[名僧]金地院崇伝。武家諸法度を作った副総理

名僧シリーズ
出ました、超大物
江戸時代のお坊さんと言えば、天海と並ぶビッグ2

天海は、家光にも慕われということがありますが
やったこと、でいうと政治的に大活躍した金地院崇伝(こんちいんすうでん)が断トツ

金地院崇伝
1569~1633年 臨済宗

南禅寺金地院に住んでいたので、金地院崇伝(こんちいんすうでん)と言われますが
以心崇伝がより正しい。
このあとは、崇伝と呼ぶことにしましょう

崇伝は足利一族で、その中でも超エリートの家柄
お父さんも将軍足利義輝のもとで働きますが、残念
崇伝が4歳のとき、室町幕府が滅び、足利義輝も亡くなってしまいます。

そういうときは出家です。
崇伝はよほど頭が良かったのでしょう
めきめき頭角を表し、どんどん出世

建長寺の住職になりました。
この前、建長寺行った時、その認識がなかったなあ
ああ悔しい
鎌倉の五山第一
建長寺に行ったときの様子はこちら

それだけでもすごいのに
そのもうひとつ上、臨済宗のトップ、京都の五山第一、南禅寺の住職になっちゃいました。

それまでで良さそうなもんですが
さらにそこから、崇伝の大活躍が始まります。

そんな、仏教界の一番のお偉いさんを呼びつけたのが徳川家康
さすがです
天下人しか、そんな恐れ多いことできません。

書き物を頼むわ

もちろん、一番のお偉いさんに書かせる書き物ですから
とても重要な書類

諸外国との交渉のための
教養のにじみ出るような文章で相手より精神的に優位に立とうという作戦

作っときましたけど

ありがとう
じゃあ、それもって、外国回り、交渉してきてもらって良い?

えっ私がですか?

よろしくね。助かるわぁ

朝鮮、中国はもちろんのこと
ベトナムやタイも巡ります
西洋諸国は、行きはしませんでしたが、要人と会って交渉

もともと切れ者でしたが、諸国へ行っての経験は
考え方に大きく深みを持たせ
もう国内に比べる者がなくなりました。

ただいま

おお、待ってたよ
聞いてるよ、そなたの働き。さすが思っていた通りだ
ところで、早速で悪いんだけど
また頼みたいことがあってね

もうこうなったら乗りかかった船
何なりと

国を作りたいんじゃ
長く長く続く、平和な国
みんな一人一人の笑顔がずっと続く国じゃ
相談相手になって欲しい

初めて有ったときから分かっていました
あなたはそういうお人じゃ
さあ、何から手を付けますかな

二人で激論を交わし
崇伝が文書にまとめあげて
形として仕組みにする

出来上がったのが
「武家諸法度(ぶけしょはっと)」「禁中並びに公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」「寺院法度」
法度三部作

武家諸法度は将軍の代が変わる度に作り替えられますが
基本線は、崇伝の作ったものと変わっていません。

一国一城令のように、戦国時代に戻ってしまわないような事を仕組みにした

ところで、武家諸法度と言えば思い出すのが、ボールペンの試し書き
以前、大好きなTBSラジオ、安住紳一郎の日曜天国に出ていた「ボールペンの試し書きフェチ」
文房具屋さんのボールペンがいっぱい売っている売り場に必ず置いてあるのが白い紙
書き味を試すために、くりくりくりっとただ線を書くだけの人もいれば
自分の名前や住所の一部等、良く書くであろう文字を書く人も
「永」という字も定番
そんな試し書きに何が書いてあるのか見て回るのが三度の飯より好きという変人さん。
訳分かりませんが、何となく自分と似たような血が流れている気がして、愛着が沸きます。
ベストテンには入らないものの、意外に多い言葉が「武家諸法度」だと言うのです。
大笑いしました。
試し書きの紙に、武家諸法度と、どーんと書かれていればインパクト強いです

禁中並びに公家諸法度は、朝廷や公家さんを規定したもの
これはものすごく大きな意味を持ちます。

日本って面白い国だなあと思うんですが
太古の昔から、政権を色んな身分の人が取り変わってとっていった
なのに、将軍になったりはしても
天皇に自分がなっちゃおうという人はいなかった
敢えて言うと、道鏡くらいかな

