渋谷から原宿。おしゃれで荘厳な一日

三連休の中日

昨日はなんだかだで出掛けられなかったので今日こそは。
東京の緑となるとここ2年半で随分色んなところをウォーキングした。

行っていない最後の大物
明治神宮、行くか!

待てよ
確かお隣の渋谷に例のスポットがあるじゃないか
そして、原宿には行きたかったお店。

その3つで決まり

道玄坂
渋谷駅がえらいことになっている
度重なる再開発を経ての集大成。

何がどうなってるの
地下鉄のホームに書いてある構内地図を見て、思わず吹き出した。
無理っ これ無理っ
道玄坂に行きたいだけなんですけど。

2回、案内係りの人に聞いてようやく辿り着いた。

いよいよやってまいりました。
これです。

ネットで渋谷道玄坂に特別仕様のマンホールがあると書いてあったので
ぜひ写真に納めたい。

渋谷と言えばハチ公なので
どうげんざかをDOG(犬)EN(縁)SAKA(坂)と分解。

人が並んでいるデザインに見えますよね。
まあ、そうなんですけど
写真を横にしてさっきの残りの方のデザインに注目すると、
あら不思議。犬が並んでる。

犬と人の縁って訳ですね
拍手っ。

さあここで問題です。
このいっぱいいる犬さんの中で、他と違う犬さんが2匹だけいます。
さあ、どことどーこだ
答えはこの記事の最後に書きますから
それまでに考えてね。

竹下通り
次の目的地は原宿にあるお店
途中にはあの竹下通りを通ります

ちょっとよってみるか

相変わらず、なかなか楽しみ方が分かりません。
以前、テレビで、竹下通りではインスタ映えする(写真に写して映える)新しい見た目が斬新な食べ物が受けています。
と言っていました。
クレープとアイスクリームだけじゃないのね。
ここはひとつ、おじさんも列に並んでみようかな。

ところが、そんなこと言ってたなあ、ぐらいの情報ではどこに行って良いんだか
目立って分かりやすいのはやっぱりクレープ屋さん

うーん
クレープっておそらく甘すぎて、絶対後悔するに違いないからなぁ

たこ焼き屋さんないかなぁ

と、思いつつ諦めかけた頃
東郷神社→、っていう看板

あれっ、東郷神社ってこんなところにあるんだったっけ

東郷神社
やっぱり私には、竹下通りより
神社仏閣の方が性にあっているようです。

でも、竹下通りも良かったですよ。
結局どこにも入らなかったけど
いつの時代も
着飾った若い女の子を見るのは、とても幸せな気分になれます。

さあ、東郷神社。
全く予想していなかったので、得した気分です。

言わずと知れた日露戦争の英雄、東郷平八郎を祀った神社です。
東郷平八郎展、入場無料、を社務所でやっていました。

もともと薩摩藩士だったんですね。
一通り、軍艦三笠の模型とか、写真とか服とかを見たあと
ビデオが流れていました。

おそらく、以前NHKで放送されたものだと思われます。

三つの選択
ロシアのバルチック艦隊を対馬海峡を越えたところでまちぶせして壊滅させる作戦。

以前、正岡子規のところで紹介した、秋山真之名参謀が立てた作戦です。
ところがロシア艦隊の速度から割り出して、来るはずの日に現れない。
明くる日もその明くる日も

秋山真之読み間違えたか
そこに情報がもたらされます。
対馬海峡を通ってロシアに帰るとどこかの港で言っていたと。

これは、逆におかしい。
はめようとしているのではないか。

秋山は東郷に、津軽海峡の方に移動しましょうと進言。

密封命令というのが作られみんなに配られます。
ある特定の日まで開けちゃダメ
開けたら速やかにその命令に従うべし

ところがその事を聞きつけたベテランの参謀二人が大反対。
予定が遅れ遅れで、ロシアの兵士たちは疲れきっている筈
私がロシア兵士ならここで遠回りするような作戦は絶対に取らない。
ここで待つべし

ベテランが経験に基づいた意見。
説得力があります。

さらに、第三の案
本当は二手に別れて対馬と津軽に別れれば良いだろうけど
日本側は少ないのでそれは無理だとすると
真ん中の能登半島辺りで待つべし。

軍艦三笠の艦上の会議でもめにもめます。
東郷自体、全ての案にそれぞれ意味があると随分迷います。

出した結論。
津軽へ移動。
但し、密封命令を開ける期限を一日伸ばす。

結果はそれで大当たり。
その一日の間に、対馬を通るとの確度の高い情報がもたらされ、密封命令破棄。
さらにその翌日に対馬海峡を通って来たバルチック艦隊を全艦撃破
結果、日露戦争に勝利します。

