ししましょう

一旦「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」の意味に進めます

八尺の「尺」は、八咫鏡の「咫」と同じで「アタ」と読む上代での長さの単位
八は八百万の神の「八」と同じで多い、ということ
「瓊」の字は「美しい」とか「赤い」とかいう意味で
特に「瑪瑙(めのう)」を指す

ということは、八尺瓊勾玉は
大きなめのう製の赤い勾玉なんだと思われる

次回、さらに考察を進めていこうと思います

[神様]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] 風呂敷

「ことば日本史」室町時代から

風呂敷

包む布については、単純な布に過ぎないので、形そのものはずっと変わっておらず
名前が、いつ「風呂敷」になったかという歴史になる

平安時代後期の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(935年頃成立)には
古路毛都々美(ころもづつみ)と呼んでいた。
南北朝時代の『満佐須計装束抄(まさすけそうぞくしょう)』、康永2年(1343年)には「ひらつつみにて物をつつむ事。」と記載され、「平包」と呼んでいます

お風呂に関しては、鎌倉時代から寺院に現れ始め、室町時代に少しずつ増えていく
その頃は蒸し風呂です

将軍・足利義満が室町の館に大湯殿(おおゆどの)を建てた折、
もてなしを行うに際し近習の大名を一緒に風呂に入れたところ、
大名達は脱いだ衣服を家紋入りの絹布に包み、
他の人の衣服とまぎれないようにし、
風呂から揚がってからはこの絹布の上で身繕いをした、という記録が残っています。

また『実隆公記(さねたかこうき)』では将軍足利義政室、
日野富子(1440~96年)が毎年末、北大路の屋敷で両親追福の風呂を催し、
湯殿をもたぬ下級公家や縁者を朝から招いて入浴させ、
お斎として食事を供したと記述しています。

ここでいう風呂とは社交儀礼の場であり
一種の遊楽をともなった宴を催すことを「風呂」といい、
入浴にはいろいろな趣向がこらされ、浴後には茶の湯や酒宴が催されました。

当時の蒸風呂では蒸気を拡散し室内の温度を平均化するため、
床には、むしろ、すの子、布などを敷きました。

風呂に関わる布としては
風呂自体に敷く布と、
他の人の衣服とまぎれないように包むための布があったことになります

おそらく、「他の人の衣服とまぎれないように包むための布」は
風呂に敷く布とイメージがオーバーラップしていったのではないかと思われますが
文書に「風呂敷」という表現はまだ現れていません

江戸時代
江戸時代初期、都市生活の発展を反映し、
湯屋営業も普及し、入浴料をとって風呂に入れる銭湯が誕生しました。
『慶長見聞集(けいちょうけんもんしゅう)』には、
天正19年(1591年)に伊勢与市が銭瓶橋に銭湯風呂を建て、
永楽一銭の入浴料を取ったとあります。

蒸し風呂ではなく、湯を張った風呂でした。

湯具としては手拭・浴衣・湯褌・湯巻・垢すり(呉絽の小布)・軽石・糠袋・洗い子などを
布に包み銭湯へ通うようになりました。
他人のものと区別しやすいように家紋や屋号を染めるようになっていきました。

「風呂敷」という名称に関する最初の記録は、
徳川家康没後の元和2年(1616年)に
生前の所蔵品を近親に分散した際の遺産目録のなかで、
尾張の徳川家が受けついだ明細書である『駿府御分物御道具帳』に見られます

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[迷信]ノアの方船って?

「科学で読み解く迷信・言い伝え」からのシリーズ
長らく続けて来ましたが、シリーズとしては最終回になります

ノアの方船(はこぶね)

西洋の伝説の中で最大の不思議はやはりノアの方船です

大学の時、友達にクリスチャンがいたので
ノアの方船って矛盾だらけだよね
と、意地悪な問いかけをした

キリストを信じたんだよ
そして、キリストと聖書を信じたんだ
そうすると、細かい矛盾点は意味のないことになるんだ

こいつすごい
とその時思いました
そういう生き方を出来る友達をうらやましいとも思った

「ノアの方舟」の物語は、旧約聖書の「創世記」に書かれているエピソード

ノアは人類の祖であるアダムから数えて10代目にあたるが、
その頃の地上は人間であふれかえり、悪事と不道徳に満ちていた。
神はそれを嘆き、人間や動物たちを洪水により滅ぼそうと考えたが、
ただひとり善行をしていたノアの家族を助けることにして、
彼に生き物たちの未来を託したというのである。

雨は40日間降り続き、150日目に水が引き始めた。
すると、アララト山の上にノアの方舟だけが残されていたという。

およそ5000年前に大洪水が起こったという話は、
古代メソポタミアの「ギルガメシュ叙事詩」や、
ギリシャ神話、インド神話などにも数多く残っている。
また、中国や南米の古代文明やイースター島の古代文化にも、
大昔に大洪水が起こったという言い伝えが残っている。

これらはノアの大洪水が起きたとされる時代とも符合する。
そのために、実際に起こったことではないかという研究者も多い。
そして実際、その痕跡ともいえるものが各地で発見されているのである。

