初孫がこんな形で(くうちゃんシャケちゃん)

お休みのカミさんから、家族のグループラインに、写真が送られてきました。

何?この丸っこいの

ひょっとして!

初孫
うちの可愛い子供達、セキセイインコの空(くう)ちゃんとシャケちゃん。
毎日毎日、まあ仲良いのなんのって。
普通に餌食べれば良いものを
口移しで相手にあげる。

ボトボトボトボト落とすから
餌の消費量の多いのなんのって

部屋の中に離しても
せっかく広いところに出たんだから
好きなところを飛び回れば良いものを
いつもいつも一緒。

これは、初孫が出来るのも時間の問題と思っておりましたが
そこからが長かった。
こりゃ、そういう体質なんだと思っておりましたが
突然やってまいりました。

やっぱり、人間の娘達より早かったね。

孵るか
くうちゃん(女の子)は卵を産んだままほったらかし。
こりゃ、ちょっと期待薄か

次女が
私たちの子供として育てようか。

彼氏が出来た次女
ここでいう私たちとは、誰と誰の事を言っているんでしょうか

そもそも、何かっちゅうと彼氏のところにお泊まりして
帰って来ない帰ってこない。

今年の夏、むちゃくちゃ雨がよく降りましたよね

今年の夏に雨が降った日と
次女が家に帰ってこなかった日は
どちらが多かったでしょう。

はい
次女が帰ってこなかった日です。

今日、カミさんから
卵産まれたんだから帰ってこーい

一方の長女はというと
今週は、海外のバリに旅行中
若い人は優雅で良いですね
学生の時、パリに行っているから
パリとバリ、両方制覇です。
今度はバリジェンヌ。
両方制覇したのは、我が東久留米市では皆無じゃないかな

長女は、
何で私がいるときにやってくれないのよ

様子
カミさんに、産まれたときの様子を聞くと

お父さんが豆でも置いたんじゃないかと思って
ゴミ箱に捨てたのよ
でも、あれっと思ってもう一回拾った。

いつもは巣箱はそこそこ出入りするんだけど
逆に全然入っていきませんね
その中に入れてあげたんだけど
藁みたいなのも敷いた
いつもならそんなの敷いても全部出しちゃうんだけど
それもしない。

ネットとかで見ると
5個ずつ続けざまに産むというから
どんどん続くかも知れません。
今朝もシャケちゃんがくうちゃんに乗っかっておりました。

お腹が重いんでしょうか
放鳥しても全然飛びたとうとしません。

さあ、どうなりますことやら。

ぬいぐるみ
くうちゃんシャケちゃんと言えば

以前、長女がくうちゃんにそっくりの、可愛いぬいぐるみを2個買ってきました。

喜んで遊ぶかと思いきや
ほら、可愛いでしょうと近づけても
怖がって逃げてしまいます。

自分よりでかいと怖いのかなあ

そのまま、長らく忘れておりました。

部屋に放鳥すると、大体行くところは決まっているんですが
お気に入りの場所が一個増えた。
カーテンの上のところ

それ自体は良いんだけど
横の壁紙をかじってボロボロにしちゃいます。

こりゃたまらん

カミさんが良いこと思い付いた。

ぬいぐるみを置いとこう。

大成功!

一切近づかなくなりました。

ところが
それから一ヶ月くらい経って

こともあろうに、怖がりのシャケちゃんが
勇猛果敢にチャレンジ

大丈夫だ
おそってこない
ねえ、くう
大丈夫だよ

くうちゃんも
あっ、そうなんだ

あんなに怖がっていたのに
ちょっとつついたりもしつつ
壁紙かじりにいそしむようになってしまいました。

カミさんに

とうとう慣れちゃったよ。

あら残念

あっそうだ!

