[東京ミステリー]神社の立地が持つ意味

東京はリアス式海岸だった
の続きです

神社
日本は、世界でも断トツで地震の多い国です
そんな中で各地にたてられている神社

東京ミステリーの作者は
その位置に、ある共通点を指摘しています

神社って日本国中に思いっきりあるわけですが
各地の中心になっている一の宮
それを結んでみると、あら不思議

神社は災難に対する怖れという意味合いが強いので
地震を抑えるために、というのは合点がいく
そして各地の「重要な場所」というのが
古代から受け継がれた感覚として存在していたのかも知れない

そして、一の宮は、地震で倒壊したという記録がない

東京で考えてみましょう
前回お話したように「京浜東北線」にほぼ近い、
山の手と下町をはっきり分ける崖のラインが存在する

この崖の上に重要な神社が配置されている

そう言われると随分歩いているが
確かに崖の上に建っている
神田明神は、急激な崖の上だし
湯島天神もしかり
先日行った、江戸の産土神、日枝神社も崖の上

だいたい、男坂女坂というのがあって
急な方が男坂で、なだらかな方が女坂

崖の下の方が参拝も楽だし
危険じゃない気もするのだが
なぜか崖の上

京浜東北線沿いの有名な神社
▼愛宕神社(港区愛宕山)海抜25メートル
▼神田明神(千代田区外神田)海抜21メートル
▼湯島天神(文京区湯島)海抜12メートル
▼上野東照宮(台東区上野公園)海抜12メートル
▼諏方神社(荒川区西日暮里/諏方台・道灌山)海抜20メートル
▼平塚神社(北区上中里)海抜20メートル
▼七社神社(北区西ヶ原/飛鳥山)海抜21メートル
▼王子神社(北区王子本町)海抜14メートル
▼王子稲荷神社(北区岸町)海抜12メートル
▼富士神社(北区中十条)海抜23メートル
▼八雲神社(北区中十条)海抜21メートル
▼若宮八幡神社(北区中十条)海抜15メートル
▼香取神社(北区赤羽西)海抜20メートル
▼赤羽八幡神社(北区赤羽台)海抜15メートル

ここにあげられている神社はほぼほぼ行っていますが
確かに高い

ひとつには、高い方が富士山が良く見えるというのはあるんでしょうが
江戸を治めるという意味で必要だったのかも知れない

[江戸]シリーズはこちら(少し下げてね)

品川歴史館は涙もの。東海道ルート変更。

品川歴史館は涙もの
品川歴史館は涙もの。モースさんと仮営業の時刻表
の続きです。

明治維新 -そのとき品川は

品川歴史館で買った、以前の企画展の内容を収めた本

そこから興味深かったものを紹介しましょう。

幕末が始まったのは、嘉永6年(1853年)ペリー来航
安政5(1858)年に日本とアメリカ合衆国の間で日米修好通商条約締結
その後、立て続けに、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと通商条約締結
安政6(1859)年、高輪の東禅寺にオールコックが公使館を置く
文久元(1861)年、東禅寺が襲撃されます。

恐いよ。お寺を借りる一次的なものじゃなく、安全な公使館を作ってよ
と、イギリス・アメリカ・フランス・オランダが一致団結。

御殿山公使館
分かりました。品川の御殿山に作りましょ

でも、尊皇攘夷ですので、色んな人が大反対
品川宿の人たちも反対意見書を提出しています。

実力行使に出たのが、長州の、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、井上馨ら13人
文久2(1862)年、さっきの絵の横の柵を壊して侵入。放火して全焼させます。
イギリス公使館はほぼ完成していたんですが。

東海道ルート変更
同じく文久2(1862)年、生麦事件が起きます。
薩摩藩が東海道の生麦(現、横浜市)でイギリス人を殺しちゃいます。

さあ、大変。
イギリスからはべらぼうな賠償金を、幕府と薩摩藩に要求されます。
その交渉にプレッシャーを与えるため
イギリスは軍艦12隻を横浜に入港させます。

もうだめだ。戦争になっちゃう
と思った、品川宿の人達は、議定書を作ります。
それが本に載っているんですが
火事になったら目黒の龍泉寺(目黒不動)へ避難すべきこと
火事ではなく避難する場合は各旅籠屋の主人は火の元を確認してから避難するように
と書いてあります。

幕府も、戦争になることを見越して
子供や老人や病人は先に避難すべしと通達を出しています。

そして、これ知らなかったんですが
海沿いの東海道は、防衛上危険極まりないので
ルートを変更しようとしていた。

結局は実現することはなく、幻の計画で終わりました。
金がかかりすぎます

打ちこわし
今までやったことのない海外との貿易が始まり、経済は大混乱
米の値段が急騰します。

投機的に利益を得るため、米を買い占める商店も現れ、混乱に拍車をかけます。

慶應2(1866)年、打ちこわしが起きます。
集団で、米を持つ商店を襲い、打ち壊して、米を強奪し、庶民にばら蒔く

面白いなあと思ったのが、関わった人の目
①打ちこわしに行く人の目
②打ちこわしが来たときの目
③あくる日の目
④こわした人の目
⑤施しを受けた人の目

品川県
さあ、いよいよ明治です。
江戸は東京と名前を変え、
明治天皇が京都から東京にやって来る

首都が東京になりました。

東京府というのができます。
でも、品川は、東京府には入れてもらえなかった。
元々、品川は江戸には入っていませんのでね。
高輪の大木戸門までが江戸です。
だから、高輪ゲートウェイなんです。

じゃあ、品川はどこに入ったかというと、「品川県」

現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区および、
いわゆる多摩地区の東部・南部、さらに埼玉県・神奈川県の一部を管轄
明治2年です。

すごい!
品川が代表で名前をつけてもらったんですね。

当初、事務は仮に設けられた日本橋の事務所でやってたんですが
ちゃんと県庁を設けましょうと、決められたのが、東海寺の場所

県庁の建物を作ったのですが
残念
台風で全壊

ええーっ
また作り直し?

