[迷信]6 柿の木から落ちると3年しか生きられない

柿の木から落ちると3年しか生きられない

かつて木登りは子供たちにとって、もっともスリリングな遊びのひとつだった
それを見ていた大人は「柿の木から落ちると3年しか生きられない」と戒めたものだ。

柿は日本人にとって身近でなじみ深い果物のひとつだ。
縄文時代や弥生時代の遺跡からも柿の種が発掘されているし、
平安時代には宮廷で栽培され、祭礼用の特別な菓子として使われていた。

近年は高齢者や女性でも柿の実を収穫しやすいように低木も育成されているが、
かつては背の高い柿の木が当たり前のようにあった。

その高さがおそらく、子供たちの「登りたい」という意欲を刺激したのだろう。

柿の木の枝
ところが柿の木は、強そうに見えて、じつは枝が折れやすい。

枝に弾力性があり、実がなると下に垂れてくるのが柿の木の特徴だが、
それがある程度の限界を超えると、強風や雪などでも簡単に折れるようになる。

さらに、柿の実がなると、その先の部分の枝が細くなるという性質がある。
だから、柿の実をとろうとして子供が枝先に移動したりすると、折れやすくなる。

また、日当たりが悪いと枝が枯れたり、勢いがなくなることもあり、
1本の木でも日光が当たりにくい下方の部分は枝が弱くなりがちだ。

じつは柿の木には、ねじれて成長するという特徴もある。
そのために、らせん状に割れが入りやすく、木材として使いにくいともいわれる。

柿の木は、見た目よりも脆弱なのである。
そういった柿の木の特徴を知らない子供が、枝の状態をよく見ないで登り、
折れやすい枝に体重をかけてしまって、折れた枝とともに落ちてしまうことも十分にあり得る。
おそらく、そういった事故が多かったのだろう。

良い?
柿の木に登っちゃダメよ

はーい

言葉ではハイって言っても、さあ守るかどうか
そこに柿が成っていますので。

子供を守るため
なんとか分からせたい

怖がって近寄らせないストーリーが出来るんなら
それだって良い

そんな親心が生んだ「迷信」なんだろう

[科学]シリーズはこちら(少し下げてね)

