品川歴史館は涙もの。東海道ルート変更。

品川歴史館は涙もの
品川歴史館は涙もの。モースさんと仮営業の時刻表
の続きです。

明治維新 -そのとき品川は

品川歴史館で買った、以前の企画展の内容を収めた本

そこから興味深かったものを紹介しましょう。

幕末が始まったのは、嘉永6年(1853年)ペリー来航
安政5(1858)年に日本とアメリカ合衆国の間で日米修好通商条約締結
その後、立て続けに、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと通商条約締結
安政6(1859)年、高輪の東禅寺にオールコックが公使館を置く
文久元(1861)年、東禅寺が襲撃されます。

恐いよ。お寺を借りる一次的なものじゃなく、安全な公使館を作ってよ
と、イギリス・アメリカ・フランス・オランダが一致団結。

御殿山公使館
分かりました。品川の御殿山に作りましょ

でも、尊皇攘夷ですので、色んな人が大反対
品川宿の人たちも反対意見書を提出しています。

実力行使に出たのが、長州の、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、井上馨ら13人
文久2(1862)年、さっきの絵の横の柵を壊して侵入。放火して全焼させます。
イギリス公使館はほぼ完成していたんですが。

東海道ルート変更
同じく文久2(1862)年、生麦事件が起きます。
薩摩藩が東海道の生麦(現、横浜市)でイギリス人を殺しちゃいます。

さあ、大変。
イギリスからはべらぼうな賠償金を、幕府と薩摩藩に要求されます。
その交渉にプレッシャーを与えるため
イギリスは軍艦12隻を横浜に入港させます。

もうだめだ。戦争になっちゃう
と思った、品川宿の人達は、議定書を作ります。
それが本に載っているんですが
火事になったら目黒の龍泉寺(目黒不動)へ避難すべきこと
火事ではなく避難する場合は各旅籠屋の主人は火の元を確認してから避難するように
と書いてあります。

幕府も、戦争になることを見越して
子供や老人や病人は先に避難すべしと通達を出しています。

そして、これ知らなかったんですが
海沿いの東海道は、防衛上危険極まりないので
ルートを変更しようとしていた。

結局は実現することはなく、幻の計画で終わりました。
金がかかりすぎます

打ちこわし
今までやったことのない海外との貿易が始まり、経済は大混乱
米の値段が急騰します。

投機的に利益を得るため、米を買い占める商店も現れ、混乱に拍車をかけます。

慶應2(1866)年、打ちこわしが起きます。
集団で、米を持つ商店を襲い、打ち壊して、米を強奪し、庶民にばら蒔く

面白いなあと思ったのが、関わった人の目
①打ちこわしに行く人の目
②打ちこわしが来たときの目
③あくる日の目
④こわした人の目
⑤施しを受けた人の目

品川県
さあ、いよいよ明治です。
江戸は東京と名前を変え、
明治天皇が京都から東京にやって来る

首都が東京になりました。

東京府というのができます。
でも、品川は、東京府には入れてもらえなかった。
元々、品川は江戸には入っていませんのでね。
高輪の大木戸門までが江戸です。
だから、高輪ゲートウェイなんです。

じゃあ、品川はどこに入ったかというと、「品川県」

現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区および、
いわゆる多摩地区の東部・南部、さらに埼玉県・神奈川県の一部を管轄
明治2年です。

すごい!
品川が代表で名前をつけてもらったんですね。

当初、事務は仮に設けられた日本橋の事務所でやってたんですが
ちゃんと県庁を設けましょうと、決められたのが、東海寺の場所

県庁の建物を作ったのですが
残念
台風で全壊

ええーっ
また作り直し?

と思っていたら、そのすぐあと
明治4年 廃藩置県
品川県自体、無くなっちゃいます。

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

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