[明治]5 大隈重信。藩閥に対抗する超大物。

明治シリーズ、兼歴代首相シリーズです

大隈重信

元々佐賀藩の出身
佐賀藩の幕末の藩主は鍋島直正
蘭癖大名(らんぺきだいみょう)と言われ、西洋大好き
西洋技術のあらゆることに好奇心旺盛で、何にでも手を出したんだけど
政治には興味がいまいちで、幕末の動きでは乗り遅れた。

大隈重信が色んな提案をするも
「そうだね」と言ったまま、何も動かなかった。

薩長に対して出遅れた事は、ずっと響いた。

大蔵卿時代
まずは、伊藤博文より前の、大久保利通とかの時代
大蔵卿になった

内閣制は伊藤博文からだから
大蔵大臣ではなく大蔵卿
実質いっしょですが

大隈重信は、築地に住んでおり、築地梁山泊と呼ばれた。
豪傑や野心家の集まる場所
誰が集まったかというと、伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、五代友厚、山県有朋、前島密

新しい日本をどう作る

それはだ。前も言ったが・・・

一番夢に溢れていた時期かも知れない。

大隈の担当した経済がらみでいうと、
地租改正や秩禄処分
さらに新通貨

新しい硬貨をどうしようか
形は?

四角が良いか丸が良いか

江戸時代は実は長方形の方が多い

大隈は
絶対丸だ!

激論の末、丸が採用される。

じゃあ単位の名前は?

中国に「円」という単位があった。
それにならおう。丸なんだから、円

親指と人差し指でOKマークを作ってお金を表すのも、大隈の発案

木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視が次々と亡くなっていき
「次の世代」の時代となる
そう、築地梁山泊の時代

大隈は、天皇にも気に入れられ
おそらく一時期は伊藤博文より上を行っていた。

でも、薩長でないことで、伊藤博文に追い抜かれた。

かつて夢を語りあった仲だったが
大隈は、薩長藩閥政治を批判する急先鋒となった

明治14年の政変
明治13年、自由民権運動が盛り上がりを見せる
国民の代表者による国会というものをどうすれば良いか

大隈は、福沢諭吉とも連絡を取りながら
また、日本の将来像を考える。

天皇から、主だったメンバーに、考えをまとめて知らせるようにと言われる。

みんなは、天皇を中心にした世の中をどう作るか
国会は作るにしても、時期早尚

大隈は一番急進的
天皇は君臨するも統治せず。
イギリスのような議員内閣制
国会はすぐさま作って、国会の多数を占めたグループが政府を運営していく。
今からすると極めて、普通、なんですけど、当時にしてみると超過激。

普通に出すと絶対に潰されるに決まっているので
裏ルートでこっそり出す。

この内容が、伊藤博文の知るところとなった

政府を転覆しようとしている。

色んな人に根回しし
蓋を開けてみると
大隈は、罷免され、政府から追放されます。

明治14年の政変と言います。

大臣時代
大隈以外の、国会は作るにしてもゆっくりと、の案になった
でも、ちゃんと時期は決まった。
10年後の1890(明治23)年
憲法はその前年の1889年に作る

それならそれで

大隈は立憲改新党という政党を立ち上げた。
ある意味、10年はもらった時間
その間に多数派を形成してやろうじゃないの。

板垣退助も自由党を作り、
政党はどんどん力を持っていく。

もうひとつ。
さらに次の世代の若者の学問の場を作らねば
東京専門学校を設立する
分かりますね。今の早稲田大学です。

一方、藩閥の薩長の政治家たち
前回お話しした、元老たちは
超然内閣と言い
政党に左右されない、安定的内閣を作るべし。

このあと、ずっと元老たちと政党の綱引きが続いていくことになります。

ところが、国会開設を間近に控えた第一次伊藤博文内閣の終わり頃
黒田清隆が裏技を使います。

取り込んじゃえ作戦

大隈重信に近づきます。
どう?
外務大臣として入閣してくれると嬉しいなあ。

ええよ

積年の課題、不平等条約の改正に、前任の井上馨が失敗
窮地に立たされていたんです

そのあとを引き継いだ、黒田清隆内閣でも外務大臣留任。

井上馨の取っていた一括交渉方式をやめ
各国との個別交渉方式に変えた
メキシコ、アメリカ、ドイツ、ロシアと
それぞれ大幅に不平等を改善された条約を締結

万々歳と思われた。

でも、交渉が成立するという事は代わりに譲った部分もあります。

不平等の一つには、治外法権
外国人が日本で何をしても日本の法律では裁けません。

これを譲ってもらう条件に
日本の法律で日本で裁判するとしても、裁判官の半分は外国人にしますから。

これが明かになり、国民が猛烈に怒った
裁判官が外国人なんて言語道断

その中でも過激派の玄洋社という政治団体の
来島恒喜(くるしまつねき)という男性が爆弾を持って近づきます。

ババババーン

大隈爆破

来島恒喜はその場で自殺

大隈は一命はとりとめましたが
実は、右足がありません。
これが、大隈が使っていた義足

職務継続不可能となり、大臣辞任

翌年行われた第一回総選挙では
大隈の立憲改新党も大幅に議席を確保します。

なんと、大隈は、奥さんと共に
毎年、来島恒喜の命日には、墓参りに行っています。

このあとまだまだあり
いよいよ、大隈が首相になるのですが
続きはシリーズの次回。

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

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