[建武]2 私だって、考えちゃいますよ

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
の続きです。

幕府軍
後醍醐(ごだいご)天皇、護良(もりよし)親王を討つため、
足利高氏や新田義貞も参加している幕府軍

その後、楠木正成(くすのきまさしげ)が守る赤坂城へと向かいますが、
楠木正成は実に強かった。

でもたった500人ではさすがに1ヶ月が限度
もはやこれまで

赤坂城に火を放って自決
真っ黒焦げになっちゃいました。

よし、楠木正成も真っ黒ね
確認を終えて一件落着

のはずだった。

ところが、正成だと思われたのは影武者
本人はちゃっかり逃げ出しておりました。

そして今度は千早城で挙兵
不死鳥の如し
赤坂城の時が500人
今度の千早城が1000人です。

今度の千早城の戦いを制すべく再編成された幕府軍の中に新田義貞(にったよしさだ)がおりました。

ところが、戦の途中で新田義貞は急病にかかります。
致し方なく、故郷の上野(こうずけ)へと戻ります。

この事が、後に大きく影響してきます。

正成は、なぜこりもせず同じことを繰り返したのか
何十万を相手にして
500人が倍の1000人になったからといって勝てる訳がありません。

実はある情報を得ていたからです。
もうすぐ、もうひとりの不死鳥が立ち上がる

後醍醐天皇です。
こっそり隠岐の島を抜け出して
今の鳥取県の豪族、海運業を営んで大金持ちの名和長年(なわながとし)に
匿われていんです。

鳥取県の船上山(せんじょうさん)で、後醍醐天皇と名和長年が挙兵します

幕府軍はびっくり仰天
楠木正成にかまっている場合じゃありません。
大慌てで船上山に向かいます。

楠木正成とすると
ハイ、計算通り

鳥取県のお隣、島根の塩冶氏が、後醍醐天皇側に寝返ったりして
なんと「船上山の戦い」で、後醍醐天皇・名和長年軍が勝利してしまいます。

後醍醐天皇は、船上山に行宮(あんぐう)、つまり仮の御所を作り、
「これより、鎌倉幕府を討伐する」と綸旨を出し、
全国に向けて倒幕の呼びかけをします。

新田義貞
新田義貞と足利高氏に話を移しましょう
足利氏と新田氏は共に源氏で、元々同格の重要な名家です

ところが、源頼朝が挙兵したときの活躍で差が出て
足利氏は源氏の中で大幹部として重用されていくのに
新田氏の方は、だんだん没落していきます。

鎌倉時代も終わりの方になってくると差は歴然となり
足利氏は高い位をもらいますが
新田氏は無位無官のまま
とうとう、本来同格であったはずの足利氏の家来のような立ち回りになっていきます。

で、新田氏はどう考えたかというと
武士としての位や役職等で難しければ、経済だ
と金儲けに走ります。

所領の上野(こうずけ)で様々な改革を成し遂げ
かなり金持ちになっていきます。

さあ、船上山の戦いで負け、えらい事になっている幕府
体勢を建て直すため、先立つものを得ようと
お金持ちの新田義貞にイチャモンをつけます。

お前、大事なところで地元に帰ったよね
何してくれてんのよ
ペナルティね

と、いろんなものを没収です。

お金持ちとは言え、
コツコツ努力を重ねた結果であり
そもそも、戦に狩り出されたので、余裕がなくなっちゃっています。

元々、長年の冷遇で頭に来ています。

そんな事言ってくるんなら
私だって、考えちゃいますよ

足利高氏
一方の足利高氏
こっちは幕府の中では幹部です。

当然幕府軍の中では、中心的役割を担うはず

ところが、一度目の後醍醐天皇捕獲の戦いの直前で
お父さんが亡くなります。

喪に服さないといけませんので
今回ちょっとパスさせてください。

ちょっと待ってくれ、高氏さん
何のための幹部なのよ
あなたにそんな事されちゃうと、他に全く示しがつかないじゃないの

高氏としても
まあ言うことも間違っていないと、従います。

そして、船上山の戦い

今度こそえらい事なので
幕府は高氏に行きたくないと言わせないため先手を打ちます。

妻と長男の千寿王(せんじゅおう)を鎌倉に人質として送らせたのです。

何だとぉ
今度は嫌だなんて一言も言ってないよね
そんな態度取るんだ
今まで、信頼関係でやって来てたのになあ

私だって、考えちゃいますよ

続きはシリーズの次回ね
[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[歳時記]12/16 民間電話が開通する。もしもーし

うっかり、12/16を越えてしまっていました。失礼

12/16
民間電話が日本ではじめて開通したのは、
1890(明治23)年12月16日。

東京・丸の内に電話交換局が開業して、
東京横浜両市内および両市間の電話交換がスタートした。

ところが、最初の加入者は東京で155名、横浜で4名という数字だった。

当時の電話は、「伝話」「伝話機」「伝話蘇言機」「伝語機」などと呼ばれていて、
その 便利さはまだ十分に理解されていなかったようだ。
自宅に電話を持てたのは一部の有力者だけだった。

当時の電話料金は定額料金で東京が40円・横浜35円。
この時代、1円で米が15kg買えたため、
今の値段にすれば40円は24万円くらいに相当し、
当時の電話はとても高価なサービスだった

