早稲田の宝泉寺は日本一

今日はウォーキングイベント

コロナで大変なのにやるな、って話ですね
しかも、雨

絶対的晴れ男だったはずなのに、このところ反動が来たのか、
雨にたたられています。

雨天中止と言っているのだから、中止にすべきなんでしょうが
もう、当分はできないだろうと思うと、ついつい書き込んでしまいました。

決行します。

天気予報が大外れしてくれる事を望んだのですが
きれいに当たりました。

二重苦の中、キャンセルは当然ですが
5人も参加してくれました。
感謝感激です。

高田富士
大きなテーマの一つは高田富士
東京を中心に、富士塚が100個以上あります。

富士山のミニチュア

その中で、日本で初めて作られたもの
富士塚が日本以外にある訳ないから、世界初でもあります。
何にせよ、初めてって感動ものですが
富士塚ファンとしては感動中の感動
感動が太陽系だとすると、太陽そのものです。

本来なら、高田富士の1年に1度だけの山開きの日
その日に合わせてウォーキングイベントを組んだのに
今年は中止
あら残念

高田富士の事でもう少し何とかしたかったので
元々、高田富士があった、宝泉寺の住職さんにお話いただけるように電話でお頼みしていました。
今の高田富士は、元のところから移転したものなんです。

宝泉寺
よろしくお願いしまーす

元々、宝泉寺は、とても大きく、どこからどこまでだったか
また、創建がとても古く、平安時代から
そんな話から始まりました。

へえ、そうなんですか

創建当時は、そこから先は海だったんです。

えええーっ

この辺に前方後円墳がありましてね

いきなり大興奮のネタ
グイグイ話に引き込まれていきます。

藤原秀郷がこちらに来て、毘沙門天をここに納めまして

出ました。ちょうど今、平将門の歴史小説を読んでいますので、またまた大興奮
藤原秀郷は平将門を討った人物です。

さあ、高田富士の話
その白い建物があるところに高田富士がそびえておりまして。

目の前に高田富士のイメージが広がる

これが高田富士を作った高田藤四郎さんのお墓です。

(行者としての名前が日行です)

木のもの紙のものは全て焼けて残っておらず、口の伝承や、こういった石、
あと鐘に刻まれた記録などから当時の事を推測していくことになります。

こちらに並んでいるのが旗本のお墓。
二つの家のお墓ですが、宝泉寺の檀家となった旗本は格式が高かった
それもあって、潤い、富士信仰から、富士塚を作ろうと言うことに繋がります。

富士塚の辺り一帯が、水稲荷神社。
宝泉寺は水稲荷神社の別当寺で江戸時代までは神仏習合で一体だった。
明治維新の廃仏毀釈で無理矢理分けられ
かつ、うちは、天台宗なんですが、天台宗はかなり厳しく扱われる

おそらく、明治からある程度の時期は荒れ放題だったのではないかと思われます
お寺って、実は今、全国にコンビニより多い数あるんですが
天台宗はそれほど多くない。

結果、水稲荷神社の辺りは、早稲田大学の敷地になり
水稲荷神社は、今の場所にお引っ越し
宝泉寺も、大幅に縮小します。
ただ、私は思うんです。
神社の建物は引っ越しても、神様はまだそこにいるんじゃないか。

何でも古いものはぶっ潰せ。新しくしよう。
新しくするために古いものは抵抗勢力扱いされる
そんな時代がありました。
でも新しくして、古いものを移したところで、
神様は、まだそこにいるんじゃないか、と思う訳です。

何かグッと来るものがある言葉でした。

実は一番見たかったのが、富士山の石
富士塚を作るに当たって、高田藤四郎さんが持ってきた富士山の石が
宝泉寺にもあると聞いていましたので。

そこにあるのが、富士山の石だと思われます。

ええっ。
このお墓の横の石なのか

前回もお墓は見ましたが
その横にあったなんて。
嬉しい。とっても嬉しい。
高田藤四郎さんが、9年もかけて、30回以上富士山に通い
持ってきたのが、この石なのか
おそらくこれには、藤四郎さんの指紋がついている筈。

富くじの話も聞きました。
富くじって、三富(谷中感応寺、湯島天神、目黒不動)以前に
宝泉寺の方が先だったんです。
宝泉寺の時の富くじは、今の宝くじ的要素より、もっと信仰の一環という要素の方が強かった。
三富って実は全て天台宗なんです