たとえば、ヒマラヤで三葉虫などの海の生物の化石が発見されるなど、
各地の内陸部や標高の高い場所で海の生物の化石が発見されている。

しかも、動物も植物も短期間で急速に化石化しているのだ。
食事中や出産中の化石もあることをみれば、いかに短時間で埋もれたかがわかるだろう。

黒海洪水説
いくつかの説があるなかで、長年にわたって注目されているのが、黒海洪水説だ。
約5000~9000年前に、黒海に面したトルコのシノップ一帯で大洪水が起こった。
それがノアの大洪水として人々の記憶に刻みつけられたのではないかという考え方だ。
2004年にその付近で行われた調査により、
本来は湖だった黒海が急激な異変によって拡大したという説が浮上した。
その後、海洋探検家のロバート・バラードを中心とした調査隊が
黒海の海底の綿密な調査を行い、
水深約100メートルの海底にかつての文明の痕跡を発見した。

これにより、この付近の水位は過去に大きく変化していることがわかった。
そして、その水位の変化の原因を議論する中で出てきたのが、
大規模な洪水が起こったという説なのだ。

ただし、地層を調べてもその痕跡はなく、
また洪水によって押し流されたはずの生物の化石も発見されていないことから、
この説には多くの疑問が投げかけられている。

なかには、「大洪水は局地的なものではなく、
一時期、地球上のほとんどが水面下にあった」
と唱える研究者もいる。
しかし、それについては「大気中のすべての水分を集めたとしても、
地球全体で考えると3センチほどしか水位は上昇しない
地表に重大な変化をもたらすような大洪水などあり得ない」
と主張する研究者も多い。

アララト山
ノアの方舟が流れ着いたとされるアララト山についても、興味深い話がある。
トルコにはその名の通りのアララト山が存在する
標高5137メートルのアララト山では、1974年から人工衛星によりたびたび撮影され、
詳細な調査が行われてきた。

そして2009年に、米国の研究者がアララト山の北東部に表面が硬い物質を発見、
その大きさからノアの方舟ではないかと考えられた。

さらにその翌年には、トルコと中国のチームが、
アララト山の標高4000メートル付近で方舟と思われる構造物を発見した。
その木片を持ち帰って炭素年代測定をすると、約4800年前のものと判明した
ノアの方船発見か
構造物の中は7つの部屋に分かれていた
こっちの部屋は大きいからぞうさんがいたのかな

実は、この類いの話は過去に何度も報告されている
ロマンですもんね
発見者になりたい気持ちは分かります

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[足利将軍]8 義政。頑張る気持ちはあるんだけど

義政

7代将軍義勝が幼少にして、僅か1年で亡くなってしまったので、
当然義勝に子供がいるはずがありません。

次の将軍は、弟の義政ということになります
後で出てきますので、さらに弟に、義視(よしみ)という人がいるのを覚えておいて下さい

一般的には、この義政からが、戦国時代と言われます

なぜなら、義政の時期に応仁の乱が起きたからになります

年表的に言うと、義政の時代は、こんな時代になります

義勝の死後、義政が次期将軍と決まったものの、義勝同様にまだ幼少
1449年に元服して征夷大将軍になるまでは、有力守護大名たちの合議制で政治が進められていきます

さあ、征夷大将軍になりました
少しずつ政治に意欲を持ち始めます

自分でやりたいように進めていきたい
ということで、有力守護大名(重臣)よりも近臣、
すなわち、個人的に近しい人たちを重要視するようになります

乳母の今参局(いままいりのつぼね)、育ての親・烏丸資任(からすますけとう)、側近の有馬持家(ありまもちいえ)です。
全員、名前に「ま」が入っていることから、「三魔」と呼ばれます

なんだとう
重臣たちはやっきになって、三魔を追い落とそうとする大バトル
結局は重臣たちの勝利
義政は、三魔を失脚させざるを得なくなります

その後も自分でやりたい気持ちはあるので、頑張ります

そういった経緯は、お父さんの義教と似ているのですが
義教はあまりに強硬に意思を貫き、結局は反感をかい、殺されることになった

義政は、性格的に、そこまで強硬になれず
優柔不断なところがあった
一貫した思いきった手を打てない

守護大名たちの家督問題に立ち入り、勢力を削ごうという方策は
義教同様に試みるが
こっちについたかと思えば、急に逆側に鞍替えしたり
関東のゴタゴタにも立ち入るが引き際が分からず
28年もの長期に渡って、断続的に内乱が続くことになる

そうこうしているうちに、自分も歳を取ってくる
男の子は生まれるものの、次々、若くして亡くなってしまう

ひょっとして、このまま世継ぎに恵まれないかも

先にお話しした、弟の義視(よしみ)に声をかける

次にはお前にお願いすることになりそうだ
準備しておいてくれ

はーい

出家していた義視を連れ戻す

ところがその後、よくあるパターン
世継ぎが生まれ、元気に育ちそう

今までもこういうパターンは争いのもと

状況が悪かった

各守護大名たちの家督問題に首を突っ込んでいるから
あっちでもこっちでも内輪揉め

それだけならまだ良かったんだけど
実質将軍不在時代に、大名たちはかなり力をつけている
大名Aの1と大名Bの2と大名Cの1というように手を組んでグループ化していく
そうなると逆の片割れ同士が手を組んで対抗

東軍、西軍に分かれていく

そうなると、旗頭が欲しい
義視さん、どう?
うちに付かない?
我々が担げば、あなたはすぐにでも将軍だよ
ぐずぐずしてると、義政は息子に譲っちゃうよ

本当は仲の良い兄弟だったんだけどね

応仁の乱です

次回、またそのあたりのお話から

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)