[名僧]金地院崇伝。武家諸法度を作った副総理

名僧シリーズ
出ました、超大物
江戸時代のお坊さんと言えば、天海と並ぶビッグ2

天海は、家光にも慕われということがありますが
やったこと、でいうと政治的に大活躍した金地院崇伝(こんちいんすうでん)が断トツ

金地院崇伝
1569~1633年 臨済宗

南禅寺金地院に住んでいたので、金地院崇伝(こんちいんすうでん)と言われますが
以心崇伝がより正しい。
このあとは、崇伝と呼ぶことにしましょう

崇伝は足利一族で、その中でも超エリートの家柄
お父さんも将軍足利義輝のもとで働きますが、残念
崇伝が4歳のとき、室町幕府が滅び、足利義輝も亡くなってしまいます。

そういうときは出家です。
崇伝はよほど頭が良かったのでしょう
めきめき頭角を表し、どんどん出世

建長寺の住職になりました。
この前、建長寺行った時、その認識がなかったなあ
ああ悔しい
鎌倉の五山第一
建長寺に行ったときの様子はこちら

それだけでもすごいのに
そのもうひとつ上、臨済宗のトップ、京都の五山第一、南禅寺の住職になっちゃいました。

それまでで良さそうなもんですが
さらにそこから、崇伝の大活躍が始まります。

そんな、仏教界の一番のお偉いさんを呼びつけたのが徳川家康
さすがです
天下人しか、そんな恐れ多いことできません。

書き物を頼むわ

もちろん、一番のお偉いさんに書かせる書き物ですから
とても重要な書類

諸外国との交渉のための
教養のにじみ出るような文章で相手より精神的に優位に立とうという作戦

作っときましたけど

ありがとう
じゃあ、それもって、外国回り、交渉してきてもらって良い?

えっ私がですか?

よろしくね。助かるわぁ

朝鮮、中国はもちろんのこと
ベトナムやタイも巡ります
西洋諸国は、行きはしませんでしたが、要人と会って交渉

もともと切れ者でしたが、諸国へ行っての経験は
考え方に大きく深みを持たせ
もう国内に比べる者がなくなりました。

ただいま

おお、待ってたよ
聞いてるよ、そなたの働き。さすが思っていた通りだ
ところで、早速で悪いんだけど
また頼みたいことがあってね

もうこうなったら乗りかかった船
何なりと

国を作りたいんじゃ
長く長く続く、平和な国
みんな一人一人の笑顔がずっと続く国じゃ
相談相手になって欲しい

初めて有ったときから分かっていました
あなたはそういうお人じゃ
さあ、何から手を付けますかな

二人で激論を交わし
崇伝が文書にまとめあげて
形として仕組みにする

出来上がったのが
「武家諸法度(ぶけしょはっと)」「禁中並びに公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」「寺院法度」
法度三部作

武家諸法度は将軍の代が変わる度に作り替えられますが
基本線は、崇伝の作ったものと変わっていません。

一国一城令のように、戦国時代に戻ってしまわないような事を仕組みにした

ところで、武家諸法度と言えば思い出すのが、ボールペンの試し書き
以前、大好きなTBSラジオ、安住紳一郎の日曜天国に出ていた「ボールペンの試し書きフェチ」
文房具屋さんのボールペンがいっぱい売っている売り場に必ず置いてあるのが白い紙
書き味を試すために、くりくりくりっとただ線を書くだけの人もいれば
自分の名前や住所の一部等、良く書くであろう文字を書く人も
「永」という字も定番
そんな試し書きに何が書いてあるのか見て回るのが三度の飯より好きという変人さん。
訳分かりませんが、何となく自分と似たような血が流れている気がして、愛着が沸きます。
ベストテンには入らないものの、意外に多い言葉が「武家諸法度」だと言うのです。
大笑いしました。
試し書きの紙に、武家諸法度と、どーんと書かれていればインパクト強いです

禁中並びに公家諸法度は、朝廷や公家さんを規定したもの
これはものすごく大きな意味を持ちます。

日本って面白い国だなあと思うんですが
太古の昔から、政権を色んな身分の人が取り変わってとっていった
なのに、将軍になったりはしても
天皇に自分がなっちゃおうという人はいなかった
敢えて言うと、道鏡くらいかな

家康も本気で自分が天皇になります、と言えばなれないことはなかったと思うが
そうはしなかった。
藤原氏も平家も源頼朝も足利尊氏も

将軍って、天皇に任命された征夷大将軍です
なのに
それは崩していないはずなのに
天皇や公家は、何をするにも将軍にお伺いを立てて、
許可をもらわないといけないと「決めた」
初めての文書です。

キリスト教禁教令
家康は最初キリスト教に寛容でした
それが、いくつかの事件で心変わりした

キリスト教を制限する方向で行きたいんだが

仏教の親玉にそんなこと相談してはいけません

書き上げるのは一日だけ
翌日崇伝は、キリスト教禁教令を作って持ってきました。

おかげでキリスト教の人たちは大変な事になるわけですが。

ライバル
家康にして崇伝あり
家康の頭脳であり
今で言えば、副総理というところでしょうか

ずっとそのままで行くと思われました。

でも、途中から、何だか気にさわる人物が。
天海です。

先程話した、天皇との関係を仕組みにするため
紫衣(しえ)というものも規定します。
紫衣とは、仏教各宗派の頂点となる本山の住職に与えられるもの
それを認めるのは天皇の専任事項でした。
認めてもらうため天皇へ、袖の下のようなものが渡され
重要な資金源になっていました。

恣意的な任命を禁止
基準を明確にしました。
天皇としては、基準なんて決めてもらったら営業妨害も甚だしい。

基準を無視して、天皇が勝手に紫衣を与えたのが紫衣事件
もらったのは沢庵和尚

詳しくは沢庵和尚の時に書きますね

ここは、見せしめの為にも島流し
ところが、天海がしゃしゃりでて
まあまあ、そんな目くじら立てなさんな

そして、天海との立場が決定的になったのが、権現と明神で権現の勝ち
詳しくは、天海を読んでね

どうしても、この時の負け、の印象が強いもので
天海一番、崇伝二番的にイメージしがちですが
崇伝のやったことは
江戸時代に260年の平和をもたらした、大きな大きな業績でしょう

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

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