カミさんは頭良いね
2匹置いて完全ブロック

さあ、どうなる

翌日放鳥すると
真っ先に向かったシャケちゃん
あわてて引き戻しました。

大笑い。
それ以降、今のところ平和です。

[百人一首]71 夕されば~

夕されば 門田の稲葉 おとづれて
葦のまろ屋に 秋風ぞ吹く

夕になれば門の前の田の稲葉に音を立て訪れて
葦葺きの小屋に秋風が吹くよ

秋の3連チャンの最後です。

源経信
時代が大きくうねりをあげて変わろうとしています。

平安王朝の藤原の栄華が陰りをみせてきた。
道長や頼通・教通ら、藤原氏の実力者たちも死んだ
あの、紫式部も

頼通の娘たちは、道長の娘の様に、皇子を生むことが出来なかった。

源経信(つねのぶ)は、移り変わりの時期を象徴する第一人者と言えます。

源経信は、超ビッグ、藤原公任の再来とも言われる三船の才
承保三年(1076)秋、白河天皇が大堰川に行幸されたとき、
詩・歌・管絃三つの船を浮かべて、それぞれの道に堪能の人々を乗せられた。

藤原公任の時とシチュエーションは一緒ですね。

そこに遅刻していった経信

ひざまづいて
どの船でも良いから、乗せてくだされ!

どの分野でも私は専門家と言えますよ

という事で三船の才

でも後に、あれは自分が三船の才、藤原公任の再来だとアピールしたいがために
わざと遅れたんじゃないかと言われちゃっています。

この時、経信は61歳
その歳にしてそんなに血気盛んだったというのが良いですね。

そして

経信、3つの才だけではなかった。
勇猛果敢な武人だったのです。

こんな絵が残っています。

経信のところに鬼がやって来る。

経信は逃げ出すでもなく、追い払うでもなく、暫し歓談。
すると鬼は漢詩を吟じています。

それまでの時代の、庶民と解離した風流の世界に対し
最終的には、武士が置き換わっていく訳ですけど
この時は、経信の様に、今までの風流も超一流にこなしつつ
武芸をプラスオンしたひとがヒーローになっていくのです。

鑑賞
この頃、貴族たちは、都から離れた田舎っぽい山荘を建てて
そこで、まったり別荘ライフを楽しむ事が流行っていた。

この歌は、宇多源氏一族の持っていた源師賢の別荘にみんな集まり
田んぼ、山荘、秋を題材に歌を詠んで楽しんでいたときの歌。

三船の才らしく、一気に三つのお題を全て盛り込んじゃった。

門田とは、門の前に広がる田園風景。
さらに、訪れると音をかける事も忘れていない。

見事な情景詩。

ただ、経信が詠んだというところに
さらにプラスされた意味を感じる。

秋といえば、物哀しさを詠う。

でもここでの注目は「稲葉」
「稲穂」ではない。

まだ実をつけていないので
これから実りの秋を迎えて、さあこの後収穫だ
という秋の入り口

そこでは、物哀しさだけではなく
喜びの秋に対する期待感

秋風が吹き抜けて
ようし、これからやるぞ!

この「やるぞ!」が意味するところは
「ようし、この一帯をしっかり護るぞ!」
なんです。

単なる貴族と違い、農民が農業を営んでいる地域を護るという職業になる武士
元々は貴族だってそこから出発していたはずなのに
いつの間にか、農民たちとは別世界。

意識の面で、農民たちの側に近づいて行く。
そういう背景も合わせると、田舎に作った山荘
のんびりゆったりのつもりで最初は作ったかもしれないけど
実益も兼ねるようになったのかも知れない。

気になって百人一首を全て見返してみました。

田んぼの国、稲の国の大和の筈が
田んぼや稲を詠った歌は、実に飛鳥時代の第1首
天智天皇の
秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ
以来になります。

この後もないんですけどね。

やっぱりすごいです。藤原定家。
秋三部作で、三者三様の秋を並べ
最後には、

日本の秋は田んぼでしょ!