東郷展を見終わり、
見事な庭園も堪能し東郷神社をあとにしました。

風呂敷専門店
行きたかった店は、原宿にある風呂敷専門店「むす美」です。
若干迷ったあと

あったぞ
ん?
暗い。

「お盆休みをいただいています」

うひょー
世間ではお盆休みなるものがあったのか

全く想定しておりませんでした。
また日を改めて来ることにいたしましょう。

明治神宮
右上の犬は巻き尾になっていて
左下の犬は首に鎖がついています

わかったかな

八田與一。台湾に捧げた生涯

「感動する!日本史」から

八田與一
八田與一(はったよいち)は東京帝国大学を卒業後台湾総督府土木部の技師として
台湾に赴任しました。

日本は日清戦争後の講和条約で、台湾の統治を始めます。
與一が赴任したのはその16年後

台湾総督府が力を入れたのは、教育とインフラの整備

嘉南大圳
インフラの整備で象徴とされるのが、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」
嘉南地区は最も貧しい地域。
香川県ほどの広さで、台湾の14%を占める広大な土地ながら農作物が全く育たない
気候が極端なんです。

六月から九月の雨季に年間降水量の約九割が集中する
その時はどどっと雨はあるんだけど、
平坦な土地で排水も悪いので、水害に悩まされる。
それ以外の乾季はカラッカラ。
サトウキビも育たない。

よし、この地域を台湾一の穀倉地域に変えてやろう。

烏山頭(うさんとう)ダムを作り、そこからの水を嘉南地区全体に用水路を縦横無尽に張り巡らせて行き渡らせる。
気が遠くなるほどの膨大なプロジェクト。
プロジェクト全体を嘉南大圳と呼んでいます。

與一は、最初に何をしたと思います?

ダム作ったんでしょう?

いいえ、街を作った。
このプロジェクトに携わる膨大な数の人達を、家族ごと受け入れるため
家を作り、商店を作り、娯楽施設を作り、学校を作り、病院を作った。

人が好きなんですね。

でも工事は困難を極めた。
そしてあるとき
トンネル工事の中でガスの大爆発。

死者が50人を超え、けが人まで含めると100名以上
與一は全ての被害者の家庭を涙を流しながら謝って回る

でも
工事は続けさせてほしいんです。
嘉南地区にとって
台湾にとって
それでも、必要なことなんです。

何故、続けさせてもらえたんだろう
どんな大義名分言われたところで
かけがえのない家族を亡くしてしまった。

でも
目の前で、涙をいっぱい浮かべて
辛そうで、悲しそうで、悔しそうな
この男も
家族なんだと思えたら

苦難
また、どでかい苦難がやって来た。

関東大震災。

日本は、台湾総督府に予算を回せられる状況になくなった。
当面は、大幅にプロジェクトをスリム化して
回復の時を待つしかない。

現実に目の前の問題として
みんなをそのまま雇い続けていられなくなった。

一人一人がかけがえのない家族だったのに。

誰かには、ごめんなさい、と言わざるを得ない
身を切られるような人選。

取った方法は

優秀な者にやめてもらう。

彼だったら、次の就職先もすぐ見つかるだろう。

就職先探しに奔走。

日本が驚異的な回復を見せ
プロジェクト規模が戻ってきたら
再度、やめてもらったひとに声をかけ
希望者には戻ってもらっている

完成
着工から10年、昭和5(1930)年
紆余曲折を経て
ようやく、完成しました。

烏山頭ダムに二つの川から水を引き
満水になるまで
実に2ヶ月を要したそうです。

5/15日に通水式。
勢いよく水が吹き出した。

どんなに嬉しかったろう。

そして、全ての田畑に水が行き渡るのに、2日かかった
その水を見て
60万人が涙した。

ここから
実は、私が一番すごいなと感じたのは、この後です。
ここまでなら
もちろんすごいことなんだけど
ダム作った人ね、で終わっているかもしれない。

そうじゃなかった。

與一には
あらかじめ分かっていることがあった。

それでも、必要な水の量の1/3にしかならない。

農民たちにある提案をした。

嘉南地区を3つに分けようと思います。
A B C だとして
ある年はAにしか、水を流しません。
次の年は、今度はBにだけ
そしてその次の年は、Cにだけ。

ある地域には、3年に一度しか、水は流れないのです。

こうして欲しいんです。
水が流れる年には
多くの水を必要とする、稲作をする
次の年は、水をあまり必要としないサトウキビ。
その次の年は、芋や雑穀。
三年輪作と言います。