家康も本気で自分が天皇になります、と言えばなれないことはなかったと思うが
そうはしなかった。
藤原氏も平家も源頼朝も足利尊氏も

将軍って、天皇に任命された征夷大将軍です
なのに
それは崩していないはずなのに
天皇や公家は、何をするにも将軍にお伺いを立てて、
許可をもらわないといけないと「決めた」
初めての文書です。

キリスト教禁教令
家康は最初キリスト教に寛容でした
それが、いくつかの事件で心変わりした

キリスト教を制限する方向で行きたいんだが

仏教の親玉にそんなこと相談してはいけません

書き上げるのは一日だけ
翌日崇伝は、キリスト教禁教令を作って持ってきました。

おかげでキリスト教の人たちは大変な事になるわけですが。

ライバル
家康にして崇伝あり
家康の頭脳であり
今で言えば、副総理というところでしょうか

ずっとそのままで行くと思われました。

でも、途中から、何だか気にさわる人物が。
天海です。

先程話した、天皇との関係を仕組みにするため
紫衣(しえ)というものも規定します。
紫衣とは、仏教各宗派の頂点となる本山の住職に与えられるもの
それを認めるのは天皇の専任事項でした。
認めてもらうため天皇へ、袖の下のようなものが渡され
重要な資金源になっていました。

恣意的な任命を禁止
基準を明確にしました。
天皇としては、基準なんて決めてもらったら営業妨害も甚だしい。

基準を無視して、天皇が勝手に紫衣を与えたのが紫衣事件
もらったのは沢庵和尚

詳しくは沢庵和尚の時に書きますね

ここは、見せしめの為にも島流し
ところが、天海がしゃしゃりでて
まあまあ、そんな目くじら立てなさんな

そして、天海との立場が決定的になったのが、権現と明神で権現の勝ち
詳しくは、天海を読んでね

どうしても、この時の負け、の印象が強いもので
天海一番、崇伝二番的にイメージしがちですが
崇伝のやったことは
江戸時代に260年の平和をもたらした、大きな大きな業績でしょう

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

シュリーマンが遭遇した人物は?(含、ダイヤモンド富士)

「徳川将軍家の演出力」の第二弾です

シュリーマン
トロイア遺跡の発掘で有名なハインリッヒ・シュリーマン
欧米で様々な事業で大金持ちになります。
42歳で商売から身を引き、幼い時からの夢であった、トロイア遺跡の発掘に取り組みます。
その直前、1年以上の長きに渡って世界一周の旅に出ます。

その中で、なんと日本にも寄っているんですね
時代は幕末真っ只中、慶応元(1865)年ですから明治維新の3年前

えっ
この本を読んでびっくり
少し前に受けた江戸検定に問題として出たんですよね
正解しましたよ。

では、クイズに致しましょう

【問】
慶応元年、のちにトロイア遺跡の発見者となる考古学者シュリーマンが来日し
ました。到着早々シュリーマンは東海道を進むある人物の行列を目撃し、「堂々
とした美しい顔は少し浅黒い」とその容貌を旅行記に記録しています。その人
物とは誰でしょう?
い)生麦事件直前、品川宿を通過する「島津久光」
ろ)長州再征のため上洛する途中の「14代将軍徳川家茂」
は)江戸に向けて進軍する「東征大総督·有栖川宮嬢仁親王」
に)京都で逮捕され、江戸に護送される途中の「大盗賊日本左衛門」

答えの前に別の話題を割り込み

ダイヤモンド富士
ダイヤモンド富士を追いかけて
でお話しし
5000円の電池も買って、気合いが入っておりました、ダイヤモンド富士の撮影
チャンスは昨日と今日の二日間のみでしたが
残念無念
同じ場所の同じ時間での撮影はこんな感じ

