元号の名付け方

<平成最後の天皇誕生日記念>

元号をつける場合、どうすれば良いでしょうか

影響が大きい事柄なので、真剣に考えることにいたしましょう

「元号大全」という本を買ってきました。
まずは、過去の元号の研究ですね

247個
平成まで、なんと247個もあるそうです。

参った

これは、余程気合いを入れる必要があります。
何と言っても期限が決まっています。

確か、じんむすいぜいあんねいいとく

いきなり間違いました
それは天皇の名前でした。

明治以降、一世一元と決められたので
天皇の名前と、元号を同じだと勘違いしてしまいました。

この本を見てビックリ
言うても、天皇の名前と元号は結構だぶってんじゃないの、って思いましたが
江戸時代まで、見事に全くだぶっていない。

ここで、ちっちゃなクイズね
【問A】
一番最初の元号って何でしょう
答を見れば、へえあれなんだって思います。
違う話題の後に、答書きますんで考えておいてね

日本だけ
これもまたビックリしたんですが
今現在、元号を使っているのは世界で日本だけ
そんなバカな

アメリカもロシアも使っとらんのかい

それは、ひょっとしてそうかも知れないけど
中国は?、中国なんで使っていないの?

勿論、最初に元号なるものを開発したのは中国で
日本はそれを真似した。

辛亥革命で清国がなくなり、
君主制じゃなく民主主義になったから必要なくなったんだと
ええ?どういうこと?
日本も民主主義ですけど。

それではここで、もう一個クイズ。

【問B】
過去に元号を使っていた事のある国が4つあります。
その内、二つは日本と中国です。
あとの二つは、どことどこでしょう
おそらくひとつは予想通りですが、もうひとつが難問です

元号の始まり
【答A】
大化

大化の改新のあの大化ね
645年です。
孝徳天皇の時です。

ということは
神武天皇以降、いっぱい天皇はいたのに、そこまで全く元号はなかったんですね

その後、孝徳天皇の時に「白雉(はくち)」という元号に改元された
没後、次を再度、引き継いだ斉明(さいめい)天皇は、元号というものが気に入らなかったんでしょうか
元号制度を止めちゃった
32年を経て、天武天皇の時、何を思ったか晩年に「朱鳥(しゅちょう)」という元号を制定
でも、その2年後に死んじゃって、またそのあと元号なし

15年後、ようやく完全復活
これ以降は、ずっと元号制度は続くのですが
完全復活の元号は「大宝(たいほう)」です。
あの「大宝律令(たいほうりつりょう)」の大宝です。
日本で初めての法律。
ここから日本は法治国家の道を歩む訳ですが
そこに、今後元号を定めます、と書いたので
ちゃんと元号制定は、法律として決まったということになります。

改元の理由
改元の理由は4つあります。

1.代始の改元
 分かりやすいです。天皇が変わったから。
 ほとんどの天皇が改元しています。
 そうなると、改元出来なかった天皇が可哀想になりますね
 淳仁(じゅんにん)天皇、仲恭(ちゅうきょう)天皇、明正(めいしょう)天皇
 うわあ、そうきましたか。可哀想三羽がらすです。
 説明すると長くなりそうなので
 淳仁天皇と、明正天皇はリンクを張っておきます
 仲恭天皇は、近々説明予定です。
 孝謙天皇、古代最後の女性天皇は、本流ど真ん中
 江戸時代にいた!女性天皇。明正天皇

2.祥瑞(しょうずい)改元
 めでたいことが有ったから
 これ、結構昔はあったんですが
 877年の元慶(げんぎょう)以降は行われていません

3.災異(さいい)改元
 不吉なことが起きたから
 これ、すごく多いです。
 江戸時代にもしょっちゅうありました。
 自然災害や、飢饉、疫病の流行等

4.革命(かくめい)改元
 六十干支ファンとしては、これが一番興味深い
 「辛酉(しんゆう、かのととり)」の年と、「甲子(かっし、こうし、きのえね)」の年は革命が起きるとされるので改元する
 六十干支についてはこちらをみてね
 暦ってそういうカラクリだったのか

 甲子の改元は前から知っていて、六十干支の始まりだから、分かる気がするなと思っていた。
 実際に江戸時代にある甲子の年は全て改元されているのも知っていた。
 辛酉の年にも改元していたなんて初めて知りました。
 
 辛酉の年と甲子の年って3年しか離れていないので、無茶苦茶忙しいです。
 辛酉の年は西暦を60で割って1余る年
 甲子の年は同じく4余る年です。

 江戸時代だけ例をあげましょう
 1624年(甲子) 寛永(かんえい)
 1681年(辛酉) 天和(てんな)
 1684年(甲子) 貞享(じょうきょう)
 1741年(辛酉) 寛保(かんぽう)
 1744年(甲子) 延享(えんきょう)
 1801年(辛酉) 享和(きょうわ)
 1804年(甲子) 文化(ぶんか)
 1861年(辛酉) 文久(ぶんきゅう) 
 1864年(甲子) 元治(げんじ)