最初から全員が賛成した訳ではありません。
明らかに、稲作が収益性が高い。
でも、結局は、全農民が足並みを揃えて
このルールでスタートした。

朝5時から、夜の11時まで働き続けた
みんなのことを思い、涙を流した
そんな與一の提案だから、反対なんてできなかったんですね。

この三年輪作が根付き
7年後には米が、それ以前の11倍、サトウキビが4倍と
飛躍的に収穫量が増えている。

気持ち
ほとんど物が手に入らない極貧の時代。
貧しさから抜け出すのはみんなの夢で
それさえあれば幸せの筈。

でも

少し手に入るようになると
もっと
さらにもっと

争いが絶えなくなって
こんなことなら、何もなかったあの頃の方が・・・

與一にはそれが見えていたのかも知れない。

そして嘉南地区の人達には、宝物が手に入った
水よりも、もっと大切な、「人のことを思う気持ち」
みんなが一様に貧しさから抜け出すため
自分は1/3に押さえて
さあ、あとはどうぞ
そんなルールを守っているという、心の豊かさ。

ダム?
箱物じゃないですよ
與一は、みんなに芽生えた「心」を作った人。

最期
與一はその後も台湾に残り、
今でも、與一の命日には台湾の発展に生涯を捧げた。

最期は突然にやって来た
太平洋戦争の最中、
與一が一市民として乗っていた客船が、アメリカ軍の魚雷を受けて沈没。
帰らぬ人となった。

やがて、終戦を迎え
日本の台湾統治は終わる。

日本人は日本へと帰っていく。

でも、「帰りたくない人」がいた。
與一の妻・外代樹(とよき)

外代樹は台北の空襲がひどくなり
烏山頭に疎開していた。

いよいよ、日本へとなったとき
黒の喪服に白足袋といういでたちで
烏山頭ダムの放水口に身を投げた。

[昭和歌謡]25 ブルーライトヨコハマ

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです。

ブルーライトヨコハマ
いしだあゆみ
作詞 橋本淳 作曲 筒美京平

♪街の灯りがとてもきれいねヨコハマ
ブルーライトヨコハマ
あなたと二人 幸せよ

横浜ウォーキング
ちょっと前の話になりますが
7/15 横浜のウォーキングイベントに参加してきました。
石川町駅で集合

山手西洋館コースに行きます。
神戸では外国人館は多少行きましたが、横浜では初めて。
ワクワク

ブラフ18番館、外交官の家、ベーリックホール、エリスマン邸、山手234番館に行きました。
素晴らしいです

こんなに管理が行き届いていて、なおかつ全て無料。
横浜市はなんて太っ腹なんだ!

外交官の家でメンバーが買って、お裾分けをいただいた
バラの花びら入りキャンディ
口の中に入れるとバラの香りが口の中に広がり
スキップしちゃいそう。

それぞれの家だけじゃなく
途中の街並みもずっとヨコハマ
全体的にお洒落な雰囲気の家が「多い」街ってあるけれど
全部が全部、全ての家がヨコハマっていうのは、驚いた。

さっきからずっとヨコハマやけど
いつまでヨコハマなんやろ

港の見える丘公園
ブルーライトヨコハマは、ここから見える横浜、川崎の
美しい夜景をイメージしたものらしい。

何度も聞いたことのある「港の見える丘公園」
実際に訪れたのは初めてだった。

分かる。

何かにつけて横浜と言えば「港の見える丘公園」
ようく分かりました。
こりゃ確かに恋人同士で来た分には
愛が深まっちゃいます。

もし、いつか恋人ができたら
絶対に訪れることにしましょう。

よくもまあ、こんなに広い庭を
見事に手入れしてあって
東京だったら、わずかながらでも有料です。

外人墓地
外人墓地良かったなぁ
外人さんの墓地がいっぱいあって、ここだけ有料。
主なお墓の解説が一行ずつ書いてある地図を最初にくれるんだけど
正直これだけじゃ、良く分からない。