お日様ぁ
どこにおいでなのでしょう

来年頑張ることに致しましょう。

良かった良かった。
こんな予感がしたんですよ。
先週「ちょっとずれてるけどダイヤモンド富士」を撮影しておいて良かった
うん、私は賢い。

ということで、答に参りましょう

【答】
ろ)長州再征のため上洛する途中の「14代将軍徳川家茂」

簡単でしたね
「徳川将軍家の演出力」って最初に言ってますから将軍です。

決め手は慶応元年
生麦事件はもうちょっと前の文久2年だし
江戸に向けて進軍する有栖川宮嬢仁親王は、慶応4年

大盗賊日本左衛門が堂々とした美しい顔の筈ないですしね

陸路での上洛は莫大な費用がかかるし時間もかかる
軍艦での上洛も計画されましたが
外国船の良い標的になるだろうとのことで敢えて陸路

前回、将軍の権威付けのため、将軍の顔は滅多なことでは見られなくする
茶壺に追われてトッピンシャン
政策だとお話ししました。

激動の幕末の状況は、敢えて逆の戦略に出ました。
大行列で、東海道を進んで権威を見せつけると同時に、将軍も馬上に乗り顔を見せる
パレード政策です。

この前の即位パレードもそうしてくれていればもうちょっと見やすかったのに。

一般庶民に対しては、家の中でじっとしているようにとお触れは出たようですが
幕末ともなれば、庶民もそんなお触れを守ろうとも思っておらず
もうお祭り騒ぎです。
江戸の木綿問屋の鹿島萬兵衛は、当時の様子を日記に書いていますが
赤坂御門の目と鼻の先の青山で、目撃しています。
土下座も立ったままでみんな見ていたようです。

尾張藩の武士すらこぞって見学に行ったという記録が残っています。
御三家ですら、その時まで、将軍の顔を知っている人はほとんどいなかったのです。

すでにこの時、修好通商条約は締結されており、外国人は横浜の居留地にいます。
外国人としても、将軍の顔を見たい
とは言え、先ほど書きましたように生麦事件の後です。
二度とそんな大トラブルを起こしたくありません。

横浜の居留地からは出ないで下さいよ

ちょっとちょっとそんな殺生な。
プリーズショーミー

交渉が重ねられ、英語でまくしたてられると、やっぱり外人さんにはかないません。

ちょっとだけね

まあ、宣伝にもなりましょう

横浜から4マイル(6.4km)も離れた保土ヶ谷に特別拝観場所が設けられました。
シュリーマンは、横浜にできた日本初のホテルに滞在中、その報せを聞き
こりゃ面白そうと、保土ヶ谷に向かった訳です。
オー、ファンタスティック

幕府は、どうせならうまく利用しようと
「外人さんも大喜び、将軍大行列」をわざわざ錦絵として書かせています。
それがこちら

先ほどの、江戸検定の問題にはひっかけが含まれています。
「顔は少し浅黒い」というところです。

後にシュリーマン自身が書いた「日本中国旅行記」の中の表現なんですが
家茂はとても色白なんです。
徳川将軍ファンの中ではかなりの常識

いかに白人さんたちが、そんなレベルじゃなく真っ白かって事ですね。

[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

江戸検定1級ノート

P50

【江戸の元号】
■1家康、2秀忠
①慶長けいちょう
(1596.10.27~1615.7.12)
②元和げんな
(1615.7.13~1624.2.29)
■警視庁で現ナマ
警視庁(慶長)で現ナマ(元和)[は、あかんえい]
◆関連ワード 慶長小判

■3家光:松平信綱
➂寛永かんえい 甲子改元
(1624.2.30~1644.12.15)
④正保しょうほう 後光明天皇代始改元
(1644.12.16~1648.2.14)
■ひかるカエルしょほしょほ
◆関連ワード 寛永通宝、寛永寺

■4家綱:酒井忠清、保科正之
⑤慶安けいあん
(1648.2.15~1652.9.17)
⑥承応じょうおう 家綱就任改元
(1652.9.18~1655.4.12)
⑦明暦めいれき 後西天皇代始改元
(1655.4.13~1658.7.22)
⑧万治まんじ 明暦の大火、災害改元
(1658.7.23~1661.4.24)
⑨寛文かんぶん 災害改元
(1661.4.25~1673.9.20)
⑩延宝えんぽう 災害改元
(1673.9.21~1681.9.28)
■ケアンズの女王命令したってマジ卍?漢文遠方
◆関連ワード 慶安事件、明暦の大火(1657)色んな物が粉になる、寛文印知