電話が日本に伝えられたのは、
1877(明治10)年のこと。
そして宮内省でも実験を開始した。

民間電話開通の前年の1月1日には、
一足先に東京熱海間で公衆電話が開業しているとはいえ、
まだ庶民にはあまり縁のないものだった。

おそらく、この公衆電話なのかと思うんだけど
江戸東京博物館には、初めての公衆電話というのが置いてある。

ちなみに、開業当時の電話番号の1番は東京府庁、
2番は逓信省電話局だった。

また、電話の開業にともなう交換手の募集には、
東京1364名、横浜483名というたくさんの希望者が押しかけた。
これが、女性の社会進出のきっかけにもなった。

もしもし
もしもし、って電話の最初に言うけど、
最初からそう言っていたとは考えがたい

最初は、電話をかけるひとは直接相手に繋げる訳ではなく
電話交換手にかける

その時は「おいおい」が多かったらしい。

そのあと、電話交換手がさらに繋げる相手にジャックで刺して繋げるんだけど
その相手に対しては「おいおい」って訳にはいかないから
「申します申します」

だんだん、こっちの方の省略形が定着していって
もしもし、になったらしい。

[歳時記]シリーズはこちら(少し下げてね)

[三十六歌仙]18 素性法師。一瞬の千年

素性法師(そせいほうし)

音にのみ 菊の白露 夜はおきて 昼は思ひに あへずけぬべし

噂にだけ聞いてあなたを思っていると菊に置く白露のように夜は 「起きて」、昼は耐えられず消えてしまいそうな気持ちです

百人一首ではこちら
今来むと 言ひしばかりに 長月の有明の月を 待ち出でつるかな

素性法師の本名は良岑玄利(よしみねのはるとし)

僧正遍昭の息子です。
父に続いて天皇の血筋として生まれ、貴族の子として順調に昇進していました。

ところが、仁明天皇が崩御すると、寵愛されていた父僧正遍昭は、出家してしまいます。

お前も出家せい

えっ私も?そんなあ

若い盛りの頃に望まぬ僧の道へと進むこととなりました
それでも、僧正として大成し、歌僧といわれた父の影響を多分に享受します。

父遍昭の建てた、当時貴族たちのサロンとして多くの歌人が利用していた
雲林院(京都)という寺の別当を任されます。

当時の才人、紀友則や在原業平などの歌人と交流し、
やがて父に続いて「和歌の名士」と呼ばれるほどに名歌を残す僧となりました。

鑑賞
音にのみ 菊の白露 夜はおきて 昼は思ひに あへずけぬべし

噂にだけ聞いてあなたを思っていると
菊に置く白露のように夜は 「起きて」、昼は耐えられず消えてしまいそうな気持ちです

恋しい人に会えずに、様子は人の話に聞くばかり。
ああ、会いたい。
思いが募り眠ることもできません

「きく」=「菊」「聞く」、
「おきて」=「置きて」「起きて(熾きて)」、
思「ひ」=「日」「火」といくつもの掛詞を駆使して、

陽に当たり消えてしまう白露の昼と、
恋心燃える夜という一見対照的な事象を、
恋の苦しみを表す歌として見事に紡ぎあげました。

でも、良いのかなあ
煩悩だらけの気がしますが。

いらんお世話でした。

他の歌もいくつか

梅の花 折ればこぼれぬ 我が袖に にほひ香うつせ 家づとにせむ

(梅の花は、折り取ろうとすれば、こわれて散ってしまう。
だから私の袖に匂いを移してくれ。その香を家へのみやげにするから)

花ちらす 風のやどりは たれかしる 我にをしへよ 行きてうらみむ

(花を散らす風の泊る宿はどこか、誰か知っているか。私に教えてくれ。
そこへ行って怨み言を言おう。)

風が泊まっている宿って、なんてロマンチックなのでしょう

ぬれてほす 山ぢの菊の 露のまに いつか千とせを 我は経にけむ

(菊の露に濡れては乾かしつつ行く山道
――その「露の間」ではないが、
いったいいつの間に千年を私は過ごしてしまったのだろうか)

山奥の仙人の宮殿へ、菊を分けて辿り着いた人を描いた屏風絵に添えた歌

一方で露に濡れると一瞬という「露の間」を言い
その一方で、仙人の千年の時を言う、独特の世界観
屏風を見て、こんな歌が歌えるなんて
ただもんじゃない

[短歌]シリーズはこちら(少し下げてね)