[百人一首]85 夜もすがら

夜もすがら 物思ふころは 明けやらで 
閨のひまさへ つれなかりけり

一晩中、つれない人を想ってなげくこの頃は、夜もなかなか明けず
光の差さない寝床の横の板戸の隙間さえつれなく思えるわ

俊恵法師
俊恵法師(しゅんえほうし)は
71.夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く
の源経信の孫で
74.憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを
の源俊頼の子供

親子三代で百人一首に採用された堂々たる家系ですね

本人も非常に優れた歌の才能を持っていて
自宅を「歌林苑」と呼んで
毎月歌の会を催している
有名どころが常連さん

そして、あの鴨長明もお弟子さんです。

鑑賞
俊恵法師が、女性の気持ちになって詠った歌です。

当時は通い婚なので、女性はただ待つばかり

ああ、あの人は今日も来ていただけなかったわ

いいや、今日は寝ちゃえ

・・・・

うそ
寝れないじゃない

どうしましょ
せっかく寝ようと思ったのに

・・・・

いくらなんでも、もうすぐ朝だと思うけど

(何度も板間の隙間を見て)
いつまでたっても、光が射してこないわ

ねえねえ、隙間さん
あなたまで、私につれなくするのね

・・・・

なんだか気持ちがおさまらないわ
何なのよあなた

この際、はっきりしておきましょう

あなたねえ

あなたは
ただの隙間よ

こういう歌です。

面白いですね
隙間に話しかけている感じが
発想としてとても斬新です。

こんなことまで三十一文字にしちゃうって
ただもんじゃないですね。

さらに、和歌の無限の可能性を
改めて感じてしまう、一首です

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山脇東洋。初の人体解剖

江戸の理系力シリーズ

天文学、数学ときて、今回から、医学

待ってました!

山脇東洋
やまわきとうよう 医学者 1705~1762

五臟六腑(ごぞうろっぷ)って言いますね
五臟とは、内臓のこと
心臓、肝臓、脾臓、肺臟、腎臓のこと
六腑とは、
胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦(さんしょう)

ああ、五臟六腑に染み渡るって言いますね

中国から伝わってきたことだけど
疑問を持ったのが、山脇東洋

ほんまかなあ

東洋は京都の医者の息子
父と同じ道に進む

でも、早くに父が亡くなり、
山脇玄修の養子になる。
そして、大家、後藤艮山(こんざん)の弟子になる

艮山が、
カワウソを解剖して見れば?

なぜなら
当時、死者であっても解剖が禁止されていたから。

カワウソが人間に近いよ。

やってみると
そもそも、五臟六腑とも全然違う

先生、なんか違う気がするんですけど

あら、そう
実はわしも知らんのじゃ

ますます、解剖したい気持ちが強くなっただけ

許可願い
お役所に人体解剖許可願いを出す。

いや
駄目なんですけど知りません?

分かっているから願いを出しているんですが

駄目だから駄目なんです。

さあ、どうしたか

もう一回出しました。

駄目だから駄目なんです

もう一回出しました。

断られても断られても
そこをなんとか
そこをどうにか

どれだけ出したと思います?
20年です。

東洋は50歳になっていました。

この時、東洋の弟子の小杉玄適が小浜藩の藩医だったんですが
京都所司代に小浜藩の藩主酒井忠用(ただもち)が着任したんです。
平たく言えば、根回しがやっと効を奏する舞台が生まれた。
20年間、手を変え品を変えやり続けた成果ですね

宝暦4(1754)年、斬首された罪人の首さらされた
胴体は通常埋められるんだけど、
埋められる前に、良いですよ

禁止は禁止なので
医師が手を出してはいけません。
雑役係が刀を握って、東洋の指示で刀を入れる
こっちから、こう開いてもらって良いですか

つぶさに観察して、図におこしていく。

いよいよ心臓が見えた。

きれいだ
まるで紅い蓮の蕾みたいだ
今にも開花しそうに見える

蔵志
5年後、解剖の記録「蔵志(ぞうし)」を刊行しました。
日本人初の解剖の本になります。


有名な「解体新書=ターヘルアナトミア」の16年前になります。
この、前野良沢(りょうたく)、杉田玄白(げんぱく)については、次回書きますね
ちなみに、杉田玄白も小浜藩の藩医です。

賛否両論
人体解剖は大きな社会的影響を与えました。
多くは精神論
死者とはいえ、人体を切り刻むとは何事だ
気や陰陽といった漢方医学からすると、それに何の意味があるのかという意見