■5綱吉:柳沢吉保
⑪天和てんな 辛酉改元
(1681.9.29~1684.2.20)
⑫貞享じょうきょう 甲子改元
(1684.2.21~1688.9.29)
⑬元禄げんろく 東山天皇代始改元
(1688.9.30~1704.3.12)
⑭宝永ほうえい 元禄大地震、災害改元
(1704.3.13~1711.4.24)
■いろは店内の状況、げろっぱ吠える犬[いない1711正徳]
◆関連ワード 天和の治、貞享暦、元禄文化、元禄金銀

■6家宣、7家継:間部詮房、新井白石
⑮正徳しょうとく 中御門天皇代始改元
(1711.4.25~1716.6.21)
■正徳の治
◆関連ワード 正徳の治、正徳金銀

■8吉宗:大岡越前
⑯享保きょうほう 吉宗就任改元
(1716.6.22~1736.4.27)
⑰元文げんぶん 桜町天皇代始改元
(1736.4.28~1741.2.26)
⑱寛保かんぽう 辛酉改元
(1741.2.27~1744.2.20)
■七色(716)の競歩で、がぶ(元文)飲み梨(74)漢方の
◆関連ワード 享保の改革。三大改革。今日(享保)完成(寛政)した店舗(天保)
 
■9家重:大岡忠光
⑲延享えんきょう 甲子改元
(1744.2.21~1748.7.11)
⑳寛延かんえん 桃園天皇代始改元
(1748.7.121~1751.10.26)
■影響(延享)でC型肝炎(寛延)治るっぱ

■10家治:田沼意次
㉑宝暦ほうれき 京都の大地震、災害改元
(1751.10.27~1764.6.1)
㉒明和めいわ 後桜町天皇代始改元
(1764.6.2~1772.11.15)
㉓安永あんえい 明和の大火、災害改元
(1772.11.16~1781.4.1)
㉔天明てんめい 光格天皇代始改元
(1781.4.2~1789.1.24)
■宝暦暦失敗で迷惑安永、てめえっ(178)稲葉の大飢饉完成
◆関連ワード 宝暦暦、宝暦治水、宝暦事件、
明和の大火(明和9年でめいわく)明和の三美人(笠森お仙、蔦屋およし、柳屋お藤。)、明和事件
天明の大飢饉、天明の打ち壊し
 
■11家斉:松平定信
㉕寛政かんせい 京都の大火事の災害改元
(1789.1.25~1801.2.4)
㉖享和きょうわ 辛酉改元
(1801.2.5~1804.2.10)
㉗文化ぶんか 甲子改元
(1804.2.11~1818.4.21)
㉘文政ぶんせい 仁孝天皇代始改元
(1818.4.22~1830.12.9)
■飛躍(789)的に完成したパーマ(80)、今日はブンブン
◆関連ワード 寛政の改革、寛政の三博士(尾藤二洲、柴野栗山、岡田寒泉)寛政異学の禁
 文化文政時代

■12家慶:水野忠邦
㉙天保てんぽう 災害改元
(1830.12.10~1844.12.1)
㉚弘化こうか 災害改元
(1844.12.2~1848.2.27)
㉛嘉永かえい 孝明天皇代始改元
(1848.2.28~1854.11.26)
■嫌味(183)なテンポはこうか?ええ
◆関連ワード 天保の改革、天保の飢饉、[ペリー来航]嘉永6(1853)いやあ降参

■13家定:井伊直弼
㉜安政あんせい 災害改元
(1854.11.27~1860.3.17)
■家定病気で安静に
◆関連ワード 安政の大獄、安政の大地震

■14家茂
㉝万延まんえん 災害改元
(1860.3.18~1861.2.18)
㉞文久ぶんきゅう 辛酉改元
(1861.2.19~1864.2.19)
㉟元治げんじ 甲子改元
(1864.2.20~1865.4.6)
■かっけ(家茂)蔓延、病む(86)文久源氏KO

■15慶喜
㊱慶応けいおう 災害改元
(1865.4.7~1868.9.7)

■辛酉改元
168 天和 174 寛保 180 享和 186 文久
いろは(168)店内の状況げろっぱ 梨(74)漢方の影響(延享)でC型肝炎(寛延)治るっぱ パーマ(80)屋享和ブンブン 病む文久

【干支】
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸(コウ・オツ・ヘイ・テイ・ボ・キ・コウ・シン・ジン・キ)(漢字までちゃんと)
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥(シ・チュウ・イン・ボウ・シン・シ・ゴ・ビ・シン・ユウ・ジュツ・ガイ)(漢字までちゃんと)
干支はここにもあそこにも