と思っていたら、そのすぐあと
明治4年 廃藩置県
品川県自体、無くなっちゃいます。

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[徳川将軍の演出力] 上覧相撲で小野川の運命やいかに

徳川将軍の演出力から

徳川将軍の演出効果が功を奏したのでしょう。
庶民にも、将軍の持つ意味はとても大きい。

相撲
江戸時代に最も人気の高いスポーツは相撲
深川の富岡八幡宮、芝の神明宮、そして本所の回向院
勧進相撲が実施される。

安永7(1778)年から、日にちが8日から10日に伸び
天保4(1833)年からは、回向院で常設の興行場所となる
江戸では、春と冬の二場所、京都で夏場所、大阪で秋場所の計4回

相撲人気の高まりには、上覧相撲が一役買った
寛政3(1791)年、時の将軍は11代家斉
だいたいこういうのって家斉

相撲が見たいなあ

はい、承知しました。

江戸城吹上庭園にて相撲を行うべし
分かったな

江戸中大騒ぎになります。

当時、人気力士は諸大名のお抱えになっていることが多かった
細かく言うと「お出入り」と「お抱え」
お出入りは化粧回しを下賜され、番付に藩の名前が入る
お抱えになると、そもそもお給料が藩から出る

人気力士を抱えた諸大名は、仙台藩、久留米藩、熊本藩などの大藩
これ、江戸検定で良く出るのよね
雷電為右衛門は何藩のお抱えでしょう。
はい、松江藩

お抱えの人気力士の勝敗は、自家の名誉そのもの
場外に各藩の馬が留めてあって、勝敗が早馬で各武家屋敷に報せられる。

そんなに気合いが入っているので
上覧相撲ともなると、藩の行く末を左右する

当時最高位は大関
横綱はたまに任ぜられる名誉職みたいなもの
その時、大関は谷風と小野川

珍しく両者とも、横綱にもなっています。

小野川は久留米藩有馬家
谷風は仙台藩伊達家

久留米藩有馬頼貴は、
もし伊達家の谷風に負けるような事が有ったら、切り捨てにすると言い切った。

結びの一番は、文字通り、命がけの大一番

両者気合い十分

はっけよーい、残った

おっと
行事の軍配は、谷風に

両者気合い十分だったのに、小野川が待ったをかけちゃった
ってことで谷風の勝ち

小野川、敗けはしたが組み合っていないし
命を取るまではねえと、悲劇は起きずに済んだ

事前に有馬頼貴の件を知っていての行事の配慮だったのかも知れません。

いずれにしても大盛り上がりで、家斉も大満足
上覧相撲は以降、4回も行われます。

庶民の間でも相撲が大ブームになり
男の子の遊びの定番になります。

[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

未来のための江戸学

未来のための江戸学、という本を読みました。

江戸という時代から、何を学ぶべきかという内容

学ぶべき事と学ぶべきでない事が存在する

私も、江戸がとても好きになって以来、
何故なんだろうと考え続けている

江戸の人逹ってなぜこんなにも幸せそうで楽しそうなんだろうと。

鎖国
いくつかキーワードはあるけど、やっぱり鎖国というのは大きいでしょう。
とはいえ、諸外国との関係を全てシャットアウトしたわけではない
正式な国交があった通信の国が、琉球と朝鮮。
正式な国交がない、通商の国がふたつ。オランダと清

一番の目的は、キリスト教の禁止
だから、その目的にとって問題なければ、何かを取り入れることは構わない
8代将軍吉宗は、積極的に西洋の技術を取り入れている
好奇心が旺盛だったので
外国から、象もラクダもサラブレッドも連れてきた。

科学のレベルは、西洋にそれほど劣っていなかった。

鎖国の目的は、キリスト教以外にあったのではないか。
江戸時代の大きな特色は、外国のものを取り入れなかったというより
「外に出ていかなかった」ということにある

秀吉は朝鮮に出ていって支配しようとした。
家康は、それをしなかった。

帝国主義を否定した。

西洋の技術で、江戸にないもの。
それは産業革命。大量生産の技術

大幅に生産力がアップ
それだけなら良かったが
せっかく大量に生産できるのに、肝心の原材料が枯渇してきた
よし、それじゃあ、植民地というのを作れば良い

解決

今度は、国内に物が溢れ、国民が物を買わなくなってきた。
いかん、せっかく大量に生産できるのに。

よし、植民地に売れば良い

帝国主義の出来上がり。

実は江戸時代のごく初期の頃
日本で大量の鉱物資源を産出できるようになった。
特に、銀。
当時、世界でも銀の輸出量はナンバーワンとなった。

バンバン掘り出し、バンバン外国に売って
いっぱい品物を買い漁った。

江戸幕府が急に大金持ちになる

でも長くは続かなかった。
鉱物資源が枯渇してきて、
蓄えを食い潰していく時代に入る

一度甘い汁を吸っている
もし、これが秀吉なら間違いなく帝国主義的行動に出たでしょう。

徳川将軍たちは家康の教えを守り
決して、外に出て解決する道を取らなかった。

国内だけで経済を回す。

参勤交代を始めとして
国内だけで生産と消費をバランスさせる知恵を絞っていく。

日本には「始末」という考え方がある
始めがあれば終わりもある
永遠に伸び続けるという考え方は取らない
始末をつける

全国だったり、季節だったりで、巡る、ようにする

リサイクルで物を使い回しするのもその一つ

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