実は、20年の間に、東洋も西洋の解剖の本を入手していました。
東洋が西洋、ややこしいですね。

中国の五臟六腑図と余りにも違う人体の図

どっちが、どの程度正しいんだろう。

そして、山脇東洋によって勝負が決したとも言える訳です。

西洋医学は正しい。

これは、漢方医学の人達からすると、受け入れがたいとんでもない結論

ここから、大きく医学の歴史が変わっていったとも言える訳です。

若い医師たちには目の前が広がった瞬間でもあります。

そして、その中には、前野良沢や、杉田玄白もいたのです。

次回は、その続きになります。

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囲碁棋士、小林禮子の手紙

心にひびく日本語の手紙、シリーズです。

囲碁棋士、小林禮子(れいこ)さんのちょっと変わった手紙になります。

夢で石田君と早碁の機会を得た。
正体のない碁だったらしく、局後その意味のことを指摘される。
心の通わない碁を打ちはじめて久しい。
夢ではなくこれは現実。
今の私はなにを求めて生きているのでしょう。
以前のままの私の方が好きなの?
三年前に戻れというの?
それは無理です。
私はあなたのなかに住みはじめているのですから。
広い外界から自分をシャットアウトして、
私はただあなただけを見つめて生きているのです。
ほかのものは私の目のなかに入りません。
あなたの吐く息のなかでひそかに呼吸することに
喜びを感じはじめているのです。
もし、世の中のいろいろなものが目のなかに入ってきたら
私は今の自分の行動を推し進めることができないかもしれないのです。
見て見ないふりではないの。
すでに見えなくなっているのです。
恋は盲目というのはあたっています。
手合いやめて、稽古やめて、一日中あなたのことを想い続けて

ラブレター
ラブレターですね

背景が分からないと分かりにくい手紙です。

小林禮子さんは、17歳で囲碁棋士デビューし、女流名人として活躍。
「あなた」は誰かというと小林光一。やはり囲碁棋士
旦那さんです。

この手紙の時点で、結婚しています。

えっ
結婚しててラブレター?
直接言えばいいじゃん、て思いますね

光一は、12歳の時、禮子のお父さん木谷實のところに弟子入りします。
その時、禮子は25歳。
6年後、二人は愛し合うようになり、光一は禮子にプロポーズ

周囲は大反対
師匠の娘に手を出すとは何事だ
しかも、13歳も年上女房
結婚まで、3年もかかります。

でも、ようやく結婚できて良かったね
チャンチャン

大恋愛の末の結婚で、9年もの交際のあと。
新婚の時は盛り上がるでしょうけど
まあ、あとは下り坂。
一般的にそう思います。

どこかの家庭の話ではなく、
あくまでも一般論。

ところが、禮子の気持ちの中で
じわじわーじわじわーと変化が生じていく。

旦那さんの事が好きで好きで仕方なくなってくる
そして、仕事が手につかなくなってくる
これはまずい

本人は随分思い悩みます。
その時の心情を正直に書き留めたのが
この手紙です。

渡されなかった手紙
実は、この手紙渡されていません。

平成6年、禮子はガンの宣告を受けます。
そして2年後、光一を残して帰らぬ人となります。

囲碁棋士って棋譜というのをつけるそうです。
細かな対戦記録

光一は死後、禮子のつけた棋譜を整理していました。

そして、この手紙を見つけるんです。

・・・

こんなことってあるでしょうか
飾らない
そして、渡されなかった手紙

それほどまで・・

初めて知った気持ち

なぜ渡さなかったのか
渡せなかったのか
光一には全てが分かったと思います。

彼女の人生の全て。

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渋沢栄一 その5 渋沢栄一は魔法使い

渋沢栄一シリーズその5

渋沢栄一 その1 クーデター計画
渋沢栄一 その2 パリ万博から諸外国
渋沢栄一 その3。日本に帰って見たもの。そして何をしたのか
渋沢栄一 その4 明治新政府はあれもこれも

みんながすぐイメージ出来る渋沢栄一は財界人としての渋沢栄一ですよね
ようやく、その5で、財界人としての渋沢栄一になる訳で
まあ、すごい人生ですねえ

官庁を去って
あれもこれも、あらゆる仕事をやってのけて
実質中心人物だったのに
さっと辞めちゃった。

でも、やりたいことがあっての辞職だから
さあ、いよいよこれからだ!