 面白いです。
 文久は幕末のえらいことがいっぱい起きる時なんですが
 1861年は文久元年、1862年は文久2年と末尾が揃うので分かりやすく
 江戸検定の勉強していて、一番好きな元号でした。
 もうちょっと長く続けてくれてれば良かったのにと常々思っておりましたが
 やっと謎が解けました。
 分かりやすい元号は、大体3年で終わっちゃう訳ですね

【答B】
朝鮮
 これは分かりやすいですね
 日本が元号を使うずっと前の4世紀後半から元号使っています。
 新羅が半島を統一したあと、中国の傘下に入りましたので
 独自の元号をやめ、中国の元号を使うようになります。
 さらに、1910年に、日本に併合されたあとは、日本の元号を使用
 日本が太平洋戦争で破れたあとは、元号の使用をやめます。

ベトナム
 これは、難問でしたね
 980年に「太平」という元号を定めて以降、明に併合されていた時期を除き、
 独自の元号を定めていた。
 ずっと漢字だったんでしょうか。ビックリです。
 1945年、ホーチミンによるベトナム革命以降、
 王朝が倒れたため、元号の使用を廃止します。

本題の元号を決めるための漢字の選び方等にまだ入れていませんが
長くなりすぎましたので、一旦切りまして
続きは改めます。

索引はこちら
[日本の歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)


サトザクラ(松月)

花カレンダー始めました

12/22 冬至 芝居正月と七五三

冬至   とうじ   一年で昼が最も短い日   12月22日
(旧暦: 11月1日)
確かにすぐに暗くなっちゃいますね

クイズ
いきなりクイズです

江戸時代にも七五三は行われていました
三歳、五歳、七歳の年齢の行事には名前がついているのですが
それぞれ何歳の時のお祝いでしょう。

A.帯解(おびとき)
B.髪置(かみおき)
C.袴着(はかまぎ)

七五三の話題は後回しにして、後で答を書きますから考えておいてね

芝居正月
旧暦で10月半ばになると江戸市中に、番付売りの姿があらわれます。
11月1日が初日となる江戸歌舞伎顔見世興行(えどかぶきかおみせこうぎょう)の役割番付

中村座、市村座、森田座という江戸三座が
それぞれ、その後一年に舞台に立つ役者の顔ぶれを披露する芝居のこと

野球で言えば
開幕戦でオールスター戦をやっちゃうようなもの

キャー、大谷くーん

何でそういうことになるかというと
役者の契約期間が、11月1日からの1年間だから

初日前日の10月晦日(みそか)には仕事も手につきません
徹夜で並ぶ人までいます

午前六時が開幕ですが、その2時間前に一番太鼓というのがなります

ドドーン
ワアアアアーっ

隣近所は良い迷惑ですね

てやんでぇ、こちとら江戸っ子でいっ

次第に自然に決まっていったこの日の興行のルール
一幕と二幕に分かれ
一幕目は、江戸時代以前の設定である時代物
二幕目は、江戸時代の町人が主人公で身近な設定の、世話物と呼ばれているもの

時代物の演目としては「暫(しばらく)」が一番人気
初代市川団十郎で大ヒットしてから定着する
悪者が政権抗争のため、反対派の善良な市民を打ち首にしようとする
まさにその時
「しばらく~、しばらく~」と声をかけて団十郎登場

キャー、団十郎ーっ

七五三
旧暦11月15日は、髪置(かみおき)、袴着(はかまぎ)、帯解(おびとき)の祝いが行われます。
今は、新暦の11月15

おっと、分かっちゃいましたか

さっそく答に参りましょう
【答】
三歳→髪置(かみおき)
五歳→袴着(はかまぎ)
七歳→帯解(おびとき)

江戸検定やっていると、必須知識で
毎回どれがどれだったっけと思っていたんですが
性別考えれば、それほど難しくないということが分かりました。

三歳→髪置。男女とも。髪の毛が伸びてきたことのお祝い
五歳→袴着。男の子。初めて男の子に袴を着せるお祝い
七歳→帯解。女の子。七歳になると紐付きタイプの着物をやめて、大人のように帯をする着物に変えるお祝い

昔は子供の死亡率も今より高いだろうとは思っていましたが
江戸を色々調べると、尋常じゃないですね
将軍誰それは、九男で、
その上は全員 、夭折(ようせつ=子供の頃に死んでしまうこと)です
なんて、当たり前
平均して半分以上は夭折のイメージです。

