なんで色んなひらがなが?

前回、江戸かなのお話をしました。

この事、私の中ではものすごくエキサイティングで興奮しまくりました。

勘違い
最初大きく勘違いしていたんです。

今と同じひらがなは使われておらず
江戸時代は、江戸かなばっかりだと思った。

なんで、今のひらがなと違うんだろう

教科書の嘘つき!
元の漢字から、だんだん崩し字になってひらがなになったなんて
途中、違う字になってるじゃない。
字母が違うひらがなからころっと、違う字に変わったの?

随分いっぱいネットで調べてやっとそうじゃない事が分かったんだけどね。

今と同じひらがなもほぼ存在していて、第2バージョン第3バージョンのひらがなとして
前回お話しした江戸かなは存在していた。

一つの「い」なら「い」に対して複数のひらがなが存在していたということ

色々調べた結果を今から丁寧に話していきますね。

統一
明治33年
小学校令

この時に完全に今と同じひらがなになります。

そして、決まる
ひとつのかなには、ひとつのひらがなしか使っちゃいけません。

もうちょっと時代を遡ってみましょう

明治元年です。
小学校の教科書

そうなんです。
明治33年に変わったのは3つだけ
え、お、ゆ
それ以外は今と一緒なんです。

さらにさらに

嘉永3年1830年の消息往来

え、お、そ以外は今と一緒。

実は、明治元年の教科書はひらがな一つずつだけど
複数のひらがなを教えている資料も存在する。

でも、標準がこれという認識はある

今の標準語と方言のように
字についても標準はこれ
だけどそれ以外もOK

標準自体が明治33年に変わったのは、さっき言った3~4個だけ

変体かな
明治33年に標準タイプとそれ以外を区別するための言葉として
標準タイプを「現用字体」それ以外を「変体かな」と呼ぶようになります。

へんたーい止まれ イチニッ

前回の江戸かなという言い方は、本の著者の命名ですので
変体かなという呼び方が一般的だと思います。

なんで一つずつに統一しようとしたかというと、
明治20年くらいから一般的になってきた印刷という技術が大きく絡んでいます。
ひらがなの形が決まっていないと印刷するときにややこしくて仕方ない。

さらに、補足の話でいくと、現在はひらがなにはコンピュータで処理できるよう
シフトJISというコードが割り当てられています。
変体かなにはコードは割り当てられていません。
従って、入力することも出力(画面にも紙にも)する事も出来ない
文字ではなく、絵としてしか処理出来ない

科学に文化が駆逐された例ですね。

なぜ?
統一しようとした理由と背景は分かりました。

では、逆の方の理由は何なんでしょう。
なぜ、それまで、ひらがなは複数のバージョンが出来たのか。

まず、非常に消極的な理由というか背景としては
統一しようとしなかったから

特に江戸時代の特色ですが
天下統一と言っておきながら
実はごくごく小さな政府。
各藩の連合体のようなもの
また、ルールで縛って庶民を統制しようというつもりが幕府には極めて薄い
庶民はかなり自主的に運営している

でも、だからといってひとつのひらがなに対して複数バージョン使うような事をするだろうか

現代に生きている我々だから思うのかもしれないけど
そんなめんどくさいことするだろうか

例えば、人によってとか、身分によってとか、職業によってとか、地域によって
使うひらがなが違うと言うんだったら
統制できなかったんだなという話です。
先程言った、方言に近い感覚

でも違うんです。
一人の人がひとつの文章の中で複数使っている
例えば前回あげた例の中で言うと、はいかいし。上のいは標準のい、下のいは変体かなのい

不思議だ

大まかな傾向的なものはあるようです。
濁点のつく場合はこちらが選ばれやすいとか
言葉の最初はこっちの方が多いとか

でも基準と呼べるようなものはない
ランダムに
一つの文章の中で、複数種類使われている。

増えた
もっと面白いなあと思ったのが、増えた、という事

文字が出来るごくごく過渡期だったら話は分かりますよね
でも違うんです。

この辺、片仮名と違う経緯を辿るんですが
片仮名の場合は、かなり早い段階で統一されちゃいます。
複数でぶれたのは二つくらい。

でも、ひらがなは
片仮名同様、ほぼ統一しかかるんです。

でも、そこから逆に増えていく。
は?
ですよね

おう、なんたるちあ

識字率
日本の江戸時代の国民の識字率はなんと85%

世界中の当時の大都市の識字率よりも一番高い
すごいことです。

世界的に言うと識字率競争では一番不利な筈
漢字とひらがなとカタカナ
それだけでも大変なのにすごいなぁと思っていた。

でも今回分かった、ひらがなだけでも複数覚えていたというこの事実。
どういう国民や

理由
ここからは、完全に私見です。

二つの理由しかないんじゃないか
いずれか、ないしはいずれも。

1.楽しい。

色んな文字を使った方がワクワクしてエキサイティング
さっきこっち使ったから、今度は違うの使ってみようかな。

あるいは飽きる。

晩御飯見て
ええっ、今日はカレーなの?
お昼カレー食べたのに、みたいな。

となると、
子供たちが、寺子屋(手習い)で複数のひらがなを覚えさせられて大変と考えるのは
我々の感覚で
実は、
色んな文字を使い分け出来る方が楽しいよね
統一? 何言ってんの
楽しみを奪わないでくれる?

2.美しい

世界的に見ると
文字ってある言葉を伝えるための道具かもしれないけど

中国や日本のように、毛筆文化の場合は
文字自体が美術。

複数使えないと美しくないのかも。

流れるようにさらさらと美しく書くためには
ここでは右上から書き出したいのよね、みたいな

習字、特に草書が全く分からないので、推測の域を出ないんだけど

当時は今とは逆で
庶民は楷書は無理で、草書しか書けなかったらしい

バランス上、この辺では、ごちゃごちゃっとしたかなでインパクトが欲しいけど
この辺はあっさりしたいとか

今って、「イケメン」のように若者がどんどん言葉を産み出して
文化を形成していっているけど
ひょっとすると、昔は
言葉を産み出す事にくわえて
ひらがなすら作り出して若者が文化を引っ張っていったのかも。
ほら、今流行りの す を使ってみたよ
おう、ビューティフル!

当時の人から言わせると
効率?
何ですかそれ
楽しくて美しいより、大事な事なんですか

我々はひらがなを作り出すという自由と楽しみを奪われちゃっているのかなぁ。

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