なるほど!
これは、すごいと思いました。
谷中感応寺は日蓮宗不受布施派から天台宗に改宗させられた経緯で
富くじを始めましたから。

そのあと、鐘が戦時中の供出を免れた話
供出させられた鐘は、実は金属としては全く使い物にならなかった話

どれもこれも興味深い話ばかり

こんなに有意義な話を伺え
無理を言ってお話をお願いしてよかった。

早稲田の宝泉寺は日本一です。

戸山公園
戸山公園は昔、尾張藩の下屋敷だったところ
通称、戸山荘。
あまりの広さに度肝を抜かれます。

楽しいクイズアプリがあり
みんなで、クイズを解きながら巡ります。

山手線内で一番高い山の箱根山にも登り
全員、戸山荘マスターになれました。

ああ、楽しかった。
また、イベントが立てられる時期が一刻も早く訪れますように。

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[明治]5-2 大隈重信。人気もののおじいちゃん再び。

[明治]5 大隈重信。藩閥に対抗する超大物
の続きです。

首相
首相を最初から言うと
1.伊藤博文(長州)
2.黒田清隆(薩摩)
3.山県有朋(長州)
4.松方正義(薩摩)
そして、
第二次伊藤博文内閣
と続きます。

ここまでずっと薩長の藩閥
一方で、政党も力をつけてきた
大隈重信の立憲改新党

藩閥政治家としても無視できない勢力になりました。

次の第二次松方正義内閣
「松隈(しょうわい)内閣」と呼ばれ
松方と大隈の連立内閣になります。

第三次伊藤博文内閣

山県有朋は政党が大嫌い。
でも伊藤博文は、政党と折り合いをつけていく事を考えていた。

政党の大物を入閣させようとしたが、条件面で折り合わず断念

次は、板垣退助の自由党と手を組もうとした。

でもこの時、板垣退助は伊藤博文を選ばず大隈重信を選んだ

立憲改新党と自由党が合併
憲政党となる。

伊藤博文も自ら政党を立ち上げようとした。
今まで、過渡期として、藩閥政治でやって来たけど、
やはり、政党が国をリードしていくべきなのではないか

でも、山県有朋などの元老即ち藩閥政治家達が大反対
これも一旦断念

自分は無理でも、
政党が持つ可能性を試したくなった。

大きくなった、憲政党ならやれるかも。
正直合併したばかりだから、分裂するかもしれない
でも失敗したなら、政党は力を失うだろう。
藩閥としては良いこと
どっちに転ぶとしても、やらせてみる価値はある

どうですか、やってみませんか

政党出身の首相
初めて、政党出身の首相
大隈重信と板垣退助
隈板(わいはん)内閣
歴史的一歩

さあ、やったるで

ところが
伊藤博文の予想通りになってしまった。
内輪揉めの分裂

元自由党のメンバーが離脱して、ジ・エンド

たった4ヶ月の内閣だった。

次は、第二次山県有朋内閣

文化活動
政治生命を絶たれた訳ではない。
ただ、軸足は、早稲田大学総長等の文化面へとシフトしていった。

早稲田大学で野球が行われた時
総長大隈重信は始球式を行った。
記録に残っている限りでは初めての始球式。
何せ片足なので、良く投げれたなあと思います。

ストライクゾーンよりは大きく外れた。
でも、ボールってなると総長に傷がつきます。
とんでもないボールではありますが、バッターは空振り

ストライーク

以降、始球式のボールは空振りするようになったのです。

文字
ところで、大隈は文字を書きません。
子供の頃、とても字が汚なく
かなりバカにされたそうです。
それがトラウマになり

今後一切、字を書かない
と決めた。

勉強するときはノートを取らない
全て暗記しちゃう

執筆活動も何冊もしているんだけど、全て口述筆記

条約締結等で署名する必要はあって、仕方なくした署名は残っているんだけど
なるほどいかにもって字だったらしい。

空白
時は、16年の時を刻みます。
大隈重信は、76歳のおじいちゃんになりました。

その間、大隈重信は、庶民派政治家として大人気

一方、伊藤博文が板垣退助の力を借りて作った立憲政友会は政党の中心になります。

政党の形式は取っているものの、結局は、伊藤博文色の極めて強いもの

そして、山本権兵衛内閣の時に、シーメンス事件が起きます。
ロッキード事件にも匹敵する大汚職事件です。

山本権兵衛内閣は総辞職。

この政治の信頼をどう回復したものか
有力政治家に数人打診するが、こんなときは断られてしまいます。

ここはもう、あの国民的人気政治家におでましいただくしかなかろう。

大隈おじいちゃん再登場です。
そのあと行われた、総選挙では、大隈陣営圧勝になります。

画期的な選挙活動が行われたんです。

一つは、大隈の演説をレコードに吹き込んで販売
ちょっとまえに、憲政記念館で、写真撮ってきましたよ

初めて閣僚の地方遊説
大隈は、電車で移動し各駅で止まっては、窓から演説を行った。
黒山の人だかり

ただ、この二回目の大隈政権
この時期に第一次世界大戦が始まり
大隈も、中国に対して「対華21箇条要求」というあまり誉めがたい政策を進めてしまっています。

最後まで、人気は衰えず
大隈重信が亡くなった後は「国民葬」が日比谷公園で行われるんですが
20万人とも30万人とも言われる人が押し寄せます。

そのあと、山県有朋の葬儀は一ランク上の「国葬」ですが
なんとも見劣りのするものになっちゃいました。

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]57 陽成天皇。9歳から17歳まで。狂気か純粋な恋か

天皇シリーズ

陽成天皇
876~884年

その前の清和天皇が
かのプレイボーイ在原業平と浮名を流した、藤原高子(たかいこ)を実質皇太后とした。
9歳の幼帝が17歳になるのを待って、その時、25歳の高子
そして、陽成天皇が生まれる
高子は藤原基経(もとつね)の妹