5代将軍綱吉が子供徳松の成長を祈って11月15日に祝ったのが
11月15日になった始まりと言われていますが
その徳松も夭折しています。

七歳までは神のうち、と言われて
それはいろんな意味を含んではいますが
余程七歳まで健康に育つことが大変だったんだろうなと思います。

今に比べ、この七五三はかなり重みのあるお祝いだったんでしょう。
ちなみに、七五三という言葉は江戸時代にはほとんど使われていません。

索引はこちら
[暦]シリーズはこちら(少し下げてね)


ネリネ

花カレンダー始めました

家康4、三方が原で、なにを漏らしちゃった

家康の4つめになります。

信長中央制覇
織田信長と同盟を結んだ家康。

以降の8年間、信長は怒濤の勢いで勝利を重ね、
京に上り、
逃亡していた足利将軍を呼びかえして位につけ
その権威を借りて近畿を平定します。

さあ、同盟相手の家康
この8年間どうだったかというと
ただ、三河一国を平定するのみ

まあ何とも地道

武田信玄の提案
位置関係で言うと、
西から、信長の尾張、三河の家康、遠江(とうとうみ)と駿河(するが)の今川、甲斐の武田信玄ということになります。
桶狭間の戦いで、今川は弱体化しています。

武田信玄の提案がありました。

どうでしょう
今川領をうちとおたくで半分こ
大井川を境に、遠江を徳川
駿河を武田
いっせのせで攻めれば
今の今川なら造作もないこと

三河以外に領地を広げる初めての行動になります。

難なく成功し
徳川領地は一気に倍になります。

ただ、喜んでばかりもいられません。
武田信玄が、そのあと遠江や三河を攻めませんなどとは一言も言っていません。
超大国甲斐武田と大井川一本で国を接する事になったのです。

姉川決戦
信長の中央制覇があまりにも早かったが故に
まだまだ全国には大勢力がことごとく残っています。
甲斐の武田、越後の上杉、小田原の北条、越前の朝倉、近江の浅井、中国の毛利

さあ、どう出る

まず真っ先に行動したのは、越前の朝倉、近江の浅井
連合軍を組んで事を起こした。
近江姉川での決戦です。

こういうとき、同盟国である家康は当然のようにかりだされます。

信長家康連合軍は辛くも勝利

信玄西上
さあ次は

予想通り
来るっ、武田信玄

天下を取るのは信長じゃない
この俺だ

あらゆる面でレベルが違います。

はい、おっしゃる通り

京への西上で、一番先にいる敵は?
家康です。

来るなら来いっ
目に物見せてくれよう

とは言ったものの、戦力の差は歴然
びくびくです。

あまりにびくびくなので
家康初めての外交作戦で、準備をしておりました。
上杉謙信との同盟です。

武田が動いた時には、お味方していただけよ

この申し出に上杉謙信大喜び
上杉謙信は上杉謙信で、天下取りは自分だとの自負がありますから

この同盟で、困った人が一人と
喜んだ人が一人

困った人は信長
勝手にそういうことするか
これで完全に超大国甲斐を敵に回すことになった

喜んだ人は信玄
激怒したふりをして、しめしめ
これで正式に徳川を討てる

家康は、三河の岡崎城ではなく
新しく手に入れた、浜松城で向かえ討とうと待機

三河衆は大反対
負ける可能性が極めて高いこの戦
せめて死に場所は、岡崎にしたい

信長も大反対
遠い
そんなとこまで出ばって行けない

信長からの応援は申し訳程度
家康は負けるだろうとの算段から
尾張で向かえ討てるだけの兵力を残しておかなきゃ

10/3、雪の降る時期を待って、信玄出発
上杉謙信は雪深い国
この時期には謙信は動けない。

あれえっ?
ところがです
とても不思議な事が起きました

信玄、浜松城に向かってこない
もっと北側の道を通って京へ向かう

うそぉ

信玄にしてみれば
徳川なんぞはいつでも討てる
それよりも、全く兵力に損失ない状態で尾張を突破したい

徳川が追いかけてくる訳がない
明確な兵力の差があって、追いかけてくるような
家康は、そんなあほではない

三河衆
怖じ気づいたな
と言ったものの
心の中では「ラッキー」

家康も
せっかく無視してくれるのに
追いかけて、自殺的戦いを挑むような
そんな無鉄砲な性格ではない

・・・
筈だった

敵がわが郊野を踏みつけつつ通りすぎていくのを
城に隠れてただ見ているのは、男子ではない

はい??