[仏像の見分け方]金剛力士 阿吽形

仏像の見分け方シリーズ
今回は、金剛力士です。

別名、仁王様

金剛力士
金剛力士とは、金剛杵(こんごうしょ)を持ったものという意味です。
金剛杵とは要するに武器なんですが、こんないわれがあります。

金剛杵
インドラ(帝釈天)は、敵を倒すため、ブラフマー(梵天)に相談した。

ダディーチャという偉大な聖仙に骨を下さいと頼めば、自分の骨をくれるから、
その骨でヴァジュラ(金剛杵)を造ればいいよ。

ダディーチャのところに行って、
そんなこと言われたんだけどどうかな

いいよ
と息を引き取った。

で、その骨で手先が器用な、トゥヴァシュトリ(工巧神)に頼んで
金剛杵を作ってもらい、見事目的を達成。

なんともすごい展開です。
金剛杵は色んな種類があるんだけど
有名なのは
独鈷杵(どっこしょ)三鈷杵(さんこしょ)五鈷杵(ごこしょ)

どっこいしょ、はここから来ています(ウソ)
金剛夜叉明王の時も出てきましたね
[仏像の見分け方]金剛夜叉明王

釈迦如来の守護神
それも、倶生神(ぐしょうしん)という位置付け
倶生神とは、護るべき相手と一緒に産まれ両肩に乗って一生護り続ける

最初は金剛力士は一人だったんだけど
両肩に乗らないといけないし。
寺で、護るとなるとやっぱり門のところ。
門だと2人は欲しいよねってことで二人に分化した。
阿吽(あうん)ですね。
二人になったから仁王様。

阿吽
阿吽に関しては、「ん」の話でいっぱい説明しました
「ん」がなかった。続きの続き。空海のチャレンジ
あ と ん はサンスクリット語で初めの音と終わりの音
たまたま、日本の五十音と一緒だったんですね。
中国には「ん」の漢字はない。
「吽」というのはサンスクリット語の「ン」を説明するときだけに使われる便宜的な漢字です。

宇宙は阿で始まって吽で終わる
阿吽はその全てということになります。
狛犬もそうですね。

見分け方
これは簡単
門のところに大概居ます。
筋肉隆々
最初は武将形で服来ていたんですが
ここまで立派に鍛えていると何かにつけて筋肉を見せたくなるのが人情ってもんです。
なかやまきんに君と一緒ですね。

向かって右が阿形で左が吽形
たまに逆もありますが
金剛杵を持っていない時もあるんですが
持っているときは阿形が独鈷杵、吽形が五鈷杵ってことが多いかも。

仏像のかっこよさランキングでは堂々の一位ですね。
仏師の腕の見せ処です。
教科書でも出てきました、
運慶快慶

でも、いつも思うんですが
大体、どこでも前にアミアミが張られていて
綺麗に写真撮れないんですよね。
悔しい!
仁王様あるあるですね。

仁王様も思っているでしょうね
朝から晩まで気合い入れて、ずっとポーズ撮っているのに
また写真撮るのあきらめんのかいっ

抜群の体をしているので
ご利益は健康
良くしたい体の部分に紙つぶてを投げつけると
そこが調子よくなる

ゴミだらけになって大変だから
アミアミでカバーしたのかなあ
それを目的で来た人は、どうしてくれるの?
考えてほしいな





干支はここにもあそこにも

前回、暦の話をしました。
暦ってそういうカラクリだったのか

六十干支
十干と十二支の組み合わせで60通り

甲子(きのえね)で始まると、60年後までは甲子はやって来ません。

歴史
この、年に対する別名は歴史上の大きな出来事の名前になったりします。

例えば、戊辰戦争。
1868年(慶應4年)になります。

よく安政の大獄の様に元号が出来事の名前になることが多いんですが
考えてみれば、元号だと、具体的に何年なのか特定できない。

西暦がない当時は、年の名前で出来事を表現した方が
すぐ分かるんですね。
こりゃ合理的だ。

君は何年産まれだい?
辰か、ひょっとしてあの戊辰戦争の?
みたいに。

あれっ
そういうと、もうひとつ似たような
桜田門外の変の引き金になった、水戸藩が朝廷から受け取った、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)

