和田英の富岡日記、やっぱり有名なのか

坂本龍馬と女性、というシリーズをやりました
平井加尾、千葉佐那、楢崎お龍、大浦慶

基本的に「龍馬が惚れた女たち」という本に基づきながら書いていきました。

その本の中で、著者原口泉さんが、
日本にも大浦慶のようにすごい女性が色々いると
十何人かの女性を紹介してくれている部分がありました。

その中で、和田英という女性がとても気になりました。
和田英(えい)

富岡製糸場で働いていた女工さんです。

えっ
富岡製糸場で働いていた女工さんが何でまた、
そんなに日本を代表するほどのすごい女性なの?

富岡製糸場って富国強兵殖産興業の象徴で
世界遺産にもなっている

ただ、文明開化でみんな頑張っていたんだろうなと思いつつも
実際に働いている女工さんたちはそんな綺麗事じゃなかったんだろうな

ああ野麦峠や女工哀史でのイメージ
超過酷な労働で、まるで監獄
劣悪な労働環境のため、結核とかでバタバタ倒れるものが出ても許されない

そんなイメージが頭の中で完璧に出来上がっていたからです。

富岡製糸場が違っていたのか
和田英さんが違っていたのか

このイメージが根本的に覆されました。

富岡製糸場は政府が鳴り物入りで作ったものだから
何としても成功させないといけない
女工さんを募集するんだけど誰もなり手がいない

たまたま英さんのお父さんが、人材募集係りでほとほと困っていた

人の噂というのは尾ひれがつくので
あたかも地獄の場所かのごとく

そもそも、自分の所にちょうどいい年齢の娘がいるのに申し出ないのが動かぬ証拠だと。

ここまで来ると
あっ無理矢理やらされたんだ、と思うでしょう

違うんだなあ
それを聞いた本人
えっ、私も申し出て良いの?
やるやる絶対やる

何でこういう気持ちが分かるかというと
本人が後に日記を「富岡日記」として本にしているからなんです。

この辺の事も後でまた書こうと思いますが
英さんの性格がなんちゅうか前向きというか
どんなに大変でも悲壮感なんてものがまるでない

そんな英さん
一年で製糸の技術を習得しちゃって
富岡製糸場を辞めちゃいます。

そして、お父さんのいる地元に戻ります。

なぜかというと、地元の長野県松代市で
日本初の民営蒸気器械製糸工場、六工社が作られようとしていたから

経営者ではありませんが
指導者として携わる事になります

ある日、製法で経営者とぶつかります。
そんなやり方だと品質の良い生糸は出来ません!

何だと生意気な

ここで提案した解決方法がすごい

分かりました。
それぞれの製法で製品を作ってみましょう。
その製品を市場に出しましょう。
高い値段がついた方に従うって事でどうでしょう。
負けた方も恨みっこ無しということで

勝っちゃうんだな、これが。

普通は論争になると感情的になっちゃって
相手を罵倒したり、人間関係がこじれちゃうものだけど
最初から恨みっこ無しの方法を提案するというのは
出来ることじゃない。
しかも上司相手

男尊女卑の時代、普通の平社員の女性が
当時の輸出高トップの製糸業の基礎を築いて行くってありますか
隷属されていたはずの女工さんです。

「龍馬が惚れた女たち」には、市場価格で判断してもらったという
エピソードだけ書いてありました。

今、歴史検定の勉強で、大学受験の日本史Bの参考書を頑張って読んでいるんですが
出てきたんです。
和田英の書いた日記は?
富岡日記

えっ、やっぱり有名なのか

気になって、富岡日記を読み始めました

面白い!
この人、ほんとに良いわ、性格というか考え方というか

まだ読み始めたばかりですが
次回、紹介しようと思います。

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]23-3 近衛文麿。一旦引いて証拠づくり

[首相]23 近衛文麿。信じがたい事ですが。
[首相]23-2 近衛文麿。ヒトラーに扮する
の続きです。

日中戦争
第一次近衛内閣の発足を待っていたかのように、昭和12年7月7日、盧溝橋(ろこうきょう)事件が起きます。

これは、「事件」に過ぎず、事態の収拾に向かっていた。
近衛文麿としては、ぐずぐずしていると終息してしまう。
これをきっかけとして、まずは中国と戦争。第一ステップ
政権の中枢にいる共産主義者の風見章としても
この時中国で国民政府と中国共産党が凌ぎを削っているとき
なのに、国民政府と中国共産党が手を握って日本に対抗しようとしていた
これは困る。
ロシアとも連携したアジアにおける共産主義革命で、
日本が主導権を取れるかどうかの分かれ道

軍をあおるだけあおる。

ここは、中国にきっちり分からせる必要がありますね

近衛文麿としては、中国に戦争で勝つことが目的ではない。
むしろグダグダになって長引くこと

和平案提示に対し、蔣介石率いる国民政府が応じないことを原因として、
交渉打ち切りの声明を発表した。
声明の中で「国民政府を対手とせず」と述べ、
同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発した。
これに対し国民政府側も許世英駐日大使の本国召還を決定した
戦争終結の手がかりを失う。

グダグダは国家総動員法の布石

ここは、国民が気持ちをひとつにして戦争に当たらないと
下手すれば負けてしまいますぞ

昭和13年4月1日、国家総動員法の成立
政府の権限が大幅に強化された法律
民間のあらゆる活動に国家が介入できる
特に、政府が議会を経ずに法律を決められる
近衛の目指す独裁国家へ大きく前進

