[ことば日本史] 敵は本能寺にあり

ことば日本史、戦国時代から

超有名な慣用句
表面上は別の目的を掲げながら、
実際には別の狙いがあることを意味します

敵は本能寺にあり
天正10年(1582)5月29日、信長は近臣を伴って上洛し、
京都四条西洞院にある本能寺に入った。
このとき信長は、将軍か太政大臣に任じようという朝廷の意向に対して、回答する予定だった。

その頃、羽柴(豊臣)秀吉は、備中高松城を攻めていたが、苦戦し、
織田軍と毛利軍との全面対決へ向かう情勢となったので、
信長は、まず堀秀政を派遣、さらに明智光秀に出陣を命じた。

出陣を命じられた光秀は、二十六日に近江坂本城を発って丹波亀山に帰り、
愛宕山に参籠し、連歌を興行して「時は今あめが下しる五月哉」という発句を詠んだ。

6月1日夜十時頃、一万三千の軍を率いて、光秀は出陣した。

丹波から老坂にいたり西国街道へ出て、右へ行けば命令通り戦地へ向かうことになるが、
左へ行くなら京へ戻ることになる。

光秀は、馬首を左へ向けて走らせ、桂川を渡ると鞭をあげて東をさして叫んだ。

「敵は本能寺にあり」

このセリフは、文政9年(1826)に頼山陽によって書きあげられた『日本外史』(巻一四)に記されたのが最初だというから、
そのときドラマチックな場面として描かれて、
作られたセリフだったのだろう。

実際には、信頼するごく一部の老臣にのみ本意を告げ、
それ以外の者にはギリギリまで目的を伏せており、
知らなかった者たちは、たぶん徳川家康を討つのだろうなどと思いながら、
したがっていたという。

光秀軍は、二日の黎明、本能寺を囲んだ。

信長は、その前日の夜、茶会、囲碁で過ごし、
深夜になってから眠りについていた。
寺には、少数の近臣以外、ほとんど人がいなかった。

突然の銃声。
襲撃を知った信長は槍をとって森蘭丸たち近臣とともに奮戦するも、
多勢に無勢。
ついに火を放って、炎に囲まれながら自殺した。

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[ことば日本史] 人生五十年

ことば日本史、戦国時代から

桶狭間の戦い
突然の激しいにわか雨が、織田信長の味方をした。
桶狭間山で休息をとっている今川義元軍に察せられることなく、
彼らを見下ろせる尾根にたどりつくことができたのだ。

信長軍は一気に義元の本陣を急襲した。

義元に槍を突きつける服部小平太。
義元は、刀で膝を切り払うが、毛利新介(秀高)に後ろからくみつかれ、首を取られた。

永禄3年(1560)年5月19日の、史上に名高い桶狭間の奇襲である。

今川氏は、当時の最大の戦国大名。
すでに三河を掌握し、武田氏や後北条氏と和解の態勢を作って、
信長がほぼ支配するようになっていた尾張への侵入をはかっていた。

このとき義元の軍勢は二万ほどであったとみられ、対して信長軍は数千人。
どちらも確かな数はわからないが、大きな差があったことは確かだ。

この圧倒的な大軍に対して、
籠城すべきだという意見が強かったところを、
信長は断固として野戦で挑むことを決した。
敵勢を分散させておき、
19日の未明、信長はわずかな手兵を率いて出陣、
山道をひそかに迂回して、義元の本陣へと迫る。

そして風雨に乗じて本陣の横手の高所から一気に襲って、
奇襲を成功させたのである。

この出陣の前夜、信長は、幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」を舞った。

その一節が今なお有名な次のくだりだ。

人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちをくらぶれば、夢まぼろしの如くなり。
一度生を受け、滅せぬもののあるべきか。