ん?
同じ「戊(つちのえ)」だ
十干が同じちゅうことは、ひょっとして戊辰戦争の10年前?
調べてみたらぴったしかんかん。
1858年。
それをきっかけに2年後に桜田門外の変だから、桜田門外の変は1860年。

それから一気に幕末へと突き進み
戊辰戦争の年、イコール明治維新だから
実に8年間の激動だったんだと
干支が分かると、年の間隔が良く分かるね

次の話に入る前にクイズを出します。
【問】
六十干支の始まりは甲子(きのえね)ですね
この甲子の年に大きな出来事が起きています。
さてなんでしょう。
答は最後に書くので考えてね。

富士山
60年に一度というと思い浮かぶのが二つ。

富士山とおかげまいり。

富士山は通常女人禁制だったんです。
でも、60年に一度、女人禁制が解かれることがある

その年は富士山は大混雑
女性も、富士山に登れる大興奮から恍惚状態になり
見知らぬ男女入り乱れての乱痴気騒ぎになる

幕末に近くにも解禁の年があって、その時が一番すごかった。
それは、本で読んで知っていて
その状態って、ええじゃないかに酷似しているから
ええじゃないかのきっかけに、富士山解禁があったんじゃないかと思っていた。

今回、調べると、解禁は、庚申(かのえさる)
なるほど!
庚申なら良く分かる。
庚申塚のあの庚申。特別な年です。
庚申は、色々面白い話があるので今度別に話しますね。

庚ということは、
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸(コウオツヘイテイボキコウシンジンキ)
だから、戊の次の次
戊午の密勅の2年後です。1860年。
桜田門外の変と同じ年なのか

血生臭い事件と世相
干支を見ると面白い繋がりが見えますね。

ええじゃないかは?
1867年

惜しいなあ
7年離れてると、富士山からの影響とはちょっと言い難いか。

ところで、この1860年の解禁の年
開国後初めてのイギリス駐日公使オールコックも富士登山しているんです。
さらに、その7年後、解禁の年でもないのに、
オールコックの次のイギリス公使パークスの奥さんも富士登山しています。
止められなかったんでしょうね。
でも、そのおかげで、それ以降女人禁制が解かれることになります。

もうひとつの、約60年に1度のおかげまいり。
ぴったり60年じゃないので、同じ干支ではありませんでした。
残念

年号末尾
先程の戊午の密勅と戊辰戦争の1858年と、1868年。
お気づきでしょうか。
同じ戊だと末尾の一の位の数字が同じになります。
十干は十進法ですからね。

ということは、歴史的出来事も末尾だけはすぐ分かります。

これからは私が開発したオリジナルのやり方です。

まず、甲が一の位が4であることは覚えてください。
「甲」と言いながら右手で4本の指、薬指までを折ります。

以降、乙丙丁戊己庚辛壬癸(オツ・ヘイ・テイ・ボ・キ・コウ・シン・ジン・キ)
を知りたいところまで指を折りながら数えてください。
最後まで行ったら戻りながらね。
最後に折られている指の数が、一の位の数字です。

やってみましょう。

乙巳の変(いっしのへん)昔、大化の改新と言っていたやつです。
乙ですから甲乙で、45
645年です。合ってました。

壬申の乱(じんしんのらん)
壬ですから、甲乙丙丁戊己庚辛壬 456789012
672年です。

戊午の密勅と戊辰戦争は
甲乙丙丁戊 45678
1858年と、1868年。

富士山女人解禁は庚申の年でしたね
甲乙丙丁戊己庚 4567890
1860年

辛亥革命(しんがいかくめい)中国の革命です
甲乙丙丁戊己庚辛 45678901
1911年

おおっ、全部合ってました。
近くに受験生がいたら教えてあげてね。

本当は、10の位の出し方も考えついたんだけど
結構ややこしいので、説明するのやめときます。

【答】
甲子園球場のオープンです。
1924年。
簡単でしたね。

次回以降
さっき言った、庚申の話や、八百屋お七の産まれた年の割り出し方の話をしていきますね。