一旦引いたあと、第二次近衛内閣での大政翼賛会へと繋がっていきます。

極めて危ない橋を渡っています。
目的である、アメリカと戦争してこてんぱんに負けたとして
アメリカから問われる責任が自分に及んではいけません。
責任は天皇と軍の首脳部にだけ及ぶようにする必要があります。

そのために、明確に証拠の残る形で、戦争に反対する必要があります。
自分はずっと戦争には反対していたんだけど
軍が暴走しましてね

日中戦争の始まりの時点では、ちょっとやり過ぎた感があります。
一旦トップから退く必要があります。
戦争反対という立場を明確にします。
ところが、軍が言うこと聞いてくれない。
やってられん、総辞職だ

大芝居です。
絶対にまた自分に声がかかると分かっていての行動です。

このあと、3人の短命内閣が続き
近衛の予定通り、第二次近衛内閣になります。

ところで、この第一次近衛内閣の時、
東京オリンピックが中止になります
昭和11年の事です
幻の東京オリンピック

一旦、3人の首相に話を移し
第二次近衛内閣、第三次近衛内閣で
「近衛文麿の野望」の続きと致します。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

[歳時記]7/20~24 恐山大祭。会ってみたい

7/20~24
青森県下北半島の恐山で7/20~24に恐山大祭が行われます。


恐山といっても、特定の場所を指しているわけではない。
この一帯を指す俗称で、屏風山、北国山、小尽山などの外輪山は、
蓮華八葉をかたどっているといわれている
宇曾利山の湖畔は極楽浜と言われている

また硫黄の噴気候孔などは、血の池、無間地獄、重罪地獄などの
さまざまな地獄や賽の河原

天国と地獄が共存する場所
ということで、死者はこのあたりに住んでいる

はい
イタコさんの登場です。

昔、結構テレビでやってましたよね
死者が乗り移って、替わりにしゃべる
ずいぶん長くテレビで見てないなあ

恐山大祭の時には、青森県内に住んでいるイタコさんが集まってきて
イタコの口寄せをやってくれる

おどろおどろしいです

でも、やっぱり死んだ人に会えるとなったら会ってみたい
身内で言うと母さん
死に目に会っていないからなあ

大学から東京に出てきちゃったから
それ以降はあまり会えなかった
すごく愛されて、感謝しかないのに
感謝の言葉を伝えられていない

何度かはありがとうって言ったんだけど
そんなのじゃまだまだ
ありったけのありがとうを言いたいなあ

あとは、歴史上の人物かな
15代将軍慶喜
なんで鳥羽伏見の戦いで、みんなをほったらかしにして逃げ帰ってきたのか
墓の中まで持っていった、本当の真実を聞いてみたい

あと、7/20は人類が月面に降り立った日でもあります。
1969年7月20日、アメリカが打ち上げた有人宇宙船アポロ11号の
ニール・アームストロング船長が、月面に降り立った
この話は以前にしましたので今回は割愛
良ければこっちも読んでね
[宇宙] あの一歩の跡はどうなっているのか

[季節]シリーズはこちら(少し下げてね)

[三十六歌仙]4 僧正遍昭。世捨て人は微妙な心持ち

三十六歌仙シリーズ

僧正遍昭(そうじょうへんじょう)

いその神 布留の山べの 桜花 うゑけむ時を しる人ぞなき

(石上の地、布留の山に咲く古い桜。この木々を植えた時代を知る人々はもういない。)

この歌にある「いその上」は石上神宮のことと言われています。
天皇家の始祖に関わる大変古い神社で、その辺りの土地は昔「布留」と呼ばれていたことから、
「いそのかみ」の枕詞として使われました。

時代は移り変わっているんだなあ

桓武天皇が下級女官に産ませた皇子がありました。
僧正遍昭(そうじょうへんじょう)の父、
良岑安世(よしみねのやすよ)です。
安世はおそらく母親の身分の低さゆえ、
良岑朝臣という姓を賜って臣下となりました。

しかし安世は臣下として大納言まで昇進し、
最澄の比叡山草創を援助したり、
淳和天皇(桓武天皇の第三皇子、安世には異母兄弟)の命を承けて
勅撰漢詩集『経国集』の撰者となったり、
平安時代初期の文化の発展に貢献しました。

その子、遍昭は、俗名が良岑宗貞(よしみねのむねさだ)
桓武天皇の孫ということになります。
順調に出世を重ね、仁明天皇の時代には要職に就いていました。
美男子で仕事もできて歌もうまい
マルチな才能でもってもて

仁明天皇が崩御すると、もう良いかな、って感じで大葬の役も辞退し出家、
比叡山に入ります。
あまりに突然で失踪事件の大騒ぎになります
その時のエピソードを百人一首シリーズの方で書いていますので
よろしければお読みください。

天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ

修行後は天台宗の僧侶となり、
花山の元慶寺(京都)を建立、仁明天皇の王子より紫野の雲林院を譲られます。

いその神の歌も、
単に、桜を植えた人はもういないなあ、という叙情とともに

昔はもてはやされたり、もてたりしたけれど
世捨て人となった今では
みんな自分の事など忘れちゃってるんだろうな

もちろん、自分で望んでそうしたわけですが

[短歌]シリーズはこちら(少し下げてね)