高子は天真爛漫で奔放な性格
おそらく陽成天皇は、その性格を受け継いだ。

清和天皇が不思議なことに27歳の時、譲位を発表
その時、陽成天皇は9歳
2代続けての幼帝ということになる。
自分も9歳で苦労したのにね
よほど疲れたんだと思います。
その後は、一切政治を省みず
出家して、極めて過酷な仏道の修行に励みます。

藤原基経とすれば、子供は扱いやすい。
望むところです。

譲位に当たって、そもそも清和天皇から
基経さん、摂政として、よろしくお願いします。

基経も最初の頃はかなり良い政治をしたようです。

ところが、陽成天皇が成長してくると、
だんだん基経とそりが合わなくなってくる。

清和天皇は大人しい性格だったから、ただハイハイと言ってくれたが
陽成天皇は、母親似の奔放な性格


陽成天皇は歴代の天皇の中でもすこぶる評判が悪い。

おかしな噂が立つようになる
奇行
動物虐待
女中を琴の糸で縛り上げて木から吊るしたとか

そして、宮中で、何者かに殺されるという事件が起きた。

大事件だが、結局捜査らしい捜査は行われなかった。

ということは、真実が明らかになってはいけない人が犯人なんじゃないの?

そう
陽成天皇が殺したんじゃないかと。

結局、基経に引導を渡された

はい、この紙に書きなさい

私は、天皇を譲位します。

17歳の時です。

疑問
これらの奇行話や殺人疑惑は複数の文書に書かれています。
ただ、全て、基経側の人物が書いたもの

本当だろうか

百人一首に、陽成天皇の歌が採用されています。
筑波嶺(つくばね)の 峰よりおつるみなの川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる

(筑波山の峰から流れ落ちる男女川(みなのがわ)の水が
少しずつ溜まってやがて淵となるように
私の恋心も積もり積もって淵になったよ)

恋の歌です。
狂気の感じはしませんね

天皇自身の歌った歌が百人一首に採用される事はそれほど多くありません。
8首だけ
後の時代の百人一首の選者、藤原定家は少なくとも、この狂気説を信じていなかったんじゃないでしょうか。

この歌の恋のお相手は
譲位させられた次の天皇、光孝天皇の娘
綏子(すいし)内親王

次の天皇のさらに娘って年齢的に不思議な気がしますが、大丈夫です。
グッと遡って、光孝天皇はおじいちゃんですから
年齢的には釣り合います。

この恋、成就します。
二人は結婚。

光孝天皇の身になって考えましょう
殺人容疑者のところに、可愛い娘を嫁にやりますかね。

真相は闇の中です。

陽成天皇
とても長生きします。
85歳まで。
本人しか分かりませんね
人生として良かったのか悪かったのか。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[昭和歌謡]122 ギンギラギンにさりげなく

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズ
男性アイドルが続きますね

新御三家の次はたのきんトリオ

ギンギラギンにさりげなく
近藤真彦
作詞・伊達歩、作曲・筒美京平
1981年

♪覚めた仕草で熱く見ろ 涙残して笑いなよ
赤い皮ジャン引き寄せ 恋のバンダナ渡すよ
雨の中で抱き締めるぜそっと
ギンギラギンにさりげなく そいつが俺のやり方
ギンギラギンにさりげなく さりげなく生きるだけさ

近藤真彦
マッチでーす

作詞の伊達歩さんって聞いたことないなあ、と思ったら
直木賞作家の伊集院静さんだったんですね
夏目雅子さんと再婚し、さらに篠ひろ子さんと再々婚

そんな人が作詞したんだったら、と再度歌詞を読み直して見ると
なるほどね、というところがある
内側ではギンギラギンにハイテンションになっているんだけど
それをさりげなく表そうと。

抑えましょうとか言われると反発したくなるけど
さりげなくっていうのは
なかなか良いこと言うじゃないですか

当時のマッチはギンギラギンにギンギラギンだった気がしますが。

私からすると、年下ですから、この辺りのときは
まあ、頑張って下さい
ぐらいの事だったけど

「愚か者」の時に、こりゃ良いじゃないかと
いっぱしの歌手になったなあと拍手

「愚か者」は大好きで
カラオケで何度も歌いました。

今回初めて分かったんですが
愚か者も伊集院静さん、即ち伊達歩さんなんですね
レコード大賞も取っていたんですね
競作の、萩原建一さんのも良かったけど
なかなかどうして、近藤真彦の愚か者も負けてなかった。

♪愚か者よ お前の流した涙を受けよう
愚か者よ 私の胸にほほをうずめて 今夜は眠れよ
(中略)
ごらん 金と銀の器を抱いて
罪と罰の酒を満たした
愚か者が街を走るよ

良いなあ。最高だわこの歌詞

今の近藤真彦は良いおじさんになりましたね
また歌って欲しいなあ。

[昭和歌謡]シリーズはこちら(少し下げてね)