やりたいことは何か
日本の近代的産業全てを立ち上げる
全てです全て

ある意味、今までの延長
官僚としての財界を全てリードしてきて
今度は、財界側に入り込んで、中側から全てをリードする
あれとこれ、ではなく全てなんです。

実際に
全て、ではないにしても
ほぼ全ての産業をリードする企業の立ち上げに関わった。

第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上

可能ですか?
あり得ないですよね

これだけ並べられると
実際に携わっている訳がない
金だけ出して
後はよろしく、なんでしょう
と言いたくなります。

でも、考えても見てください。
当時の日本に、
後はよろしく、って言われて
はい、任しといて下さい、って言える人材がいる筈ありません。
全員、未経験者です。

「金だけ出して」も無理です。
渋沢栄一は大金持ちのお坊っちゃまではありません。
元は百姓、直近は公務員です。

金を作りながら、になります。

金を作りながら
人材を作りながら
手探りで
試行錯誤で
人の意見を聞き
ダメだと思うとすぐにやり方を変えて
ありとあらゆる事を同時並行で進めていく。

魔法使いです。
そうとしか思えません。

当時、渋沢批判も多数あったようです。
会社経営ってものはそんな簡単なものじゃない
ひとつの会社にじっくり腰を落ち着けないと
どれもが中途半端になるに決まっている

もっともですね

でも、大体そういう人たちは本人に会ったことがなく
まあ、そう言わずに一度本人に会って、話をしてみなさいな
と言われて会ってみて
批判を撤回していったようです。

魔法使いとしてのオーラなんでしょうか

では、その魔法使いの仕業を
もう少しだけ詳しく見ていきましょう。

第一国立銀行
教科書で習うのはこれでしょうか
渋沢栄一と言えば、銀行の父

渋沢が外国で見て、最も衝撃を受け
帰ってきて、静岡でやりかけて
官僚として、具体的な仕組み造りを行った

やりたいことの中核です。
「金を作りながら」の必須です。
銀行あってこその「全ての産業」造りです。

第一国立銀行創立総会があったのが明治6年6月11日

辞表提出が5月4日なのでほぼ1か月後

当然銀行関係者としては
最大のビッグニュースとして伝わっている。

創立の道筋をつけてくれた恩人なので
当然招待されていて
出席すると
駆け寄ってきた。

聞きました。
誠にお気の毒ではありますが
手前どもとしては、これ以上の吉報はございません。

ぜひ、私どもに来ていただきご尽力いただけませんでしょうか

良かったですね
やりたいことはそれなんだけど
お宅に入りたいから辞めたんです。
入れさせてください、というのもちょっとね。

井上馨、大隈重信にも
お伺いを立て
関係者全員大賛成で事が進んだ

というのも、ちょっと困り事があった。
第一国立銀行創立メンバーは
三井組と小野組に分かれるんだけど
ほぼ同格の規模であるために
同じくらいの人数構成になっている
そのままでは、程なくして分裂の危機があるだろう。

どうしても、その上に立つ人が欲しい。
でもそんな人いる訳ない
一人を除いては。

頭取は三井組、小野組からの二人体制
でも、更にその上に総監役という新設の役職を設けて
渋沢はそこに位置した。

ちなみに、第一国立銀行
国立と付いていますから
今の日本銀行の様に日本国に所属する銀行だと思いがちです。
私もそう思っていました。

実は、民間の銀行なんです。
でも、今の民間の銀行ともちょっと違っていて
紙幣を発行する権利まで持っています。
まだ、日本銀行はありませんので。

さあ、この三井組と小野組の主導権争い
翌7年に思わぬ形で決着します。

小野組が潰れてしまうんです。
まさかの、最悪の決着
当然、第一国立銀行としても連鎖倒産の危機に見舞われます

渋沢が先手先手を打ったこともあるけど
小野組の、小野善右衛門と並ぶツートップ
古河市兵衛の潔い振る舞いあっての事でしょう。
「迷惑をかけぬよう」
最後の渋沢との会談では無念の思いで男泣きに泣き
全ての要求を受け入れます。

全く古いタイプの人間で読み書きも不得意
新しい世の中には着いていけなかったんでしょうが
渋沢の事が大好きで、「殿、殿」と慕った。

こういう人が捨て石になっての明治なのかも知れません。

長くなりました。
このあとのそれぞれの産業については、また次回。

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