■幕領
享保450万石(天保期は420万石)全国3000万石
幕領がない国。筑後・大隅・薩摩・壱岐・対馬、四国の土佐・阿波、中国の因幡・伯耆・出雲・周防・長門・備前、北陸の若狭・越中、東海の伊賀・志摩・尾張、南海の紀伊・淡路
勘定奉行支配下の、代官、郡代が支配
京都、大阪、駿府には所司代、城代定番と町奉行

■裁判
民事が出入筋、刑事が吟味筋、和解は内済
鎖国は、ドイツ人ケンペルの日本誌を志筑忠雄が鎖国論、享和元年(1801)
朝鮮琉球は通信の国、オランダ清は通商の国
金1両で銀60匁、銭6貫文
後藤庄三郎
銭座は最初江戸と近江坂本の二ヶ所、翌年には仙台から豊後竹田まで8箇所
明和9年(1772)南鐐二朱銀
藩札は244藩

■刻印石

大奥役職
大奥の部屋
幕領が無かった国
■譜代大名の出世
奏者番→寺社奉行→若年寄・大阪所司代→京都所司代→老中
奏者番→将軍への謁見や進物等の披露→20~30人。4人は寺社奉行を兼ねる。大目付、目付とともに三役
寺社奉行→陰陽師、連歌師、碁将棋之者を支配。関八州以外の吟味筋
大老→[家光]土井利勝、酒井忠勝、[家綱]酒井忠清、[綱吉]堀田正俊(稲葉正休に殺害される)、井伊直弼まで井伊5人、酒井忠績(ただしげ)。大老格で柳沢吉保。
老中→四つ(10)八つ(2)で御用部屋。大久保、酒井、阿部、本多、水野、堀田、大河内大給の両松平。
(水掘ったまっ平ら大酒あんぽんたん)
12万石以下の譜代大名の城主
 川越、忍(おし)、岩槻、佐倉、古賀。
奉行→町、勘定、旗、作事、普請、鑓、
遠国奉行(伏見、山田、長崎、浦賀、日光、境、奈良、佐渡、新潟、羽田)
寛文印知で10万石以上で侍従以上は領知判物(花王あり)
それ以下で1万以上は領知朱印状

■財政
享保で年貢6割、天保で4割

■旗本、御家人の役職→石高も


■旗本、御家人の内職

■武家諸法度
最初は秀忠の慶長令慶長20(1615)年。金地院崇伝起草。同年、一国一城令
寛永令でほぼ固まる。500石以上の大型船建造禁止。参勤交代
寛文令で殉職の禁止
天和令で完成。以降全て天和令を踏襲(例外は正徳令[和文])

■改易
松平忠輝(家康の子、60万石、不行跡)
松平忠直(結城秀康の子、67万石、乱行)
徳川忠長(秀忠の弟、50万石、不行跡)

■参勤交代
弟正高を差し出した藤堂高虎
母芳春院(まつ)を差し出した前田利長
三男忠利を差し出した細川忠興

1年交代。表、子から。裏、丑から。7割。3456月交代など5パターン
約1割。半年交代31家。8~2の6ヵ月と、12~8の8ヵ月。主に関東
長崎警固役の福岡藩、佐賀藩、平戸藩、大村藩、五島藩は11から2の三月だけ
対馬藩は3年1勤の4ヵ月。松前藩は6年1勤。
定府31藩。水戸、大藩の支藩。在職中(老中、若年寄、寺社奉行)
11月か2月に参勤伺いで署名入り老中奉書(折紙形式)
大名行列は先遣隊(宿割隊と道具隊)と本隊(先手部隊・籠前部隊・中核部隊・籠後部隊・重臣諸役部隊)
150~300人程度が一番多い
最初は農村から。後期は、人宿(六組飛脚仲間)
下にいろ下にいろ。御三家だけ。
本陣の主は、酒、鯛、地域の名産品を献上。数倍の物で返す。
やむを得ず同格ですれちがう時は、左側通行。みすを上げて会釈