諸行無常を謡う信長の声を聞いて、
将兵たちはそれぞれの胸に覚悟を深めたという。

この逸話にちなんで、
命がけの行為にのぞむとき、
失敗覚悟の困難に立ち向かうとき、
「人生五十年」とつぶやき、その短さ、はかなさを思って覚悟を決める。

その50年、とおに過ぎちゃった
私はいつも、人生の中で今が一番楽しいと思いつつ生きてこれたので
いつ死んでも良い

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[ことば日本史] 下手な鉄砲も数打ちゃ当たる

「ことば日本史」戦国時代から

下手な鉄砲も数打ちゃ当たる
前回、鉄砲伝来の時の話をしました
[ことば日本史] 火蓋を切る

当然ながら、これも鉄砲の伝来後に生まれたことわざになる。
種子島に伝わったのは、マラッカ型の瞬発式点火機構をもった火縄銃だった。

鉄砲には、火縄銃のほかにも、機構のちがうタイプのものが複数あったが、
日本人は火縄銃を好んで、寛永年間(1624~44)に燧石銃(ひうちいし)が伝えられても、興味さえ引かなかったという。
それは発射時の衝撃のため命中率が落ちるからだった。
各種の銃は、それぞれに一長一短あったが、日本人はなにより命中率を最優先した。

それは日本の複雑な地形での合戦に向いていたからだという。
実戦のほとんどない江戸時代には、
火縄銃の発射までの手順に要する間が、
ちょうどいい感じだなんて思われていたかも。

命中率を最優先した中で「下手な鉄砲も数撃ちゃあたる」なんて、
すごくバカにしてる言葉だったのだろう。

ただ、私はこのことわざを自分で使うときのニュアンスが好きです
「下手な鉄砲も数打ちゃ当たるってね」
自分を謙遜しつつも、諦めないぞ!って挑戦し続ける意欲
よーし、また明日から頑張るぞ

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[ことば日本史] 火蓋を切る

ことば日本史、戦国時代から

火蓋を切る
天文12年(1543)8月23日、
その前夜からの台風でボロボロになった一隻の帆船が、種子島(たねがしま)に漂着した。
ポルトガル人商人を乗せた明の船だった。
修理のために受け入れてくれる港を求めて北上してきたという。

船は、前之浜から領主のいる赤尾木の津へと曳航され、そこで修理することになった。
修理する間、乗員百数十名は、慈遠寺に宿泊した

その時、種子島の島主は、16歳の種子島時尭(ときたか)

先代の恵時(しげとき)は屋久島と種子島の二つの島を持っていたのだが
争いに敗れ、屋久島を手放して引退することで許された

時尭が新しく島主になった5ヶ月後に船が漂着してきた

時尭はポルトガル人の持ち物に感心を持った

それ何?見せて見せて

火縄銃だった

これはすごいもんだな
時尭自身が、撃ち方を教えてもらって練習

これさえあれば、屋久島を取り戻せる

すぐに、同じものを作れと命じた

命じられた家臣たちは、寝る間も惜しんで試行錯誤
ポルトガル人がいる間に何とか作らねばと
色々質問しながら頑張った

見事、6ヶ月後には完成

以後(15)よさん(43)か鉄砲伝来

恩を感じたポルトガル人
帰国後、鍛冶屋を連れて再び訪れ、さらに細かい技術を伝授した

鉄砲のおかげで、屋久島を取り返す事ができた

その後、鉄砲の製法は、堺の商人、橘屋又三郎が種子島で学んだ後、
堺に伝えて、そこから各地に広まっていった。

火蓋

火縄銃の、火皿をおおう蓋が「火蓋」である。

火縄銃は、次のような手順で発射した。

1.銃口から、規定量の黒色火薬と鉛弾とを入れて、込矢で突き固める。
2.火蓋を開き、点火薬を火皿に注ぎ、火蓋を閉める。
3.火挟の竜頭に火縄をつける。
(ここまでが準備である。次にいよいよ射撃にあたっての操作。)
4 左手に銃床を支え、火蓋を開ける。このことを「火蓋を切る」という。
5.銃尾を右手に握って照準を定める。
6.引き金を引く。

これで、火縄の火が火皿に入って点火薬を発火させ、
薬室内の装薬に引火して爆発、弾丸が発射される。

次の弾を撃つには、1から繰り返さねばならない。

この一連の操作のうち、いよいよ撃つぞというときにするのが「火蓋を切る」
そのことから、戦闘開始の意味にもなったわけだ。

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