山脇東洋。初の人体解剖

江戸の理系力シリーズ

天文学、数学ときて、今回から、医学

待ってました!

山脇東洋
やまわきとうよう 医学者 1705~1762

五臟六腑(ごぞうろっぷ)って言いますね
五臟とは、内臓のこと
心臓、肝臓、脾臓、肺臟、腎臓のこと
六腑とは、
胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦(さんしょう)

ああ、五臟六腑に染み渡るって言いますね

中国から伝わってきたことだけど
疑問を持ったのが、山脇東洋

ほんまかなあ

東洋は京都の医者の息子
父と同じ道に進む

でも、早くに父が亡くなり、
山脇玄修の養子になる。
そして、大家、後藤艮山(こんざん)の弟子になる

艮山が、
カワウソを解剖して見れば?

なぜなら
当時、死者であっても解剖が禁止されていたから。

カワウソが人間に近いよ。

やってみると
そもそも、五臟六腑とも全然違う

先生、なんか違う気がするんですけど

あら、そう
実はわしも知らんのじゃ

ますます、解剖したい気持ちが強くなっただけ

許可願い
お役所に人体解剖許可願いを出す。

いや
駄目なんですけど知りません?

分かっているから願いを出しているんですが

駄目だから駄目なんです。

さあ、どうしたか

もう一回出しました。

駄目だから駄目なんです

もう一回出しました。

断られても断られても
そこをなんとか
そこをどうにか

どれだけ出したと思います?
20年です。

東洋は50歳になっていました。

この時、東洋の弟子の小杉玄適が小浜藩の藩医だったんですが
京都所司代に小浜藩の藩主酒井忠用(ただもち)が着任したんです。
平たく言えば、根回しがやっと効を奏する舞台が生まれた。
20年間、手を変え品を変えやり続けた成果ですね

宝暦4(1754)年、斬首された罪人の首さらされた
胴体は通常埋められるんだけど、
埋められる前に、良いですよ

禁止は禁止なので
医師が手を出してはいけません。
雑役係が刀を握って、東洋の指示で刀を入れる
こっちから、こう開いてもらって良いですか

つぶさに観察して、図におこしていく。

いよいよ心臓が見えた。

きれいだ
まるで紅い蓮の蕾みたいだ
今にも開花しそうに見える

蔵志
5年後、解剖の記録「蔵志(ぞうし)」を刊行しました。
日本人初の解剖の本になります。


有名な「解体新書=ターヘルアナトミア」の16年前になります。
この、前野良沢(りょうたく)、杉田玄白(げんぱく)については、次回書きますね
ちなみに、杉田玄白も小浜藩の藩医です。

賛否両論
人体解剖は大きな社会的影響を与えました。
多くは精神論
死者とはいえ、人体を切り刻むとは何事だ
気や陰陽といった漢方医学からすると、それに何の意味があるのかという意見

実は、20年の間に、東洋も西洋の解剖の本を入手していました。
東洋が西洋、ややこしいですね。

中国の五臟六腑図と余りにも違う人体の図

どっちが、どの程度正しいんだろう。

そして、山脇東洋によって勝負が決したとも言える訳です。

西洋医学は正しい。

これは、漢方医学の人達からすると、受け入れがたいとんでもない結論

ここから、大きく医学の歴史が変わっていったとも言える訳です。

若い医師たちには目の前が広がった瞬間でもあります。

そして、その中には、前野良沢や、杉田玄白もいたのです。

次回は、その続きになります。

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山脇東洋。初の人体解剖」への1件のフィードバック

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