およそ、家康の発言とは思えない。

後に、歴史学者たちがこの時の家康の心情を推測するが
どうにも分からない

ひとつだけ分かっていることがある
実は、家康は、信玄の事を尊敬している
信玄を研究し真似ている
敵を調べるというには度を越している

三方が原という台地を通る筈
そこへ言って迎え討つ

信玄は、来ないと思いつつも
来るなら来るで容易いことと思っている
城を攻めるよりは余程楽

三方が原の戦い
お互いに陣形を張り、睨み合うこと2時間
ついに武田が動いた。

怒濤のような戦い

結論から言うと家康軍は大負けに負ける

そして、家康は身ひとつで逃げた
あれほど勇ましかった戦いの前と比べ
ただひたすらに逃げた

早い早い逃げ足の早いこと

ただ、追手も大将の首が欲しい
幾手にも別れて捜索

恐怖のあまり一時的に気が触れている

夏目正吉という家臣の姿が見えた
戦闘には参加せず、浜松城の留守を預かる役目
そこへ突っ込んでいく

もはや逃げ切れん、死ぬる死ぬる

見たことも無いような殿の哀れな姿を見た
おそらく他の誰にも見せたことのない弱い姿を自分に見せてくれた
その事に感激し
自分のやるべき事を決めた。

それがしが代わりたてまつる

殿が乗る馬の尻を叩き、浜松城へと向かわせる

手の者二十人と、追ってくる敵の中に突っ込んでいく
徳川家康を名乗って、戦死

家康は浜松城の近くまで来て
安堵したのも束の間
振り返るとおびただしい量の敵のたいまつ

思わず馬上でうんこを漏らしてしまった

浜松城にギリギリセーフで滑り込む

あれっ
なんか変な臭い

そういうことを口に出来るということ自体
家康と家臣との間は独特な関係で結ばれていたんでしょう

家康は信長のように勝ち続けた武将ではない
負けることで、学び強くなっていった武将

うんこもらしの後の困った顔を家臣に書かせ
生涯反省材料にしたという

索引はこちら
[徳川十五代将軍]シリーズはこちら(少し下げてね)


レモン

花カレンダー始めました

来たーっ、正式通知。江戸検定2級合格

郵便ポストの中の、郵便物をチェック

ああああっ
こ、これぞ待ち望んでいた例のものではあるまいか

間違いなく合格とは思いつつ
万が一と言うことがございます。

解答用紙に転記し忘れたとか
問題番号一つずつずれていたとか

何と言っても
受験日間違えたくらいの前科者でございます。

長女とカミさんとの談笑の間も気が気ではございません
こういう時ってカミさんすぐに気づくのよね

さっき何か隠したね

いや、何の事かなあ

ちゃんと確定してから言わないとね

テレビを見出したその隙に、
今だっ

ハサミを持って秘密の場所に

ああっ
ああああっ

受かってるー

この日を3年間待ち続けておりました。

右上に、名刺大のこんなものもくっついておりました。

裏はこんなの

渋いっ
そんな素晴らしいデザインは見たことがございません。
おそらく、よほど名のあるデザイナーがデザインしたのでしょう

ちょっと薄目なので、私の小さな財布に入れてもかさばりません。
当分持ち歩いて、みんなに見せびらかしなさい、というそういう配慮ですね
仕方ないなあ

長女とカミさんに

ほれっほれほれほれっ

散々合格したぞと言っておりましたので
反応薄い薄い

あっそう、
この前、合格したって言ってたじゃない

だから、正式に来たわけよ

ふうん

あかん
次女は早く帰って来んかなあ

得点は自己採点通りでした。
平均点は69.2点だったようです。

あれ
平均点69.2点て書いてあるよ
70点以上で合格なんでしょ
半数合格じゃない、しょうもな

そういうところだけは長女はめざとく見つけます。

確かにひょっとして近年で一番平均点高いんじゃないかな

複雑な気持ちにはなりますが
合格は合格

これで一級への挑戦権が与えられたということになります。

このカードに書いてある番号を入力して一級を申し込む

手紙に、来年の「今年のお題」が書いてありました。
新江戸百景 EDO→TOKYO今昔
20%がそのお題テキストから出題されます。
6月くらいに発売なんですけどね

うわあ
東京中くまなく歩いている私のためのお題みたい

何とも残念
さ来年くらいにこのお題にして欲しかった。

この前、3つめの過去問をやりました。
江戸検定1級、始動だっ
で、ひとつめ67点、二つ目47点と言いました。
何と三つ目は、37点
4拓で、25点は取れるわけですから、何ともなっておりません。
もう全く分かる気がしない問題ばかり
67点より、この37点の方が本当なんだろうなあ
2級で3年かかってますから
1級はかなりの長期戦を覚悟しました。

ああ、初年度にこんなお題を持ってくるなんて

索引はこちら
[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)


シャコバサボテン

花カレンダー始めました