[名僧]沢庵ポリポリ、流罪のあとに

名僧シリーズ

沢庵漬けで有名な沢庵和尚です

沢庵宗彭(たくあんそうほう)
1573~1645年 臨済宗

父は武士だったけど、織田氏に滅ぼされる
その後出家する。

色んな僧につくがことごとく亡くなってしまう。

苦労して苦労して、臨済宗のベスト5のひとつ大徳寺の153世住持となる

型破りで、高僧は当たり前の法嗣(ほうし)という跡継ぎとなってくれるものも取らなかった

紫衣事件(しえじけん)
五山の大徳寺と妙心寺は、住持になると、朝廷から紫の衣をもらえる
ありがとうございます、といくらかのお金を渡すので
朝廷としても重要な収入源

ここに割り込んで、徳川幕府が首を突っ込んできた
「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」
さらに「禁中並公家諸法度」
金地院崇伝(こんちいんすうでん)が作りました
朝廷は幕府の許可を得ずに、紫衣を出してはいけません
紫衣を得るためには、30年の修行と、1700の公案を経験する必要があります。
全く非現実的な数字です。

怒ったのが後水尾天皇
幕府がなんぼのもんじゃいと、沢庵に紫衣を出した
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幕府としても捨ておけません
条件を満たさずに得た紫衣ですから無効とします。

一触即発

当事者である大徳寺内では意見が真っ二つ

素直に従おうと言うものと
徹底抗戦だというもの

沢庵は徹底抗戦を主張

ここで折れては、仏教寺院は今後幕府の言いなりになるしかなくなる

抗議文を提出

1700の公案というのは、比喩的に使われる数字で
八百万の神というのと同様で、数多くのというくらいの意味
実際に1700という数字を示した言い方ではない

30年の修行というのも、これからの人生からして不可能
過去に、30年を経ずして悟りを拓いたものはいくらでもいる
そもそも悟りというのは時間によって到達するものではない。

理屈です。
理路整然としています。

カチンと来た幕府。金地院崇伝
そんなことは最初から分かっていての無理難題

決定的なのが、最後に付け加えられていた一言

このような誤りが生じたのは、起案者の不明によるものではないか

完全に喧嘩を売っております。
絶対的権力者、金地院崇伝に今まで楯突いたものなど一人もおりません

もうひとりのブレーン、林羅山も大激怒
これは、家康様を侮辱したに等しい

こうなっちゃうと死罪は免れませんが
確かに理路整然としており、はなから無理難題であったし
更なる実力者、天海が、まあまあそこまでしなくてもと仲裁

結局、沢庵は出羽の上山に流罪になった
同じく紫衣を得ていたものは、それぞれ地方に流され
一人だけ許された
許されたのは、事件後即刻謝った人

配流生活
大物沢庵を迎えることになった上山藩主の土岐頼行は大張り切り
有名人が来るような場所ではありませんので。

立派で大きな庵を作ろうしたんだけど

流罪なんです。ご勘弁
できるだけ小さくしてください。

茅葺き屋根の春雨庵を作ってもらった

簡略これ仏道

何だか質素な生活が楽しくなっちゃったみたいです。
そうなると、周りも楽しくなるんじゃないでしょうか

幕府から監視役が付いているんだけど
沢庵の事が大好きになっちゃって、あれやこれや世話を焼いたり
ものをあげたくなっちゃう

ものをもらっても、僧侶の身
使いたいものはない
と、あっさり捨てちゃう

自分を流罪にした幕府に対して
恨み言のひとつも言いそうなもんですが
生活を楽しんじゃっていると、心も穏やかになるんでしょうか

法度を作った以上、守らないといけない
ちゃんとそれを守った幕府は立派。天晴れじゃ

おいおい、ちょっと前まで喧嘩売ってたくせに

秀忠が亡くなった事で、恩赦が行われ、沢庵は許されます

ええっ、そうなの
ここが気に入ってるんだけどなあ

東海寺
そんな沢庵の事が大好きになっちゃった人がひとり
とても意外な人

何と家光

生き様を気に入ったということでしょうか
本来なら、幕府に楯突いた煙たい存在な筈なんですけど

江戸に是非来てください、と
沢庵の為の東海寺を作っちゃった

さらに江戸城の中に沢庵が休む為の部屋まで作っちゃうという入れ込みよう

もちろん、沢庵の性格からしてありがた迷惑
何とか逃れようとするので
東海寺から逃げないように当番制で近隣の農民が見張りに狩り出された
これを「沢庵番」と呼んでいます

それでも逃げようとする沢庵に
お前は自分の迷惑の事ばかり言うが、
俺の気持ちも考えてくれ
と、家光が言っている

そこまで行くと
男色で有名な家光の事だから疑いたくなりますが
その時、沢庵は60歳越え
さすがにそれはないんじゃないか

一途なラブコールに
苦労して大人になっている沢庵は、次第にほぐれて行ったのでしょう
素直に感謝するようになっていったようです。

柳生宗矩
そもそも、なぜそんなに気に入られたかというきっかけや接点なんだけど
元々沢庵は、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)と仲が良かった

柳生宗矩と言えば、剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流を創設した人物
将軍の剣の先生と言えます。

そんな柳生宗矩が、恩赦のあと、沢庵と幕府の関係修復を取り持とうと動いたようです。

将軍が禅の先生を探していた

柳生先生、禅の良い先生知りませんかね

知ってます。知ってます。今度是非セッティングしますね

おそらくそういう経緯で禅の指南役となった。

剣禅一如(けんぜんいちにょ)
という経緯もあって、沢庵の考えは、剣と禅の両方に通じます。
一言で言うと、剣禅一如(けんぜんいちにょ)

沢庵の書いた「不動智神妙録」という本の中に出てくる言葉です。

不動心とは心が自由自在に動いて留まらぬということであり
動心とは何かにとらわれて自由に動けない心である

剣は、技を磨く事に意味がない

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

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