アメリカ、初代公使ハリス

日本側はうっかりしていた。

ペリーの不完全燃焼
ペリーは開国という目的に対し、大成功だったかに見えるが
大学頭(だいがくのかみ)の林復斎(はやしふくさい)に言い負かされてしまう。

日米和親条約
これは、何ら具体的なものは書かれておらず
仲良くしましょうねという趣旨のみ
日米修好通商条約の締結は出来ずじまいで帰国してしまう。

ああ帰っていった。
良かったね、ほっとした。

ところが
仲良くしましょう条約に、
こんな一文が書かれていた。

必要と判断される際は、外交官を派遣することを許可する。

ハリス
ところがこの大事な一行は
翻訳をした人がミスして、違う意味の日本語になっていた

1856(安政3)年、ハリスが下田にやって来た

♪ハリスーのかぜー

入国を認めない
いや、入国だ

激しい応酬の末
現在の静岡県下田市柿崎の玉泉寺を仮の総領事館とする

ハリスは政治家でも官僚でもない
初等教育しか受けていず、ずっと商業の世界に身を置いていた。

独学で数ヵ国語をマスターし
貿易商として、中国やインドシナに遠征する。

いつか外交官になることが夢だった彼にとって
降って湧いたようなチャンスだった。

日本の印象
「柿崎は小さくて、貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて
態度も丁寧である。
貧乏な国にいつもつきものになっている、不潔さというものが少しも見られない。」
(ハリス日本滞在記)
ハリスが自身の目から見た日本の土地やそこに住む人々は
裕福ではなくとも幸せそうだった。

これから起きるであろう、西洋文明の侵食
彼の中に少しばかりの葛藤が生じた。

交渉
ペリーになくて、ハリスにあったもの
それは、通商によって日本側が得られるものを
理屈で説明出来る能力だった。

粘り強く、粘り強く、交渉を重ねていく。
欧米で行われている商業のひとつひとつを丁寧に説明。

それは、経済学の理論ではなく
彼の貿易商としての経験で得たもの
日本に無い概念なので、翻訳しようにも言葉がない

通訳のヒュースケンと二人三脚で苦労を重ねる

将軍謁見
そして、翌年
ようやく、将軍家定との謁見がかなう

あの、又吉がやってる家定です。

短い沈黙の後、大君は自分の頭を、その左肩を越えて、後方へぐいっと反らし始めた
同時に足をふみ鳴らした。
これが、三四回繰り返された。
それから、彼は、良く聞こえる、気持ちの良い、しっかりした声で、次のような意味のことを言った
「遠方の国から、使節をもって送られた書簡に満足する。
同じく使節の口上に満足する。
両国の交際は永遠に続くであろう。」

体調
江戸参府のあと、体調を崩し、予定を早めて下田に帰る。
実はこの時チフスにかかっていた。

当時最高の医師二人が、匙を投げた。

そして、ヒュースケンも、日記で、覚悟したと書いている。

その後、何とか持ち直す。

気力を振り絞って交渉を続け
ようやく条約締結が叶ったときは
それはそれは嬉しかった事でしょう。

体調を崩して、病魔にやられた原因のひとつ
牛乳が飲めなかった。

以前書いたことがありますね
明治の東京は牧場だらけ
江戸時代以前は、牛乳を飲むという習慣が全く無い

牛乳が大好物のハリスは、ストレスこの上ない

辛抱たまらん。ノンノンノン。
牛かう!
(飼うとカウをかけてみました)

雌牛一頭を下田で飼おうとしましたが、結局は実現しませんでした。

条約へ向けて
井上と岩瀬という二人がどれだけ頑張ったか
井伊直弼はなぜOKを出したか、というあたりは
こちらを読んでね
[徳川名参謀]14 家茂→井伊直弼、なんでそうなるのか

索引はこちら
[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)


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