■江戸藩邸
拝領屋敷、大縄地(組屋敷)、拝領町屋敷(町人に賃貸)
拝領屋敷は幕府から借りているもので売買禁止。現実には相対替えで売買
犯罪者が駆け込むと、幕府であっても侵入禁止(大使館的)

■家紋

上杉笹、仙台笹、加賀梅鉢、真田六文銭、藤堂蔦、本多立ち葵、井伊橘、大久保藤、丹羽ペケ、土佐柏、加藤蛇の目、浅野鷹の羽、毛利長門沢瀉(おもだか)か一文字三つ星、池田備前蝶、土井六桁水車、細川九曜、黒餅、有馬巴

■大店

白木屋では9年目に初登り(50日)
正月と盆の15日頃に里帰りするのは藪入り
越後屋「イセマツサカエチウシ」(伊勢松坂越氏)
白木屋は「エヒスタイコクテム干」(恵比寿大黒天像)
白木屋の「仙の字」は食事、「丸や」は酒、「ト入」は客
■寛政の三博士
→尾藤二洲、柴野栗山、岡田寒泉
■新井白石の書物
→「藩翰譜」「読史余論」「西洋紀聞」「古史通」「折たく柴の記」「采覧異言(さいらんいげん)」

将軍の顔は見ちゃダメ。茶壺に追われてトッピンシャン

徳川将軍家の演出力、という本を読みました。

今考えるとなんじゃそれ、的な面白い話が満載
このあと数回に渡って紹介します。

威光
将軍はとってもエライ人、というのを意識的に作り上げました。
はるか遠い人ですよ、と

松平健が、暴れん坊将軍で
余の顔を見忘れたか
なんて、もってのほか

武士は将軍に拝謁(御目見得)出来るかどうかでランクづけされる
大名や旗本は御目見得できるけど、御家人は出来ない。

その大名や旗本も拝謁する機会は年に数える程度

いざ拝謁という時に「しー」という声がかかる
シーンとなり、息を殺す感じ

おもてを上げよ、と言われても、顔を上げちゃダメ
当然顔は分からない。
時代劇とかでは顔をあげてますが
顔を上げなきゃお芝居になりませんからね。

ちこう、とか、これへ、とか言われても微動だにしません。
そういう事を言っていただいても、私のようなものは畏れ多くて動けません
というのが「正しい」態度

セレモニーの時に将軍がかける言葉は決まっていて、「御意の振」(ぎょいのふり)という文書になっています。

何か役職を命じる時は「念を入れて勤めい」
大名が国元に戻る時には「在所への暇をやる、休息するように」

ワンフレーズ以上の事は言いません。

将軍が、江戸城外に出る事は、御成(おなり)と言います。
上様のおなーりー、って奴ですね

通過する道筋は厳重な規制が敷かれる。
道沿いの家の窓や雨戸の隙間には紙で厳重に目張りされる。
当日は火が一切使えないなど、生活は大きく規制される。

大名屋敷を訪問したりするともう大変
おもてなしで膨大な費用がかかる

大名が将軍の娘をお嫁にもらうとなるとこれまたえらいこと
東京大学の赤門は、加賀百万石の前田家が、11代将軍の娘を迎えるために作った門です

将軍に献上される品物はあたかも将軍であるかのごとく扱われる
将軍への献上茶を入れたお茶壺の道中に会えば、大名と言えども道を譲って籠から降りないといけない

ましてや庶民は、災難が振りかからないよう、家の戸をピシャッと閉め、通過するのをひたすら待つ

ずいずいずっころばしは、そんな歌です。

ずいずいずっころばし ごまみそずい
茶壺に追われてトッピンシャン
抜けたらドンドコショ

ただ、そんな将軍の存在は迷惑がられていたかと思うとそうではない。
江戸庶民は、自分達が上様のお膝元に住んでいるということが自慢で仕方ない。

例えば、どこかに将軍が立ち寄ったというと、同じ空気を吸いたいと
わんさか人が集まる
川崎大師は、11代将軍家斉が訪れた後、大ブームになる

山王権現や神田明神のお祭りは、山車が江戸城に入り、将軍にも見ていただけるということで大騒ぎ
町人の代表が江戸城内に招かれて、能を見せてもらえるというイベントがあるのだけど
それはそれは名誉なこと

そんな演出をしながら、
将軍は庶民にも大人気となっていきます。

[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)