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の続きです
江戸城無血開城
慶應4(1868)年3月13日と14日、いよいよ西郷隆盛との交渉です
勝海舟は交渉に先立ち、ある作戦の準備をしていた
火消し・ヤクザなどの親分のところを回って金を渡し、
新政府軍が進撃して来たら、子分を使って市街を焼き払い焦土と化し、
その進撃を食い止めるよう命じる
同時に大小の船を用意し、市民を房総に避難させる準備もした
いわゆる、焦土作戦です
江戸城無血開城会談について、必ず出てくる話なのですが
海舟本人が書いた『海舟日記』『解難録』に記述されています
『海舟日記』
慶応4年3月10日に書かれている
この日は山岡鉄舟が西郷との会談を終え、江戸に戻り復命した日である。
日記には、そのことで鉄舟を絶賛している。
主君の恭順の真をよく官軍側に納得させたこと、
法親王(天台座主輪王寺宮入道公現親王)始め多くの者が嘆願に向かったにもかかわらず
誰一人成功しなかったが、鉄舟だけが降伏条件の書付を持参して帰った、
とその沈勇・識見を賞賛している。
その要旨は以下の通り。
○官軍は15日に江戸城を攻撃するらしい。
○官軍は3道から、市街地を焼き、その退路を断ちながら進軍してきているらしい。
○当方の嘆願が聞き入れられず、官軍が攻め寄せて来れば、江戸は灰燼と化し、無辜の死者は百万に達するであろう。
○もし官軍がそのような暴挙に出るなら、こちらも黙ってはいない。こちらから先んじて市街を焼き、江戸を焦土と化し、進軍を妨げてみせよう。この決意を持って官軍に対応するつもりだ。百万の民を救えないなら、自らこれを殺そうと決心した。
後に『解難録』にも、同様の内容が書かれており、さらに以下のような記述もある
○これはロシアがナポレオンを苦しめた策である。
○自分の策はこれとは違う。こうすれば1日で焦土となって戦いは終わり、それによりむしろ無辜の民の死は少なくて済むであろうと思う。
○自分は火付け道具を密かに用意したが、不要となり品川の海に捨てた。そのため、後に新政府より嫌疑をかけられた。
○西郷は度量が大きく、とても自分は及ばない。西郷の仕事を手伝わされる羽目になるのもやむを得ない。
○大火が発生した場合、庶民を避難させるため船の用意をさせた。
○幸いにして、江戸攻撃は中止となり、「焦土作戦」は徒労に終わった。
(幸にして無事を保ち、此策終(つい)に徒労となる)
○「焦土作戦」を笑う者もいるし、自分も愚策とは思う。
○しかしこうして自分の精神を活発にしておかなければ、西郷との交渉を貫徹することは出来なかった。
さらに後の談話をまとめた『海舟座談』では、
大いに海舟の自慢話で誇張や冗談が入っている感はあるが以下のように書かれている
≪江戸の明け渡しの時は、スッカリ準備してあったのサ。
イヤだと言やあ、仕方がない。あっちが無辜の民を殺す前に、コチラから焼打のつもりサ。
爆裂弾でもたいそうなものだったよ。
あとで、品川沖へ棄てるのが骨サ。
治まってから、西郷と話して、「あの時は、ひどい目にあわせてやろうと思ってた」と言ったら、
西郷め、「アハハ、その手は食わんつもりでした」と言ったよ。
ナアニ、おれのほうよりか西郷はひどい目にあったよ。
勝に欺されたのだといって、ソレハソレハひどい目にあったよ。≫
結局、この作戦は確かに準備まではしたようだが
西郷に伝わって、焦土作戦が抑止力となって、
「それなら攻撃は止めよう」となった訳では無さそうだ
江戸を焦土と化すなら、庶民が大量に死に至るのは誰が考えても分かるし
船で100万近い人を房総に運べる筈もない
海舟ほどの人が、本気で実行しようとしていたとは思いがたい
抑止力を目的としたのでないとしたら
『解難録』にあるように、自らを奮い立たせる、という目的だけだったのだと思う
○「焦土作戦」を笑う者もいるし、自分も愚策とは思う。
○しかしこうして自分の精神を活発にしておかなければ、西郷との交渉を貫徹することは出来なかった。
一人の人物が、交渉によって日本全体のその後を決する
その意味と重みは気が狂いそうになるほどのものだったろう
ある意味、海舟のような性格の人物でなければ
やりこなせなかったのではないかと思う