うちのリーダーさんが
ネットから写真つきで資料を印刷してくれていて
前もって色々調べてくれていた。
おかげてものすごく一人一人をイメージできた。

日本で初めて外国人で落語家になった人とか。

文明開花好きの私としては
陸蒸気を作ってくれた、エドモンドモレルの墓が興奮しました。

モレルって、イギリス政府からイギリス製の色んな材料をいっぱい使うように
いわば紐付きで送り込まれた。

でも、日本に来ると日本の事が大好きになっちゃって
例えば枕木なんかは、全て日本の木材を使うようにしちゃった。
イギリス政府には内緒ね。

それ以降は日本人だけでやっていけるよう
日本人技術者を育成するのに心血を注いだ

それだけ思い入れ強く作り上げた陸蒸気だったのに
開業直前に結核に侵され、死んじゃうんですよね
お祭り騒ぎ、本来の主役はモレルだったのに。

多かったのがお墓に 1 September と書いてあるもの
1923(大正12)年9月1日の関東大震災で外国人居留地にも甚大な被害を及ぼす。

一番最後言葉に詰まったのは、太平洋戦争での死者の慰霊碑
大きな石に、多くの外国人の名前が刻まれていた。

外国人居留地までも空襲を受けたのか、と思ったら、そうじゃなかった。

日本軍に外国人でありながら所属し
アメリカと戦って、戦死した人たち。

逆はテレビで見た事があった。
開戦時に、アメリカに移住していた日系人が
スパイ疑惑を晴らすため、自ら志願して
アメリカ軍の兵士として、祖国日本に攻め入った
戦争が起こした悲劇。

まさか、逆があるとは思っても見なかった。
合理主義の筈の彼ら
2~3人というレベルではなかった。
何十人というレベル。

中華街
お昼は中華街。
テーブルが回った本格的な中華料理店。
中華街に、本格的でない中華料理店はないと思うけど。

お冷のコップを手で送ってくれようとするから
ねえ、せっかくテーブルが回るんだから
ここに乗せようよぅ

山下公園から
午後は海。
山下公園からずーっと、海沿いを歩いて、桜木町まで

海、また海。

赤レンガ倉庫
コスモクロック21(大観覧車)
ランドマークタワー
日本丸

よく歩きました

♪歩いても 歩いても 小舟のように

今回の動画は、その時の写真のスライドショーにしました。

[百人一首]66 もろともに~

もろともに あはれと思へ 山桜
花よりほかに 知る人もなし

山桜よ、私とともにおたがいを懐かしく思いあってくれ。
お前以外に気持ちをわかってくれる人はいないんだ。

行尊
行尊(ぎょうそん)は
修験道の聖地·大峰山で苦行した孤高の高僧

三条天皇の皇子·小一条院敦明親王(こいちじょういんあつあきらしんのう)
その息子が源基平(みなもとのもとひら)
そしてその息子が行尊。
つまり彼は、三条天皇のひ孫ということ。

父と十歳で死に別れ、十二歳で近江の園城寺に入り、出家する。
十七歳まで寺で修行。
その後修験道(しゅげんどう)を志して諸国を回った。

修験道とは、山中で荒行につぐ荒行を重ね、
体得した呪力によって、加持祈禱(かじきとう)を行なうというもの
仏教伝来以前からある、山岳信仰と、密教、陰陽道が合わさり
最高難度にハードな宗教として形作られた

行尊は、修験道の聖地とされる大峰山で苦行を重ねた。
今でも、大峰山は女人禁制。

後に、白河、鳥羽、崇徳三帝の護持僧(ごじそう=加持祈禱を行う僧)となる
さらに、比叡山延暦寺の座主、大僧正となっている。

鑑賞
行尊が大峰山の苦行の途中に山中にひっそりと咲く、山桜と出会う。

詞書きに「おもひもかけず」とあるので
花をめでるどころではない、研ぎ澄まされた精神状態で
おそらくそれまでも咲いていたであろう桜が
視界に、そして意識の中にズドーンと現れたのだろう。

お前は、ずっとそこで見ていたのか
お前には、家族はいるのか
友はいるのか
愛する人はいるのか

そうか

ならば、私と同じだ。

全てを捨てて、ここにやってきた。
でもやはりこびりついている私の中の全てを
さらに捨てようとしている

お前はどうなんだろう

そこで見ていてくれまいか
何かを与えてくれる必要はない

お前はお前でそこで咲いていればいい
見ていてくれれば良い

花よりほかに、知る人もなし。